「どこだよ、ここ」
 前後不覚に陥ったかと思えば、そこは薄暗い細道だ。不満がつい口に出たとしても仕方がないことだろう。
 なにせつい先ほど立っていた見慣れた塾前の通りがない。後ろを振り返っても、左右を見回しても、呆然と前を見ても、どこもかしこも見慣れぬ街灯の薄明りしか届かない『裏通り』と言った場所だ。前後に伸びる道の先はどちらも奥が見えない闇に包まれている。零すことはなかった手に持っている飲み物はまだ表面に水滴すら付着せず冷えているというのに、いつの間に知らぬ道に来たと言うのだろう。
 というか、自分は押されたのだ。友人である筈の男に。そしてそいつは、ここにはいない。
 妙な場所に飛び込まされた上に本人がいない。湧き上がる不安と苛立ちに、つい「あいつっ」と憤りが口から零れかけたところで、微かに過ぎったのは『自分も異世界転移に憧れを持ったのは嘘ではない』という事実。友人(タツ)はただ背を押しただけなのだ。悪ふざけがこんなことになるとは思っていなくて、心配しているかもしれない。
 冷静になった瞬間、耳が何か音を捕らえた。
……足音。
 友人か、と音のする方向を探したが、薄暗い一本道、左右は寂れたビルに囲まれた場所で、音はやや反響して耳に届いた。だが、足音。咄嗟に助けを呼ぼうとしたが、その声はかすれて音にならなかった。それが、きっと正解だっただろう。

 ひた、ひた、ひた。

 どう考えても靴が地面を打つ音ではない。もっと、もっと柔らかそうな、しっとりとした……裸足でわざと音を立てているような。
 そんな音に感じた瞬間、咄嗟にノゾムはそばの大きなダストボックスの陰に隠れた。もちろん中に隠れる勇気はない。横にくっついただけでも、そのダストボックスから異様な生臭さを感じるのだ。
 だが、もし自分が隠れた側から『何か』が現れたら? 間抜けにも全身さらした状態でダストボックスの横に縮こまっているだけということになるが、なぜか足音の方向がわからない。気味が悪い。妙に寒気がする。不気味な反響音の中、なんとかノゾムは音が聞こえたのは逆側である、と判断――いや、祈った。

(だいたい裸足の足音ってなんだよ。わけわかんねぇよ。ってか臭……なんでこんな生臭……いや、なんか鉄っぽい……)

 そこまで考えてノゾムはうっと口元を手で覆って考えを振り払うように目を閉じる。余計匂いと音がひどくなったような気がするが、もう目を開ける余裕はなかった。頭の中に響く足音、全身に纏わりつくような匂い、じっとりと汗ばんでいた筈の暑さを急激に感じなくなったような冷えた感覚。……いったい、何が起きているというのか。

 その時ふと、こんな状況に陥った原因とも言える友人の言葉を思い出す。

『迷い込んだら帰ってこれないとか、中には異形の化け物が』
 冗談じゃない。

『あの自販機の横の路地が、異世界に通じてるーなんて噂があるんだよ!』
 異世界? この路地裏が? ふざけるな。ただのコンクリートに囲まれた不気味な路地裏だ。ファンタジー感溢れる見たことのない植物や神殿などの建造物も、魔物やエルフも何もいなさそうな、いるとしても不気味な足音の持ち主しかないような場所なんて夢がなさすぎる。……そもそも、剣と魔法の世界だけが『異世界』ではないことはノゾムも十分わかっているが、突如こんな状況で夢も希望もないなんて最悪だ。

「あら、夢と希望はあるわよ?」

 突然、ひたりひたりと迫っていた音が消えた。臭いも、音も、空気も変わった気がしてノゾムは慌てて目を開く。
「え、なに?」
 ほんと、なに。ノゾムは目の前の光景に混乱して疑問ばかりが頭に浮かぶ。変わらぬコンクリートを背景に、しかし雰囲気は大違いとなり、目の前には先ほどまでいなかった筈の、人がいた。
 眩しいくらい(本当に発光しているんじゃないかと怖くなるくらい)綺麗な長い金の巻き髪、筋骨隆々の頼りがいがありそうな鍛え上げられた肉体、海のような澄んだ青い瞳に、目を惹く艶やかな赤い口紅……から放たれるどっしりとした声。
 そして逞しい肉体を包み込むフリルマシマシピンクドレス……

