1-after
「どういうことだよ……っ!」
使い込まれてはいるが、あまり傷のないレザーアーマーの上に括られた道具入れから回復薬を取り出し、震える手で僅かに中身を零しながらもそれを傾けたノゾムは、目のまえで血の気を無くしていく少女の唇にそれを押し当てる。
しかし飲み込むことができず、咽るという行為すら中途半端に力なく腕を垂らした少女は、慌てたノゾムが抱き上げた腕の中で口の端から血と共に薬液を垂らした。
「い……のです、ゆ、しゃさ……」
「喋るな! いいから薬をもっと!」
「こ……な、ること、わか……、ご、めん、な、さ、……」
くぐもった言葉ながらことさら丁寧に紡がれたのは、『ごめんなさい』だった。その前の言葉を口の形から読み取ったノゾムは、なんで、と零す。
「こうなることはわかってた、ってのか? なんで、なんでだよ。なんで、スノウが倒れるんだ。魔王は倒しただろ! なんでこうなるんだよ!」
スノウは多少怪我はあるものの、致命傷は避けていた筈だった。パーティにおいて治癒師が真っ先に倒れることの意味を学んで、最後まで立ち続ける強さをこの旅で得た筈なのだ。
「ノゾム、……落ち着け。スノウ姫が何を言うのか、聞くんだ」
ぽん、と焦るノゾムの肩に手が乗せられた。戦闘の最中指が吹き飛ばされたのか、今もまだ止まらぬ血が流れているが、ノゾムはそれを振り払わない。そのまま力が抜けたように背に体を預けられても、振り落とすことはできない大事な仲間の手だ。
治癒師が倒れた今、回復薬では追いつかない怪我を負った彼を目の当たりにしても、勇者であるノゾムには背を貸してやることしかできない。
彼は共に魔王討伐の為に立ち上がった仲間。失われた帝国の生き残りである、弓の使い手である冒険者だ。そしてその男の片腕の中には、まだ子どもと言える年齢の少女の遺体が大切そうに抱えられている。……魔法を得意とする仲間の少女は、魔王戦の最中、治癒師と弓使いを守り命を落とした。荒廃する世界で一人生きていた孤独な少女は、その短い生涯を世界を救うために捧げたのだ。
ノゾムたちの戦いは、先ほど終わった。
魔王は打ち滅ぼされたのだ。
成し遂げたのは、異世界から訪れた勇者と、武の帝国生き残りの弓の冒険者、類稀な魔法の才を持っていた少女と、癒しの使い手である最期の国の姫。
だが、無事と言える勝利ではなかった。
「ユキは起きない。アルだってもう弓は握れない。なんで、なんで俺だけ無事なんだよ。なんで、さっきまで立ってたスノウが倒れてるんだ!」
「悪い、な」
「……ご、め」
「謝罪はいい、死ぬな!」
「…………ご、めんなさ……」
ぼろり、とノゾムの瞳から零れ落ちた涙が、次々と降り注ぎスノウの肌を濡らす。その様子を見たスノウが、困ったように、ほほ笑んだ。
「もど……ゆ、しゃさま……もう、だいじょ、ぶ、だから」
「何がだよ! ……もど、れ? 戻れって言ったのか!? まさか、こんな状況でお前らを置いて!?」
「もと、より、まきこ、でしまッ、ゲホ、……おね、が……もとの、せ、かっ、で、生き……っ」
声を途切れさせ血で防具を汚すスノウを、躊躇うことなくノゾムは抱き寄せる。
元の世界に戻りたいとは、願っていた筈だった。実際に試したことはないといえど、戻る手段はあるという情報は、確かにノゾムに希望を与えるものだった。自分の背格好が全く変わらず、髪や爪すら伸びないことが、『元の世界に戻れる証拠』のようだった。
そんな中、元の世界では一時間にも満たないらしいこの世界での数年間は、確かにノゾムに大きな成長をもたらした。多くの経験が、ノゾムをただの子どもから勇者そのものに育て上げたのだ。仲間が、ノゾムを信じ、見守って、時に助けてくれたからこそ。
振り返れば、指だけではなく腹からも血を流す仲間のアル。そしてその腕の中でただ眠っているかのように瞼を閉じながらも、肩から脇腹までを大きく引き裂かれたユキがいる。ユキは、名前がないというので、ユキが懐いていたスノウにちなんでノゾムがつけた名前だ。ここにいる誰もが、最早かけがえのないノゾムの大切な仲間だった。そのユキが命を落とし、アルと、そしてスノウまでもが、その命をこの世界に捧げようとしていた。
