「んー、美味しい!」
「また食べてるんですか……」
「美味しいんですもの! やっぱ『和菓子』はいいわねぇ。優しい甘さがたまらないわ! あ、香ばしいおせんべいも素敵。緑茶との相性最高ねぇ……」
 やっぱりうちの店にも仕入れるべきよ、と店長は和菓子を食べてお茶を飲むという行動を繰り返す。ここ数日見慣れた行動で、明らかに食べ過ぎだが、まぁいいかと従業員は放置して手にしていた掃除用具を片付けた。
 さて次は茶葉の収納場所を新しい品が追加されてもいいように整頓しておいたほうがいいだろうか、と身体をそちらに向けた従業員は、その次の瞬間ぐるりと体を反転させ、咄嗟にそばにあった椅子の背を掴んで持ち上げる。
「あらやだ。椅子は武器じゃないわよ」
 店長はのんびりとした声を上げ、お客様ねぇと立ち上がった。ガチャリ、カランと音を立て、扉が開くまで緊張していた従業員はふっと息を吐いて椅子を置く。
 この場所に人間が来たなら、気配ですぐわかるはず。それが扉を開ける直前まで気づけなかったことに従業員は警戒心を抱いたのだが、蓋、ではなく扉を開けてしまえばそれも納得。ひどく『生命力が薄い』人間のご来店だった。

「ほほ、これはこれは、道を尋ねるつもりが随分いい香りだ」
「あらお客様、道は選ぶものですわ。どうぞこちらに、趣味で購入したものですがご一緒にいかがかしら」
「こんなじいさんをお茶に誘ってくださるとは。ありがたくいただきましょう」

 そう、本人が言うように、かなり高齢の男性がお客様だった。だが、高齢=生命力が薄いというわけではない。この男性は随分と、『余計なものに纏わりつかれている』のだ。
 これはさぞ苦労していそうだ、と無言で店長が用意する茶の手伝いに徹した従業員は、状況からこれは自分の仕事ではなさそうだと仕切られた奥の部屋に引っ込むと、目の前にデータを呼び出す。
 この日の路地裏カフェの新たなお客様は、八十二歳の元和菓子職人だった。



「やばいわねぇ。このままじゃ帰せそうにないわ」
 男性を残し一度席を外した店長が従業員のところに戻ると、小声で不満そうに口を尖らせながら指が素早く不可視の盤面を滑る。青緑の光を放ったディスプレイと違い、この見ることができない表示装置を使うときは店長の仕事の管轄確定だ。
「やっぱなんかあるンですか」
「家族に死を願われてる、なんて嫌よね。瑕疵がないならなおさら。そんなことしたら駄目よ?」
「願っても死なないでショあんた……」
「あら! 家族って思ってくれてるのね嬉しい!!」
「……っあ、チ、ソウジャなクテ!」
 すぐさま首から前髪のまで赤く染まる従業員が嫌がるのを気にせず撫でまわした店長は、ご機嫌にその肩に手を回す。
「やだもううちの子かわいいー! ……っと、愛でてる場合じゃなかったわね。お客様がいらしてるんだった」
 いけないいけない、と慌てたように再び指を動かし始める横で、必死に前髪で目元を隠しながら従業員は深呼吸する。お客様ご来店中、お客様ご来店中。心の中で唱えつつ、先ほどの店長からの情報を反芻する。
 家族に死を願われている、と。
 今のであの男性の生命力がひどく薄いことに納得がいった従業員は、それならと口を開く。
「終わるまで外の掃除しときます」
「お願いね。生霊ほど面倒なものってないと思わない?」
「生霊も死霊もバケモンもどれも面倒デスけど」
「それもそうね!」
 快活に笑う店長に任せればあとは大丈夫だろう。
 自分がやるべきは、自己中心的な考えで呪うヒトデナシの、執着という名のバケモンを追い払うことだ。そう判断した従業員は再び掃除用具を手に、外へと繰り出した。



