目眩がしてそのまま転ぶと思った体は、ぐいっと腕を引かれて桂に抱き止められた。

「大丈夫か!? 悪い急に立たせて。ちょっと待ってろ、先生に早退って言ってくるからな」
「ん、大丈夫……」

 桂は細身に見えるのに、受け止めてくれた体は意外とがっしりしていた。体調の悪さを自覚すると、途端にぼうっとしてしまう。桂は僕を座らせ、午後の体育の授業のために腰に巻いていたジャージを僕の肩に掛けてくる。
 とりあえず待っていればいいと分かって、僕は足早に出ていく桂を見送った。ジャージをシャツの上から羽織ると、桂の体温が残っている気がして温かい。ほのかに柔軟剤の優しい匂いがした。

 ……こんな風に人に心配されるの、いつぶりだろう。年に一、二回風邪を引くことくらいあるけど、僕はいつも自分でなんとかしていた。
 でも今は、桂に甘えたくなってしまう。人に優しくされるのって、中毒性があると思う。

「帰るぞ。歩けるか?」
「歩ける。桂も帰るの?」
「おう」

 気づけば桂が戻ってきていた。寒気はするけど動けないほどでもなく、そうっと立ち上がれば眩暈もない。
 僕が立ったとき、視界の端で桂が両手を構えていたのが面白かった。赤ちゃんの歩行を見守るパパかよ。

 いつも鞄ごと持って来ているから教室に戻らず玄関へと向かう。一人だったら普通に我慢しながら午後の授業も受けていただろうけど、桂が一言「帰るぞ」と言ってくれたから「帰ろう」と思えた。
 他人の言葉ってすごい。他人じゃなくて、桂だからかもしれないな。

 相変わらず寒いけど、大きなジャージで手の甲まで包まれているとホコホコする。傘を持ってきていないというやんちゃな桂を入れてやって(持っているのは桂だけど)、僕は何も考えずに自宅までの道のりを歩いた。

「……ここか?」
「うん。あれ、桂は家どこなんだっけ。傘持っていっていいよ?」
「ちょっとトイレ貸してくんない?」

 マンションの前で立ち止まると、桂は建物を見上げて口を開けていた。学校の近くは一軒家ばかりだから珍しいのかもしれない。
 送ってもらった形になるしお茶でも出すべきか? そんなことを考えながらエレベーターに乗り、玄関のドアを開けて桂を促す。

「…………」
「あ、うち親いないから。自由にしていいよ」
「いないのか!?」
「あ。父親はいるけど仕事で飛び回ってる」

 シンとした廊下、コンクリート打ちっぱなしの壁と、物の少ない無機質な部屋。そういえば普通の家ってもっと生活感があるのかな。……桂、引いてる?

 僕の父親は多少名の知れた写真家で、国内や海外も含めて常に飛び回っている。母親は僕が小さな頃に事故でいなくなった。
 週に一回家事代行の人が来てくれて、料理の作り置きやまとまった家事をしてくれるから生活には困らない。

 そんなことを言い訳みたいにつらつら喋れば、桂はなんだか不機嫌そうに眉根を寄せていた。ネグレクトじゃないよ? 父親とは割と仲がいいと思う。

「純那の部屋、どこ」
「こっち」

 聞かれるがまま案内すると、僕は桂によってベッドに押し込まれてしまった。コンクリートの壁に囲まれた部屋はシーツが冷たい。小さく体を縮こめて、布団の中が温まるのを待つ。

「体温計あるか?」
「リビングの、テレビボードの右の棚」

 伝えたのはそれだけなのに、桂はすぐに部屋を出て行った。まあドアを全部開けて探検すれば見つかるだろう。
 案の定すぐに戻ってきた桂は、救急箱とミネラルウォーターを手に持っていた。

「悪い、冷蔵庫勝手に開けたわ」
「いいよ。蓋開けてくれる?」
「ん」

 脇に体温計を挟み、少し起き上がって水を飲む。病院に行くか訊かれたがそれには首を振った。誰かからウイルスを貰ったような心当たりはないし、ただの夏風邪だろう。

「大丈夫ならいいけど。寝れそうなら少し寝とけ。まだ寒いか?」
「大丈夫」

 もう一度横になった僕にしっかりと布団を掛けて、桂は優しい表情で頭を撫でてきた。親密な行動にドキッと心臓が跳ねたけど、弟や妹と同じ扱いなんだろう。
 桂が僕の部屋にいて、僕を見てるのって変な感じ。不思議だけど全然嫌じゃなくて、むしろ胸の中があったかくなるような心地よさがある。

 なんかいいなあ……
 僕はその温かさを抱えながら、忍び寄ってきた眠気に身を委ねた。