体験入部に来ていた一年生たちは早々に、他の部員や顧問も出払い、日はとっくに暮れている。
暗がりの中の弓道場で一人、月明かりだけを頼りに練習するこの時間が神坂蒼は何となく好きだった。
構えの姿勢から弓を打起し、引分ける。彼が狙うはただ一点。まだ冷える春先の夜の空気を吸って息を整え、矢先を見据える。今、と思った瞬間に弓を引いて――射る。
肉眼で捉えられるのは矢の筋くらいで軌道は見えないが、蒼は音で察している。放たれた矢が吸い込まれるように的の中心に突き刺さった、と。
「……つまんな」
弓を下ろした蒼は、嫌気が差した自分に向けてそっと呟く。
ただ楽しいというだけで練習するような純粋さは持ち合わせていない。孤高、百発百中、弓道部のエース。たった一年で貼られたレッテルの数々が努力の成果だという証明を作る為だ。本当は自主練なんてしなくても中てられる。風を読んだら機械的にパターンを練り出して、決まった動きで射ればいい。
滲んだ汗が冷えて肌寒さが気になり始めたので、今日はこの辺で切り上げることにした。的場に行けば、矢は予想通り中心を射抜いていた。
ブレザーに着替え、リュックサックや弓袋など荷物を一式持って弓道場を出る。誰にすれ違うこともなく校舎に戻ると、日直の先生によって殆どの照明が落とされていた。スマホを開いて夜七時を過ぎているのを確認し、懐中電灯機能のボタンを押す。脱いだローファーを律儀に下駄箱へ仕舞い、スリッパに履き替えて二階の職員室を目指した。
スマホで足元を照らしつつ階段を駆け上がる。左右に伸びた廊下の内、職員室のある右手と反対側に明かりがついた教室があった。耳を澄ませば微かにギターの音が聞こえてくる。聴いたことのない落ち着いたメロディー。音色に温度なんて無いのに不思議と温かみを感じられる。ギターは授業で齧ったから多少は弾けるけれど、こんなにも優しい音で、魅力的な演奏は到底できない。
……誰が弾いてるんだろう。
弓道場の鍵を返す目的を後回しにして、光源に向かい夢中で歩を進めた。そこが自分の教室だと気付いたのは、扉の前に着いた時だった。
うっすらと開いた扉の隙間から中の様子を窺うと、音の発信源は目の前にあった。教室の後方、一番最後の出席番号の人が座る右端の席で、アコースティックギターを抱える男子生徒。スラックスを履いた脚はすらりと伸びており、指定の紺のネクタイを緩く締め、グレーのカーディガンをゆったりと羽織っている。大きな袖から覗く色白で細長い指が慣れた手つきで弦を弾いていく。リズムを取るのに彼が体を傾ける度、ミルクティーのような淡い色の髪がさらさら揺れる。伏せた目はどこか儚げで、穏やかな表情。
……綺麗だ、と思った。
蒼は目を瞬く。二年生に進級して早一カ月、この席の主に会ったことがないどころか顔すら知らないのだ。彼がその主であるかは不確定だが。
その風貌に気を取られていると、明らかに曲の途中だったにも拘わらず、ぴたりと音が止まった。ギターに落とされていた視線が蒼に投げられる。目が合った瞬間、ひくりと肩を震わせて怯えたような反応をした彼に違和感を覚えた。隠れて演奏を聞いていたから驚いたのか、或いは極度の人見知りか、その辺りだろうか。
兎にも角にも、気付かれてしまっては致し方ない。蒼は扉を人ひとり通れる幅まで開け、教室に足を踏み入れた。
「こんばんは。君、もしかして若桜くん?」
席の主の名を挙げると、虚ろにも見えた彼の目に眩しい程の光が宿った。突き動かされるように机に置かれた水色のスマホを手に取って何かを打ち込み、蒼に画面を見せた。メモアプリに一文だけ、こう表示されている。
『そう! 若桜晴です』
蒼の推測は当たりだった。名前の字面らしく温厚そうな人で良かったと胸を撫で下ろす一方で、この筆談的な会話がどうにも気になる。一人で喋っているみたいで慣れないが、何かしら事情があるのだろうからと継続することにした。
「初めまして、同じクラスの神坂蒼です」
晴は蒼が見やすいようスマホを机に置き直し、一行開けて入力し始めた。それからすぐ、見てとでも言うようにスマホを指差す。その指示に蒼は迷いなく身を屈めて画面を見た。
