瀬川乙華は天才だ。
「ね、ね、乙華ちゃん。模試どうだった?」
模試の成績が返却された日、私は特に仲が良いわけでもないクラスメイトから聞かれ、すっと自分の成績表を差し出した。
「国語3位、英語1位、数学6位、総合1位…って天才じゃん!」
どう返したらいいのか分からず、曖昧に微笑む。
こういう時は、下手なことを言わずに黙っていなくてはいけないのだ。
瀬川乙華は優等生だ。
「瀬川さん。ちょっとプリントを配っておいてくれない?」
担任の先生に何かを頼まれるのも日常茶飯事。
もちろん、先生の言う通りにする。
「瀬川さんはしっかりしてて、頼りになるね。」
ありがとうございます、と返してその場を立ち去る。
私が行動するたび、『瀬川乙華』という鎖が私を縛る。『瀬川乙華』はこうでなくちゃ、周りの期待に応えなくては。本当の私は頭も悪いし、優しくもないのに。
このまま一生、みんなの求める『瀬川乙華』を演じ続ければいいのか。
それは、息苦しい。
そんな人生なら、死んだほうがましだ。
ある日、私は学校をサボった。
「お母さん…おなかが痛くて…」
と訴えると、忙しそうに準備をしていた母は
「そう、部屋で寝ておきなさい。学校には連絡しておくから。」
と私のほうを見もせずに言った。
私は自分の部屋に戻って、布団にくるまった。
嘘がバレるんじゃないかと不安になって、体が小刻みに震えていた。
扉越しに母が電話をかけている声が聞こえてきた。
余所行きの高い声。私のあまり好きじゃない声。
「…はい、えぇ。…よろしくお願いします。」
電話を切る音がして、私の部屋の扉が開けられた。
私の様子を確認しに来ただけであろう母は、私の部屋を一通り見回して
「今日はゆっくりしてなさい。」
とだけ言い放って扉を閉めた。
その後、母がドタバタと準備をする音と、ガチャっと家の扉を開けて出て行った音がした。
恐る恐る扉を開けて、リビングに誰もいないことを確認すると、私は張り詰めていた緊張を解いた。
母は私に興味がないのだ。
妹がレギュラーを取れるかどうか、試合に勝つかどうかしか考えていない。
私は再び自分の部屋に戻って、ベッドの上で何をするわけでもなく白い天井を見つめていた。
学校のこと、部活のこと、色んなことが頭を駆け巡ってぐるぐるしている。
その時、ふと私の頭の中を
『もし、私がふらっといなくなっても誰も気づかないんじゃないか?』
という考えがよぎった。
そうとなれば行動は早かった。
バックの中にスマホと財布といつも持ち歩いているポーチを詰めて家を飛び出した。
昼間の眩しい太陽に後ろめたさを感じながらも、私の足取りは軽かった。
お昼時の駅は朝と違って人がまばらだった。
乗り換えも行く先も調べずに、私は来た電車に乗り込んだ。
車窓の景色がビル街から住宅街へと変わっていく。
終点の駅でさらに小さな列車に乗り換えた。
私は全く知らない電車の中で緑の山々を見つめながら、ただぼんやりとしていた。
ふと気づくと自分のほかに電車に乗っている人がいなくなっていた。
黄昏時の車内は寂しくて、少し怖かった。
私は次の駅で降りた。
その駅は駅とは言えないほど寂れた場所だった。
駅のすぐそばに森があり、ホームとの境目が分からないほど青々とした植物が茂っていて、鬱蒼と茂る木々の隙間から、森の香りを纏った冷たい風が吹いてきていた。
不気味だけど、どこか懐かしさも感じる森に惹かれた私は吸い込まれるように一歩踏み出した。
森の中をしばらく歩いていると、突然視界がひらけた。そこは崖だった。下は海で波が荒れ狂っていた。
「もし、このまま下に落ちたら…」
私は覚悟を決めた。
一歩、また一歩。私は崖に近づいていく。
もう悲しい思いも、辛い思いも、あと数歩進んで重力に身を任せてしまえばなくなるのだ。
震える足をなんとか進ませながら、私は崖の端までたどり着いた。
「これで…おしまい」
私は空中に一歩踏み出した。
「おと!やっと見つけた!」
私が散ろうとするまさにその時、誰かが私を呼び止めた。
振り返ると、後ろにいたのは全く知らない男の子。
黄昏時の茜に、彼の白髪がきらめいていた。
私よりも幼く見える彼はその白髪も相まって独特な雰囲気を纏っていた。
私が彼に声を掛けようと口を開いた刹那、彼が私のもとに走りよって勢いよく体に抱きついた。
崖の端に立っていた私の体は傾き、そのまま2人とも空に投げ出された。
空を舞う私の耳に、彼の声が聞こえた。
「おと、今まで頑張ったね……。おかえり」
瞬間、私達の体は海に沈んだ。
私は蒼海を彷徨う。
希望のない世界で。
未だ私のことを離さない彼の温もりを感じながら、私はそっと目を瞑った。