ただ一人、部外者であると言わんばかりに怪我一つない勇者を除いて、だ。
強すぎる能力を持っていた勇者は、フルプレートアーマーを身につけずとも、身軽さを重視したそのレザーアーマーにすらほぼ傷をつけることなく旅を終えた。
強すぎる能力を持っていた勇者は確かに、千年前の伝説とも言える真なる魔王と渡り合うことができた。討伐した。だが、仲間はそうではなかった。
強すぎる能力を持っていた勇者の得意とするところは、己の防御と圧倒的な剣術に、攻撃寄りの魔法。パーティーで守りを担っていたのは、最年少である魔法使いの少女ユキであり、治癒能力者の王女スノウだった。
強すぎる能力を持っていた勇者は、しかし万能ではなかったのだ。
「こんな、仲間を守れない能力でっ……!」
自分は有頂天になっていたのか。この力はただ魔王を打ち滅ぼす為だけにあった。
「まもって、くださいました。わたしたち、の、せか……を」
「世界じゃない、俺は皆を守りたかった!」
「まもって、くだ、いま……、わた、たち、の、こころを」
「心だけじゃ、だめだったんだよ……っ!」
「やさしい、ゆ、しゃさま。どうか、泣か、……で」
「無理だよ……スノウ。アル。ユキ……生きて、頼むから」
もうユキはいない。背に乗っていた仲間の重みが、ずるずると地に落ちていく。わかっているが、信じられなかった。信じたくなかった。自分だけが無事であることが。
「すみま、せん。ゆう……のぞ、む」
「この世界に、巻き込んで、……悪かったな、ノゾム。戻るんだ、おまえ、だけでも」
ぼろぼろと涙が零れ落ちる。それと同じく、続けざまに、ノゾムに伸ばされていたふたつの手が地に落ちた。
ごめん、ごめん、ごめん。
たくさんの謝罪は、彼らだけに向けられたものではなかった。
元の世界に残してきた家族、友人、この世界の仲間たちに、助けた人たちの笑顔、守れなかった人たちの姿。
ぐるりぐるりと脳内を駆け巡るたくさんの感情と記憶に、ノゾムは頭を抱えて涙を溢れさせる。
「ごめん――」
ぽつりと零した声は小さく、誰にも届くことはなかった。ノゾムの周辺が、だんだんと冷えていく。
ノゾムは震える手を動かすと、防具の下に隠していた首飾りを引っ張りだす。自分がつけるのはどうなんだとはじめは思っていた、雪の結晶を模したクリスタルが手のひらの上で血に濡れて輝いた。自分の血ではない。魔王の血も、魔王の死と同時に黒い靄となって消え去ったので違う。それが、ノゾムの覚悟を後押しした。
――こうなることはわかっていたと、スノウは言った。戻れと仲間は言った。
そして今思い出したのだ。自分が戻るすべは、帰還方法は、後になって保障されたものであったことを。
「なぁ。わかってたんだろ? 俺とも交渉してくれよ、『店長』さん」
その瞬間、世界は暗転した。
「やっぱりこうなったわねぇ」
部屋の隅に置かれた机に戻りカップを口元に運びながら、店長はふうと一息吐く。傍らには、チチ、と鳴いて店長の自慢の巻き髪をつついて遊ぶ小鳥がいた。
カフェの店内には店長と小鳥以外の姿はないが、中央のテーブルには空になったカップが一つ、置かれていた。先ほどまで店長と交渉していたとある世界の勇者が飲み干したものだ。彼はもう、ここにはいない。
その残されたカップが、パキン、と二つに割れた。そのまま徐々に砕けて小さく、そして光の粒子となって空気に散らばり消えていく。……そんな光景を驚く様子もなく眺めた店長が、僅かに目を細める。
しばしの間物思いに耽っていた様子であった店長だが、自分のカップの中身を空にすると、さて、と立ち上がった。ころんと転がった小鳥が、慌てたようにぱたぱたと飛んでいく。
「数年分人生を見たけど、夜はまだまだこれからなのよね。従業員くんも頑張ってるみたいだし、もう一頑張りといこうかしら」