『知ってるよ』
ぴく、と眉が動いたのを蒼は自覚した。入学当初から学校を休みがちという話で有名な、今年度に至っては一度も教室に顔を出していない晴に、蒼との接点はある筈がない。
さすれば噂を耳にしたか。優等生で通っているが万が一ということもある。変な情報が流れてなければいいけど、と懸念しつつ探りを入れる。
「なんで知ってるの?」
『去年の新入生代表挨拶で見た』
「よく覚えてたな」
『ずっと笑顔なのに、つまんなそうに話してたから印象にのこ』
同級生相手とはいえ、あまりにも失礼な文言に途中ではた、と我に返った晴は蒼に目を向けると慌てて両手を左右に振った。すぐさま人差し指で削除キーを長押しすれば、軽快な音を鳴らしながら文字が消えていく。こうして白紙になったメモに短い謝罪の言葉を打った。
『ごめん 無神経だった』
「別にいいよ。何も間違ってないしね」
投げやりに言い放って、蒼はリュックの肩紐を空いた左手で握り締める。初対面の人間に見抜かれていたとは思いもしなかったのだ。
方法さえ理解してしまえば、蒼は何事も卒なくこなせた。お蔭で他人に頼られるのは良いことだけれど、何をしてもやり甲斐というものを感じられない。頑張ったからこその達成感も知らない。弓道だって幼馴染と一緒にやりたくて始めたし、射に集中している間は現実を忘れられるから続けているだけだった。
交友関係を持っても結局、幼馴染以外はみんな勝手に蒼を羨んで恨んで離れていく。だから高校では一線を引いて、常日頃より深い交流は控えていた。
俯いて黙りこくった蒼の視界に晴の手のひらが映り込み、現実に意識が引き戻される。不安げに瞳を揺らしながら、晴がスマホをそっと差し出した。
『神坂くん、人生楽しい?』
「楽しそうに見える?」
『じゃあ一緒だね』
「あんなに楽しそうにギター弾くのに?」
蒼がギターを一瞥して言うと、晴は首肯する。
『ギターしかないんだよ 虚弱体質ですぐ体調悪くなるし、声でなくなっちゃったし、何もできなくて周りに迷惑かけてばっかだから』
声が出なくなった。あっさり告げられた事実に当然衝撃を受けながらも、蒼は敢えて触れなかった。
「しかって言うには勿体ないくらい上手かったよ」
『それは嬉しいけど、』
晴の素早いフリック操作がぴたりと止まる。それ以上は言いにくいことなのかもしれないと察した蒼は話題を変えた。
「学校に来たのは、どうして」
戸惑いながらも晴は書きかけの一行を削除して全く新しい文面を打ち込む。
『単位やばいから補習 他の生徒に会いたくなくて夜にしてもらった』
「成程ね。補習はもう終わった?」
『終わったよ 明日から普通に学校来ないかって言われて、今そういうの考えたくなくて親迎えに来るまでギター弾いてたとこ』
「そっか。僕は別に嫌なら来なくていいと思うけど。精神的負担が大きくなって体調崩したら元も子もないし……でも」
そこで口を噤んでしまった。意味もなくネクタイの結び目に触れる。来なくていいと言った蒼が更に言葉を重ねるのは、ただの我儘でしかない。けれど晴は続きを待っているようだった。蒼を真っ直ぐに見つめる目。躊躇いは消え失せた。
「いつでもいいから、また此処でギター弾いてよ」
瞠目した晴は数回瞬きを繰り返した後、目線をスマホに戻して指を動かす。
『わかった』
蒼が受け入れられたことに安堵するのも束の間。ふにゃりと表情筋を緩めた晴は、またスマホに向き直った。
『神坂くんは、』
行き場を失った人差し指が宙を彷徨う。それも数秒のことだった。
『なんでここに来たの?』
そんなことか、と期待して損したような気分になったが、この心情は胸の奥に仕舞っておくことにする。
「僕は弓道場の鍵返しに階段上がって――」
はっと蒼は思い出す。自主練からの帰り、毎日迎えに来てくれる同居人の存在を。
やば、と焦りが声に出る。薄々嫌な予感がしつつも右手に握られたスマホを開けば案の定、十数件の着信とメッセージの通知が連なっていた。
「ごめん、迎え来てるから帰る」
うんうん、と何度も首を縦に振る晴。時間の余裕がない蒼に配慮してか、もうスマホのメモアプリを介したやり取りをするつもりは無いらしい。