「はぁ、私みたいな老いぼれにはもったいない話です」
「そんなことないですよ。先ほどの神の言葉通りです。先方はあなたのような穏やかな菓子職人さんをお望みですもの」
「神様……こりゃあ、すごいことだ」
 ありがたや、ありがたや。手を合わせる男に、店長は穏やかな笑みを浮かべた。
 カフェに迷い込んだ客……名をセイシロウと言う男は、ついさきほどまで、数分間だけ異空間に身を置いたばかりだった。
 ぜひあなたとお話したいという神がいる、と店長に突拍子もないことを言われたセイシロウは、あろうことか疑うことなく快諾した。曰く、この路地に足を踏み入れた時から不思議な感覚はあったというのだ。実はすでに死期を迎え、あの世で茶店を見かけたのかとも思ったらしい。
 柔軟な思考、あるいは一種の諦観か。セイシロウはすんなりと状況を受け入れ、穏やかな様子のまま落ち着いて目の前の非現実と向き合った。そうして異空間の霧の中に店長と共に招かれ、そこで大きな神社のような建物を背に待つ美しい女神との邂逅を果たしたのである。
 女神の管理する世界は、名をヒィズル。セイシロウの暮らした国の少し昔の頃を彷彿とさせる小世界であり、食べ物や生活様式も似通っているが、穏やかな世界に生きる人々は勤勉すぎて少々娯楽や嗜好品の流通が不足しているらしい。もちろん、甘味も。
 女神はセイシロウの穏やかな気質をいたく気に入り、ぜひ我が世界へと誘いをかけた。
 あまりの神々しさを前に疑うことをしなかったセイシロウだが、ありがたい申し出ではあるがと言い淀み、察した店長が一度検討の為の帰還を促し連れ帰ったのだ。

 そうしてカフェに戻ったセイシロウは、しばしの間目の前に浮かぶ情報の記載された青緑の不思議な画面に手をあてて見たり後ろから手を透かしてみたりと興味津々にしていたが、その手は本人の落ち着きとは逆に妙に強張っている。そうして画面から己の手に視線を移した男は、少しして肩を落とす。
「神様のお誘いはありがたい。身に余る光栄でしょう。……ですが私はこの通りもう病で指があまり動かんのです。練り切りのような繊細な菓子は、もう……」
「まぁ、それが心配だったのですね。そこは心配ありません。向かうのはあくまでもう少し後、あなたがこちらの世界を生き抜いた後に、新たにあちらの世界で始まるのですもの」
 ほう、ほう、と頷いたセイシロウは、正しく『転生』することを悟った。
 だが、と煮え切らぬ様子で、セイシロウはお茶を一口飲んで体を温める。
「私は、家族とうまく付き合うこともできない男です。妻には苦労ばかりかけて旅行の一つも贈ることができず先立たれ、息子は私の店を継いだものの疎遠になってしまった。孫やお嫁さんにもよくしてやれなくてねえ」
「そんなことありませんよ」
 店長はほほ笑みながら男の言葉を否定する。『情報(データ)』によれば、その『嫁』とやらがあまり金銭面において褒められたものではなく、男がこの店に訪れることになった『元凶』とも言えた。事なかれ主義の息子は家族から距離を置き、孫たちも古臭いと家業に興味を持たず家を出てしまったようだ。
 さすがにこの短い期間ですべての情報を得ることはできず男の妻についてはわからなかったが、なんと言っても男は一目で神に気に入られる清廉な魂の持ち主である。自分を卑下する必要はないが、環境がそうさせてしまっているのだろう。
 どこかでやり直したい、と心の奥底、ほんの片隅で願ってしまうほどに。

 そうだ、と店長は一つ思い付き、ぱちりと胸の前で手を合わせる。

「ひとつ、お願いがあるのですけど、よろしいかしら?」



 その数時間後。ご機嫌な店長の手には、少し歪な、しかし丁寧に作られた朝顔を模した上生菓子があった。