声を聞かせて

 理想の声がある。 
 嬉しいとき、そして何より苦しいときに何度も「頑張れ!」とその声で励まされるのを妄想してきた。
 私は何よりも漫画好き。そして声フェチでもあるのかもしれない。


      ***


 高校二年生になって、初めてのホームルーム。自己紹介が淡々と行われていた。私は時々船を漕ぎながら自分の番を待っていた。

「は、橋本颯太と、言います」 

 耳に入ってきた声に私は一瞬にして覚醒した。
 起きたのに、夢でも見ているのかと思った。その声は、私の理想の声そのものだったからだ。

 私が最も好きな短編漫画の中で、一言だけしか話さない男性キャラがいて、私は彼、「勇斗君」が大好きだった。漫画を読むと、自分の中でキャラにぴったりな声が勝手に脳内で再生される。特に好きな声優がいるわけではないので、想像の声だ。やや低い、でもよく通る耳に心地よい声が、「勇斗君」の声だった。私にとっては至上の声。
 その「勇斗君」の声を現実で聞くことができるなんて!

 教室ではくすくすという笑い声があがっていたが私にはどうでもよかった。私は声の主、橋本君の方に視線を向けた。

 教室で一人立っている橋本君は、いたって平凡、いや、むしろかなり地味な少年だった。
 襟足と前髪がやや長めの髪。日に焼けてない白い肌に黒縁の眼鏡がどこか不健康そうな印象だ。背は私と同じくらいだろうか。
「よ、よろしくお願いします」
 橋本君が言ってから深々と頭を下げて席に着くのを見て、私はそっと息を吐いた。 
 声は「勇斗君」そのものなのに、あまりにも「勇斗君」と違い過ぎた。「勇斗君」は日に焼けた肌と短髪が似合う、野球少年だった。吃音を馬鹿にするような気持ちは全くない。橋本君の容姿をどうこう言える立場にもない。けれど、はあっと私はまたため息をついた。橋本君には本当に失礼だけれど、声が似合っていなくてチグハグな感じがした。
 それでもまだ耳に残っている。「勇斗君」いや、橋本君の声。もっと聞きたい。イメージは壊れていきそうなのに、それでも現実で聞けるなら聞いていたい。
 矛盾した気持ちに悶々としていると、
「樋口? 樋口遥? いないのか?」
 とクラス担任が言う声が遠く聞こえた。
 樋口遥。私の名前だった。
「は、はい!」
 私は慌てて立ち上がった。
「樋口遥です。部活は入ってません。運動音痴です。よろしくお願いします」
 私の身長は百六十七センチ。漫画オタク(まではいかないと自分では思っているのだけれど)とばれないようにベリーショートにしている。そのせいで背が高くて見かけだけは活発に見える私は、よくバスケ部員と間違えられてしまう。一年生の時は球技大会の種目をバスケにされて、散々みんなの足を引っ張ってしまった。
 私は席に座ると、もう一度橋本君の方を見た。橋本君は下を向いて一心不乱に何かを書いていた。
 何を書いているんだろう。
 気になったけれどずっと橋本君を凝視するわけにもいかない。私は再び睡魔に身を任せようとして、
「雪村蛍です。生徒会書記をしています。部活は弓道部です。どうぞよろしくお願いします」
 張りと透明感のある声に、私は声の主を思わず振り返った。
 長い艶やかな黒髪を後ろで束ねている雪村さんは、背筋がすっと伸びていてとてもスタイルがよかった。意志の強そうな整った眉と、長い睫毛に縁取られたアーモンド型の目。通った鼻筋に口角の上がった薄めの唇。私だけでなく、クラスの誰もが雪村さんを見つめていた。
 雪村さんの名前は何度も目にしたことがある。彼女はいつも試験の度に全教科上位にいるからだ。でも雪村さんの姿を見たのは初めてだった。こんなに綺麗な女子だったんだ。
 一瞬、心の奥がちりりと痛んだ。
 頭も良くて容姿も完璧でなんて自分とは違うんだろう。きっと雪村さんの人生は漫画のヒロインのように違いない。

 有名人で美少女の雪村さん。そして、私の心を揺さぶる声の男子、橋本君が同じクラス。
 
 高校生になった時は、中学とは違う、きっと素敵な学園生活となるに違いないと期待に胸を膨らませていた。でも、一年過ごして分かってしまった。私みたいな平凡すぎる生徒に特別なことなんて起こらないんだって。部活に入っていたらまた違っていたのかもしれない。でも、私は部活するより漫画を読みたいのだ。変化を求めているのにいまいち行動ができない自分。そんな自分にもやもやしていた高校二年初日。
 期待をしたらがっかりするとは思っていても、二人の存在にどきどきしている自分がいた。