「じゃ、また明日」
きょとんとした晴の表情はすぐ微笑みに変わり、けれども少し寂しそうに眉を下げて小さく手を振る。本人が望んだとしても、明日学校に来れる確証は無いのだろう。蒼もまた手を振り返して扉を閉めた。
廊下を進む道中でため息を吐く。あんなに人と距離を取ることに注力してきた筈が、久しくも不必要なほど長く喋ってしまった。しかも晴の事情だけ聞き出して、自身については殆ど語っていない。なのに文句一つ言わないし訊いてくるでもない、晴と話していると調子が狂う。大きく脈打つ心臓の音に、蒼は気付かないフリをしていた。
グラウンドに一台ぽつんと停まった白の普通乗用車に近付くとエンジンがつき、運転席側の窓が下りた。
「遅い」
夜なのにサングラスをかけている年上の幼馴染――相楽夾也が怒る姿は少し怖くて、それはそれは治安が悪い。自然と受け答えの声も小さくなってしまう。
「ごめん。クラスの人と話してた」
「蒼が、同級生と?」
ぎこちなく頷くと、夾也はサングラスを外して「早く乗りな」と言い放ち、窓を閉めた。これは今日の出来事を洗いざらい吐かされるパターンだと悟る。お互いに進学先が近かった関係でルームシェアしているので、帰宅後まで話が続く可能性は無きにしも非ず。長丁場になる覚悟を決めて蒼は助手席に座った。
走り出した車は二人の住まうアパートへの帰路を外れ、夾也のお気に入りのドライブコースに入っていく。こうして寄り道するのは翌日が運転手の休日である時だけだ。黒鉛色の塊が波打つ海沿いの道に出ると、ついに夾也が口を開いた。
「誰と話してたのさ」
「若桜くん」
「あ、病弱か何かで学校休んでる子か。補習でも受けに来てたん?」
「そう。補習終わって、親の迎え待つのにギター弾いて時間潰してた」
「ギター持ち込みとか許されるんやね」
「心の支えだから、だと思う。『ギターしかないんだよ』って言ってたし」
車窓からの景色を呆然と眺める。月光を反射した水面が弾けるようにきらきらと輝いている。昼はもっと明るいんだろうなという思考は、明日を想起させるには充分だった。
「重荷だったかな」
「何がさ」
「別れ際に『また明日』って言ったの、良くなかったかもなって」
捉え方次第では、明日絶対に来いと言われたようにも思える呪いの言葉。それを安易に伝えてしまったことを蒼は後悔していた。当時の晴が見せた複雑な表情がどうにも忘れられなかった。すると突然、ぽんと置かれた手で乱雑に頭を撫でられた。
「何、急に」
「学校で待ってくれてる人がいるってだけで嬉しいもんよ。だから大丈夫」
「……そうかな」
「そうだよ」
断言されて、ほんの少しだけ心が軽くなったような気がした。
「で、若桜くんはギター上手いの?」
「夾くんが一番聞きたかったのそれでしょ」
「んはは、バレた」
四月に大学生になった夾也は弓道を続けながら、同級生と作ったサークルでバンド活動をしている。ベース担当の彼は時折、もう一人くらいギターが欲しいなんて呟いていた。
「アコギだけど、たぶん夾くんより上手いよ」
「言うねぇ……単に蒼が若桜くんの音が好きなだけって線もなくもないけど」
「そんなに僕の評価が信用ならない?」
「違うよ。若桜くんへの評価が高いからびっくりしてんの」
だって、と言いかけて唇を結ぶ。
あの胸の奥をじんわりと温めるような音。言うならば森の木漏れ日。或いは冬に別れを告げ、ゆっくりと表舞台に上がる春みたいで。バンドマンらしい、かっこいい演奏をする夾也とは全くの別物だった。
「へぇ、そんなに気に入ったの」
「は、いや、違くて……」
「そこは素直に好きでいいのに。俺も聴きたいなぁ、若桜くんの音」
にまにまと嫌らしい笑みを浮かべる夾也を殴り飛ばしたい衝動を抑えるべく、蒼は車窓の外に意識を向ける。そろそろ街へ戻る道に入るだろう。
またギターを弾いて欲しいと言う蒼に『わかった』と晴は了承した。もしかしたら明日には聴かせてくれるかもしれない。限りなく低い可能性でも蒼の胸は弾んでいた。学校に行くのが楽しみなのは、一体いつぶりだろう。