「ね、ね、乙華ちゃん。模試どうだった?」
模試の成績が返却された日、私は特に仲が良いわけでもないクラスメイトから聞かれ、すっと自分の成績表を差し出した。
「国語3位、英語1位、数学6位、総合1位…って天才じゃん!」
どう返したらいいのか分からず、曖昧に微笑む。
こういう時は、下手なことを言わずに黙っていなくてはいけないのだ。
瀬川乙華は優等生だ。
「瀬川さん。ちょっとプリントを配っておいてくれない?」
担任の先生に何かを頼まれるのも日常茶飯事。
もちろん、先生の言う通りにする。
「瀬川さんはしっかりしてて、頼りになるね。」
ありがとうございます、と返してその場を立ち去る。
私が行動するたび、『瀬川乙華』という鎖が私を縛る。『瀬川乙華』はこうでなくちゃ、周りの期待に応えなくては。本当の私は頭も悪いし、優しくもないのに。
このまま一生、みんなの求める『瀬川乙華』を演じ続ければいいのか。
それは、息苦しい。
そんな人生なら、死んだほうがましだ。
ある日、私は学校をサボった。
「お母さん…おなかが痛くて…」
と訴えると、忙しそうに準備をしていた母は
「そう、部屋で寝ておきなさい。学校には連絡しておくから。」
と私のほうを見もせずに言った。
私は自分の部屋に戻って、布団にくるまった。
嘘がバレるんじゃないかと不安になって、体が小刻みに震えていた。
扉越しに母が電話をかけている声が聞こえてきた。
余所行きの高い声。私のあまり好きじゃない声。
「…はい、えぇ。…よろしくお願いします。」
電話を切る音がして、私の部屋の扉が開けられた。
私の様子を確認しに来ただけであろう母は、私の部屋を一通り見回して
「今日はゆっくりしてなさい。」
とだけ言い放って扉を閉めた。
その後、母がドタバタと準備をする音と、ガチャっと家の扉を開けて出て行った音がした。
恐る恐る扉を開けて、リビングに誰もいないことを確認すると、私は張り詰めていた緊張を解いた。
母は私に興味がないのだ。
妹がレギュラーを取れるかどうか、試合に勝つかどうかしか考えていない。
私は再び自分の部屋に戻って、ベッドの上で何をするわけでもなく白い天井を見つめていた。
学校のこと、部活のこと、色んなことが頭を駆け巡ってぐるぐるしている。
その時、ふと私の頭の中を
『もし、私がふらっといなくなっても誰も気づかないんじゃないか?』
という考えがよぎった。
そうとなれば行動は早かった。
バックの中にスマホと財布といつも持ち歩いているポーチを詰めて家を飛び出した。
昼間の眩しい太陽に後ろめたさを感じながらも、私の足取りは軽かった。
お昼時の駅は朝と違って人がまばらだった。
乗り換えも行く先も調べずに、私は来た電車に乗り込んだ。
車窓の景色がビル街から住宅街へと変わっていく。
終点の駅でさらに小さな列車に乗り換えた。
私は全く知らない電車の中で緑の山々を見つめながら、ただぼんやりとしていた。
ふと気づくと自分のほかに電車に乗っている人がいなくなっていた。
黄昏時の車内は寂しくて、少し怖かった。
私は次の駅で降りた。
その駅は駅とは言えないほど寂れた場所だった。
駅のすぐそばに森があり、ホームとの境目が分からないほど青々とした植物が茂っていて、鬱蒼と茂る木々の隙間から、森の香りを纏った冷たい風が吹いてきていた。
不気味だけど、どこか懐かしさも感じる森に惹かれた私は吸い込まれるように一歩踏み出した。
森の中をしばらく歩いていると、突然視界がひらけた。そこは崖だった。下は海で波が荒れ狂っていた。
「もし、このまま下に落ちたら…」
私は覚悟を決めた。
一歩、また一歩。私は崖に近づいていく。
もう悲しい思いも、辛い思いも、あと数歩進んで重力に身を任せてしまえばなくなるのだ。
震える足をなんとか進ませながら、私は崖の端までたどり着いた。
「これで…おしまい」
私は空中に一歩踏み出した。
「おと!やっと見つけた!」
私が散ろうとするまさにその時、誰かが私を呼び止めた。
振り返ると、後ろにいたのは全く知らない男の子。
黄昏時の茜に、彼の白髪がきらめいていた。
私よりも幼く見える彼はその白髪も相まって独特な雰囲気を纏っていた。
私が彼に声を掛けようと口を開いた刹那、彼が私のもとに走りよって勢いよく体に抱きついた。
崖の端に立っていた私の体は傾き、そのまま2人とも空に投げ出された。
空を舞う私の耳に、彼の声が聞こえた。
「おと、今まで頑張ったね……。おかえり」
瞬間、私達の体は海に沈んだ。
私は蒼海を彷徨う。
希望のない世界で。
未だ私のことを離さない彼の温もりを感じながら、私はそっと目を瞑った。