「え……? え、え??」

 情報量が、多かった。

「やだ、かわいそうに。望んで来たお客様じゃなさそうねぇ。……素質はぴかぴか! って感じだけど」
「ぴ、ピカピカ……?」
「そうよ、ぴっかぴか! 眩しいくらいよ! あいつらが指くわえて涎垂らしながらも手出しできなかった程度には」
 なんだかいろいろ突っ込みたいところはあるが、それは言葉に表せなかった。突っ込んじゃいけない気がしたのだ、とくに後半。
 とりあえず眩しいのは自分ではなくその異様に艶やかでやっぱり発光してそうな巻き髪だ。だがノゾムは出し掛けた言葉を飲み込んで、喉を鳴らすとそろりと壁に張り付いたまま立ち上がった。場所は変わらずダストボックスの横、裏路地。だというのに先ほどまでの悪臭もなく、寒気もない。目の前の人物がどちらも吹き飛ばしましたと言われれば今なら信じそうだ。
(素質……? 何の話だよ。というかどういう状況だ、これ)
 視線だけで周囲を見回すも、やはり風景は変わらないというのに雰囲気は一変している。それが不気味ではあるものの、ひとまず先ほどよりはよほどマシな状況になったのではないかと一つ息を吐いた。
「だーいじょうぶ。あたしが来たんだから安心しなさい! さて、このまま返してあげたいところなんだけど……んー、ちょっとこの様子じゃまずいかしら。それにあなたを求めている人がいるのよねぇ……。ねえ、面接とか受けて見ない?」
「え? えっと、俺まだ学生だし、バイトとかも今はする時間ないんですけど」
 塾、学校、家での勉強とちょっと一息のネットタイム。ノゾムの日常はそれで占められていた。バイトは興味があるが、ノゾムの学校は許可していないし、勉強しろとうるさい親も許しはしないだろう。
 というか、こんなところで受ける勧誘が怪しすぎる。
「まぁまぁそんなこと言わずに! ちょーっとお話してみるだけでも! 面接相手の子、可愛いわよー」
「はぁ? あの、無理です。なんですかその怪しいセリフ!」
「ちょっとよちょーっと! 先っぽだけみたいな!」
「なんかいろいろ最低です!」
 わぁわぁ騒ぐノゾムの視界は、次の瞬間一転した。ぐるりと回ったかと思うと視線が上を向く。見上げる先にはふっさふさの長い金の睫毛。
「は? ちょっと、う、うわぁあああああ!」
「あらやだ軽いわね、ちゃんと食べてる?」
 それは男が言われて嬉しい台詞なのだろうか。
 なぜか横抱き……いわゆるお姫様抱っことやらで運ばれ始めたノゾムは、がっしり掴まれた太ももが動かないと気づくと、ヒィと悲鳴をあげる。どんだけ力があるんだよと、背に垂れ下がるリュックが重くて肩が痛む中とにかく叫んだ。誘拐、連れ去り、駄目ぜったい。

 しかしそれはそう長くは続かず、唐突に優しく足を下ろされる。

「ついたわよー」
「え」

 どこに。

 緊張したノゾムが示された方角に視線をそろりと動かすと……そこには路地裏を正面に入り口を開いた、場違いなほど洒落た洋風の建物があった。
 カフェ、だろうか。足元にあるブラックボードには、可愛らしいタッチでコーヒーカップが描かれている。大きなスモークガラスの向こうの店内には、こだわりを感じる細工のテーブルや椅子、吊り下げの鉢からは植物の葉が透けて見えた。
 えっと、と戸惑うノゾムは、カフェの店員の面接に連れてこられたのだろうかと首を傾げる。確かにおしゃれで雰囲気のいいカフェだが、なぜ路地裏に。知る人ぞ知る店? と考えていたところで、ぞくりと背筋が冷えた。

 そもそもここは、タツに背を押された瞬間飛び込んだ、元の路地が消えた謎の路地裏なのだ。

「あ、あの」
「なにかしら?」
「こ、ここはどこですか!? 俺気づいたらここにいて、元いた道がなくて!」
「あら、ここはあたしの店。店長って呼んでね! それに、『道』はあるわ、安心して? まぁお察しの通り、ここはあなたが元いた場所からすこーし『ズレてる』けど」
「ずれてる……?」
 呆然と呟くノゾムに、まぁまぁ、と謎の人物はウインクして見せると、その背を押して店内へと誘った。
 素直に、というよりも抵抗する力もなく足を踏み入れたノゾムは、少しやる気のない「イラッシャイマセー」という声にもう一人いたのかと顔を上げる。
 店員らしい男は、黒いシャツに黒いパンツ、黒いエプロン、黒い手袋に少しもさっとした黒髪……黒い。店長と店員間で彩りの差が激しい。
 長い前髪のせいで目元が見えない店員が、ちらりとノゾムを見た……ような気がした。しかしすぐに低い声で「奥へどうぞ」と呟くように言ってうつむき、視線は逸らされたようだ。
「店番ありがとっ! あの子は?」
「疲れてるみたいなンで、お茶出しときました」
「完璧!」
 店員の対応に頷いた『店長』が、ふとノゾムを促す足を止めた。