蒼の口角が自然と緩むのに、ちらりと隣を見た夾也だけが気付いていた。
暗がりの中の弓道場で一人、月明かりだけを頼りに練習するこの時間が神坂蒼は何となく好きだった。
構えの姿勢から弓を打起し、引分ける。彼が狙うはただ一点。まだ冷える春先の夜の空気を吸って息を整え、矢先を見据える。今、と思った瞬間に弓を引いて――射る。
肉眼で捉えられるのは矢の筋くらいで軌道は見えないが、蒼は音で察している。放たれた矢が吸い込まれるように的の中心に突き刺さった、と。
「……つまんな」
弓を下ろした蒼は、嫌気が差した自分に向けてそっと呟く。
ただ楽しいというだけで練習するような純粋さは持ち合わせていない。孤高、百発百中、弓道部のエース。たった一年で貼られたレッテルの数々が努力の成果だという証明を作る為だ。本当は自主練なんてしなくても中てられる。風を読んだら機械的にパターンを練り出して、決まった動きで射ればいい。
滲んだ汗が冷えて肌寒さが気になり始めたので、今日はこの辺で切り上げることにした。的場に行けば、矢は予想通り中心を射抜いていた。
ブレザーに着替え、リュックサックや弓袋など荷物を一式持って弓道場を出る。誰にすれ違うこともなく校舎に戻ると、日直の先生によって殆どの照明が落とされていた。スマホを開いて夜七時を過ぎているのを確認し、懐中電灯機能のボタンを押す。脱いだローファーを律儀に下駄箱へ仕舞い、スリッパに履き替えて二階の職員室を目指した。
スマホで足元を照らしつつ階段を駆け上がる。左右に伸びた廊下の内、職員室のある右手と反対側に明かりがついた教室があった。耳を澄ませば微かにギターの音が聞こえてくる。聴いたことのない落ち着いたメロディー。音色に温度なんて無いのに不思議と温かみを感じられる。ギターは授業で齧ったから多少は弾けるけれど、こんなにも優しい音で、魅力的な演奏は到底できない。
……誰が弾いてるんだろう。
弓道場の鍵を返す目的を後回しにして、光源に向かい夢中で歩を進めた。そこが自分の教室だと気付いたのは、扉の前に着いた時だった。
うっすらと開いた扉の隙間から中の様子を窺うと、音の発信源は目の前にあった。教室の後方、一番最後の出席番号の人が座る右端の席で、アコースティックギターを抱える男子生徒。スラックスを履いた脚はすらりと伸びており、指定の紺のネクタイを緩く締め、グレーのカーディガンをゆったりと羽織っている。大きな袖から覗く色白で細長い指が慣れた手つきで弦を弾いていく。リズムを取るのに彼が体を傾ける度、ミルクティーのような淡い色の髪がさらさら揺れる。伏せた目はどこか儚げで、穏やかな表情。
……綺麗だ、と思った。
蒼は目を瞬く。二年生に進級して早一カ月、この席の主に会ったことがないどころか顔すら知らないのだ。彼がその主であるかは不確定だが。
その風貌に気を取られていると、明らかに曲の途中だったにも拘わらず、ぴたりと音が止まった。ギターに落とされていた視線が蒼に投げられる。目が合った瞬間、ひくりと肩を震わせて怯えたような反応をした彼に違和感を覚えた。隠れて演奏を聞いていたから驚いたのか、或いは極度の人見知りか、その辺りだろうか。
兎にも角にも、気付かれてしまっては致し方ない。蒼は扉を人ひとり通れる幅まで開け、教室に足を踏み入れた。
「こんばんは。君、もしかして若桜くん?」
席の主の名を挙げると、虚ろにも見えた彼の目に眩しい程の光が宿った。突き動かされるように机に置かれた水色のスマホを手に取って何かを打ち込み、蒼に画面を見せた。メモアプリに一文だけ、こう表示されている。
『そう! 若桜晴です』
蒼の推測は当たりだった。名前の字面らしく温厚そうな人で良かったと胸を撫で下ろす一方で、この筆談的な会話がどうにも気になる。一人で喋っているみたいで慣れないが、何かしら事情があるのだろうからと継続することにした。
「初めまして、同じクラスの神坂蒼です」
晴は蒼が見やすいようスマホを机に置き直し、一行開けて入力し始めた。それからすぐ、見てとでも言うようにスマホを指差す。その指示に蒼は迷いなく身を屈めて画面を見た。
『知ってるよ』
ぴく、と眉が動いたのを蒼は自覚した。入学当初から学校を休みがちという話で有名な、今年度に至っては一度も教室に顔を出していない晴に、蒼との接点はある筈がない。
さすれば噂を耳にしたか。優等生で通っているが万が一ということもある。変な情報が流れてなければいいけど、と懸念しつつ探りを入れる。
「なんで知ってるの?」
『去年の新入生代表挨拶で見た』
「よく覚えてたな」
『ずっと笑顔なのに、つまんなそうに話してたから印象にのこ』
同級生相手とはいえ、あまりにも失礼な文言に途中ではた、と我に返った晴は蒼に目を向けると慌てて両手を左右に振った。すぐさま人差し指で削除キーを長押しすれば、軽快な音を鳴らしながら文字が消えていく。こうして白紙になったメモに短い謝罪の言葉を打った。
『ごめん 無神経だった』
「別にいいよ。何も間違ってないしね」
投げやりに言い放って、蒼はリュックの肩紐を空いた左手で握り締める。初対面の人間に見抜かれていたとは思いもしなかったのだ。
方法さえ理解してしまえば、蒼は何事も卒なくこなせた。お蔭で他人に頼られるのは良いことだけれど、何をしてもやり甲斐というものを感じられない。頑張ったからこその達成感も知らない。弓道だって幼馴染と一緒にやりたくて始めたし、射に集中している間は現実を忘れられるから続けているだけだった。
交友関係を持っても結局、幼馴染以外はみんな勝手に蒼を羨んで恨んで離れていく。だから高校では一線を引いて、常日頃より深い交流は控えていた。
俯いて黙りこくった蒼の視界に晴の手のひらが映り込み、現実に意識が引き戻される。不安げに瞳を揺らしながら、晴がスマホをそっと差し出した。
『神坂くん、人生楽しい?』
「楽しそうに見える?」
『じゃあ一緒だね』
「あんなに楽しそうにギター弾くのに?」
蒼がギターを一瞥して言うと、晴は首肯する。
『ギターしかないんだよ 虚弱体質ですぐ体調悪くなるし、声でなくなっちゃったし、何もできなくて周りに迷惑かけてばっかだから』
声が出なくなった。あっさり告げられた事実に当然衝撃を受けながらも、蒼は敢えて触れなかった。
「しかって言うには勿体ないくらい上手かったよ」
『それは嬉しいけど、』
晴の素早いフリック操作がぴたりと止まる。それ以上は言いにくいことなのかもしれないと察した蒼は話題を変えた。
「学校に来たのは、どうして」
戸惑いながらも晴は書きかけの一行を削除して全く新しい文面を打ち込む。
『単位やばいから補習 他の生徒に会いたくなくて夜にしてもらった』
「成程ね。補習はもう終わった?」
『終わったよ 明日から普通に学校来ないかって言われて、今そういうの考えたくなくて親迎えに来るまでギター弾いてたとこ』
「そっか。僕は別に嫌なら来なくていいと思うけど。精神的負担が大きくなって体調崩したら元も子もないし……でも」
そこで口を噤んでしまった。意味もなくネクタイの結び目に触れる。来なくていいと言った蒼が更に言葉を重ねるのは、ただの我儘でしかない。けれど晴は続きを待っているようだった。蒼を真っ直ぐに見つめる目。躊躇いは消え失せた。
「いつでもいいから、また此処でギター弾いてよ」
瞠目した晴は数回瞬きを繰り返した後、目線をスマホに戻して指を動かす。
『わかった』
蒼が受け入れられたことに安堵するのも束の間。ふにゃりと表情筋を緩めた晴は、またスマホに向き直った。
『神坂くんは、』
行き場を失った人差し指が宙を彷徨う。それも数秒のことだった。
『なんでここに来たの?』
そんなことか、と期待して損したような気分になったが、この心情は胸の奥に仕舞っておくことにする。
「僕は弓道場の鍵返しに階段上がって――」
はっと蒼は思い出す。自主練からの帰り、毎日迎えに来てくれる同居人の存在を。
やば、と焦りが声に出る。薄々嫌な予感がしつつも右手に握られたスマホを開けば案の定、十数件の着信とメッセージの通知が連なっていた。
「ごめん、迎え来てるから帰る」
うんうん、と何度も首を縦に振る晴。時間の余裕がない蒼に配慮してか、もうスマホのメモアプリを介したやり取りをするつもりは無いらしい。