「あ、その前に二つアドバイスね。『ここでは安易に本名を話さないこと』と、『よく考えること』よ。わかった?」
「え、なんで……というか拒否権は?」

 連れていかれようとしている場所はどうやら誰かがすでにいるらしい。そこで本名は言うな、よく考えろ、なんて言われたらイヤな予感しかしない。
「拒否権、あるわよ? あなたがすべて決めることだもの。ただ私たちは、ここにいらしたお客様……依頼者の願いに沿うべくお手伝いするだけ」
「……つまり、俺はこの店の客に会わされるために巻き込まれたってことですか」
 意外と冷静に返されたことに、店長は笑みを深め、店員が顔を上げる。ノゾムは手をぐっと握りしめ睨むように店長を見つめ返した。睫毛が長い。その青い瞳も含め、化粧だとかカラコンだとかそういったものとは違うように見える。何せこれが自分だと包み隠さずそこにいるかのようなのだ。
 漫画でしっかり書き込まれて出てくるような完璧な筋肉(マッスル)と二メートル近い身長の持ち主の為、もうそれだけで圧が強い。
 ノゾムは半ば意地になって見つめ返していた。自棄とも言う。が、そこでふわふわと周りがピンク色の光に包まれてぎょっとする。横の壁には、なぜかノゾムたちをシルエットにハートマークがいくつも浮かび上がってほわほわと壁を上に上っていく……?
「やだもう! あたしとラブシーン起こして欲しいわけじゃないんだからそんな演出いいのよ、店員くん!」
「今がタイミングかと思って」
「もっとダンディな方が来たらお願い!」
 壁の反対では、プロジェクターらしき謎の小型機械を手に持った無表情の黒い店員がいた。

 ふざけんな、と顔を覆ったノゾムの肩に、ぽんと店長が手を置く。そんなに照れないで、じゃねえよとつい言葉に出た気がするが、ノゾムは覚悟を決めた。
「俺が帰りたいって言ったらすぐ元いたいつもの道に帰してもらえるのが条件です」
「なら、あなたが相手のお話を聞いた上で帰りたいというならなるべくすぐ帰してあげるわ」
「すぐ、です」
「ちょっと時間貰わないと、命の保障できないわよ? ほら、あなたが最初にいた場所、『何か』いなかった?」
 何かってなんだ。しかしぞわりとあの時の感覚を思い出しぐっと言葉を飲み込んだノゾムは、思う通りにいかなかったもののひとまず頷く。条件を飲んでくれていたなら、即座に帰りたいと口にしたものを。

 促されるがまま、ノゾムは緊張しながら足を進めた。すぐ逃げ……たとしても間違いなく追いつかれるだろう体格差。出たところで帰り道はわからないとなれば、やることは一つである。ノゾムはずっと背負っていた参考書入りのリュックを下ろし胸の前に引き寄せると、まるでそれが唯一の防具であるかのように抱えた。さらに足を進めると、にこにこと笑う店長がカウンターを抜けた奥……コーヒーのような色合いに装飾が美しい扉を押し開ける。

「あっ」

 中から慌てたような声が聞こえる。ノゾムが顔を上げ部屋の中に視線を送ると、そこは質の良さそうなソファ。それと、コーヒーテーブル……に足をぶつけながら慌てて立ち上がる、長い髪の少女がいた。

「いたっ、あっ! お、お初にお目にかかります勇者様、お会いできて光栄ですっ!!」

 ドサ、と大きな音がした。持っていたリュックを落としたノゾムの思考が、これまで読んだ様々な異世界小説に埋め尽くされる。
 ゆうしゃさま? 勇者……?

「ゆう、しゃ? おれ?」
「はい、お待ちしておりました!」

 涙ぐみながら駆け寄る少女に己の手を取られたノゾムは息を飲む。

 たった四人しかいないこの場に、一人の主人公が誕生したのだ。