「じゃ、また明日」
きょとんとした晴の表情はすぐ微笑みに変わり、けれども少し寂しそうに眉を下げて小さく手を振る。本人が望んだとしても、明日学校に来れる確証は無いのだろう。蒼もまた手を振り返して扉を閉めた。
廊下を進む道中でため息を吐く。あんなに人と距離を取ることに注力してきた筈が、久しくも不必要なほど長く喋ってしまった。しかも晴の事情だけ聞き出して、自身については殆ど語っていない。なのに文句一つ言わないし訊いてくるでもない、晴と話していると調子が狂う。大きく脈打つ心臓の音に、蒼は気付かないフリをしていた。
グラウンドに一台ぽつんと停まった白の普通乗用車に近付くとエンジンがつき、運転席側の窓が下りた。
「遅い」
夜なのにサングラスをかけている年上の幼馴染――相楽夾也が怒る姿は少し怖くて、それはそれは治安が悪い。自然と受け答えの声も小さくなってしまう。
「ごめん。クラスの人と話してた」
「蒼が、同級生と?」
ぎこちなく頷くと、夾也はサングラスを外して「早く乗りな」と言い放ち、窓を閉めた。これは今日の出来事を洗いざらい吐かされるパターンだと悟る。お互いに進学先が近かった関係でルームシェアしているので、帰宅後まで話が続く可能性は無きにしも非ず。長丁場になる覚悟を決めて蒼は助手席に座った。
走り出した車は二人の住まうアパートへの帰路を外れ、夾也のお気に入りのドライブコースに入っていく。こうして寄り道するのは翌日が運転手の休日である時だけだ。黒鉛色の塊が波打つ海沿いの道に出ると、ついに夾也が口を開いた。
「誰と話してたのさ」
「若桜くん」
「あ、病弱か何かで学校休んでる子か。補習でも受けに来てたん?」
「そう。補習終わって、親の迎え待つのにギター弾いて時間潰してた」
「ギター持ち込みとか許されるんやね」
「心の支えだから、だと思う。『ギターしかないんだよ』って言ってたし」
車窓からの景色を呆然と眺める。月光を反射した水面が弾けるようにきらきらと輝いている。昼はもっと明るいんだろうなという思考は、明日を想起させるには充分だった。
「重荷だったかな」
「何がさ」
「別れ際に『また明日』って言ったの、良くなかったかもなって」
捉え方次第では、明日絶対に来いと言われたようにも思える呪いの言葉。それを安易に伝えてしまったことを蒼は後悔していた。当時の晴が見せた複雑な表情がどうにも忘れられなかった。すると突然、ぽんと置かれた手で乱雑に頭を撫でられた。
「何、急に」
「学校で待ってくれてる人がいるってだけで嬉しいもんよ。だから大丈夫」
「……そうかな」
「そうだよ」
断言されて、ほんの少しだけ心が軽くなったような気がした。
「で、若桜くんはギター上手いの?」
「夾くんが一番聞きたかったのそれでしょ」
「んはは、バレた」
四月に大学生になった夾也は弓道を続けながら、同級生と作ったサークルでバンド活動をしている。ベース担当の彼は時折、もう一人くらいギターが欲しいなんて呟いていた。
「アコギだけど、たぶん夾くんより上手いよ」
「言うねぇ……単に蒼が若桜くんの音が好きなだけって線もなくもないけど」
「そんなに僕の評価が信用ならない?」
「違うよ。若桜くんへの評価が高いからびっくりしてんの」
だって、と言いかけて唇を結ぶ。
あの胸の奥をじんわりと温めるような音。言うならば森の木漏れ日。或いは冬に別れを告げ、ゆっくりと表舞台に上がる春みたいで。バンドマンらしい、かっこいい演奏をする夾也とは全くの別物だった。
「へぇ、そんなに気に入ったの」
「は、いや、違くて……」
「そこは素直に好きでいいのに。俺も聴きたいなぁ、若桜くんの音」
にまにまと嫌らしい笑みを浮かべる夾也を殴り飛ばしたい衝動を抑えるべく、蒼は車窓の外に意識を向ける。そろそろ街へ戻る道に入るだろう。
またギターを弾いて欲しいと言う蒼に『わかった』と晴は了承した。もしかしたら明日には聴かせてくれるかもしれない。限りなく低い可能性でも蒼の胸は弾んでいた。学校に行くのが楽しみなのは、一体いつぶりだろう。
蒼の口角が自然と緩むのに、ちらりと隣を見た夾也だけが気付いていた。
