「私、ここでお手伝いすることになったの。よろしくお願いします!」
「……ハ?」
店長と入れ替わりで奥の部屋に入った従業員は、イロハの言葉に思わず固まった。つい情報整理にウィンドウを見ながら入室した従業員は、イロハがなぜか学校の制服を着ていないことに、声をかけられてから気が付くことになった。
白いシャツ――は恐らく学校の制服と同じ。その上にさりげなくフリルがついた黒いベストを着用し、両サイドの裾にプリーツが入った黒いスカートを合わせている。店長ほどヒラヒラしてないが、この意匠は間違いなく店長。さらに従業員と同じエプロンのポケットにはあの黒いペンが挿してあり、店長にばれたなと一瞬で諦めの境地に至った従業員は、作業を再開する。
「……バイト?」
「みたいなものだって。えっと、私の能力? が異世界から戻っても残ったままで、このままだと危ないことになるかもしれないから、しばらくここに通って能力の制御を覚えた方がいいって店長さんが」
「ああ、ナるほど」
確かに、イロハの能力を考えるならば、彼女自身が能力を制御できるようになるほうが押さえつけるより断然いいだろう。それこそが最大の武器になる。
会話しながらも同時に指先が動き、店長からの連絡を確認する作業に入る。店長は現在、依頼者との面談中だ。
ちらりとイロハの指を確認すれば、今はもう肌に馴染んで見えない指輪の力が僅かに強さを増しているようだった。恐らく店長が、イロハが能力制御できるようになるまで面倒を見るつもりなのだろう。たぶんバイトというのは、イロハが気負うことないように提案されたもの。ならば覚えるべきは危険な『掃除』ではなく、カフェ内の仕事か。
「それで、お仕事内容は天……い、イチくんに聞くようにって店長さんが」
「丸投げジャん……」
「う、ごめんなさい!」
「いや言い方が悪かった、あんたが悪いわけジャない」
思わず本音が零れた従業員は、ふと首を傾げる。
「なんで苗字と名前使い分けテるンだ?」
「え、エッ!?」
若干声がひっくり返ったイロハに、従業員はさらに言葉を続ける。
「あとそれ偽名って……言ったノはメグルの方だっタな」
「偽名!? え、そうなの!?」
かっと顔を赤くしたイロハが頬を押さえるが、すぐ慌てて顔を上げた。
「そういえば、ここ名前言っちゃ駄目って……どうしよう、ごめんなさい!」
「ああ、まぁ、たマに名前で相手を操ったりするやつがいるらしいかラその対策。主に転移対象者向けの注意ダから気にすんなって言いたいトコだけど、アンタも一応慣れて」
「そうなんだ……えっと、何て呼んだらいいかな」
「店長は従業員って呼ブけど」
「バイトがそう呼ぶのはおかしいかなぁ……先輩、とか?」
「わかった。アンタは……バイトでいいか」
えっ、とイロハが戸惑う声をあげたが、従業員はそのまま作業に入った。呼び名は簡素であるほうがいい。
素早く指を動かすと、それをスライドさせる。その動きに従い、青緑のウィンドウはイロハの方に流れた。
「わ、すごい。触れるの?」
「ああ。まずコのウィンドウの使い方覚えて。ついでに今うちにある茶葉とかコーヒー豆の一覧出しておイたから。うちの本業にツいては?」
「異世界への転移とか転生の仲介みたいなものだって、店長さんが」
「その認識でイイ。あんたには来た客のもてなしを対応しテもらうことになるから、茶葉の特徴とかも覚えておいて」
「はい!」
背筋を伸ばし真剣にウィンドウを読み進めるイロハには悪いが、まずは来客の対応を優先しなければならない。
店長からも指示が出たところで、従業員は今回の対象者を招く為、路地裏への案内を開始する。願う者が訪れるように。パネル一つで対応できるが、実に複雑な工程を経ているらしいそれは従業員には説明できない技術だ。
はたと、自分がイロハの指導をするには知識が足りないことを思い知った気がした従業員は、機会があれば店長に聞いてみるのもいいかもしれないと考える。
とりあえず今重要なのは、裏路地は時間の流れが独特だということ。
たとえイロハがここに体感で一日いたとしても、帰るのは元の場所の一時間後にすると店長は告げていたし、その間にイロハと同じ場所からどれだけ来客があろうとそれは変わらない。ここはそういう場所で、客には『時間の流れが違う』と説明するのだ。
そこで店長から連絡が入り、従業員は作業を中断する。
「バイトさん、今からここを依頼者が使ウから、ついてきて」
「え、あ、はい!」
さん付けなんだ、とイロハは意外に思ったがすぐ立ち上がる。まとめていた荷物を持ち上げついていくと、従業員はイロハの鞄を手に取った。
「ロッカーはあるから案内すル」
「あ、ありがとう」
「お客さんにはひとまず最低限の挨拶だけで。何も答えなくていイから」
「はい!」
そうして扉を開けると、店長がちょうどやってくるのが見えた。従業員はイロハを促し自分の後ろに誘導すると、扉を開けて皇太子だという少年が入りやすいよう場所を作る。
少年はイロハに気付いたようだがぱちぱちと瞬きするだけで、特に何か言うことはなかった。
「では詳しい話はこちらで詰めましょうか。お飲み物はどうしますか?」
「よければ、先ほど頂いたお茶をお願いできるだろうか」
「従業員くん、お願いできるかしら?」
「すぐ用意しマす」
だがここで従業員と店長は一度視線を合わせた。イロハが何かあったのかと内心思っていると、店長はすぐ皇太子と部屋に入ってしまう。
「早速来客だ。バイトさん、ひとまずカウンターに入っテお茶の位置を確認して。フルーツルイボスティーを淹れるカら、用意できたらこれを」
飛んできたウィンドウに必要なものが記載されているのを見たイロハが、歩き出す従業員に慌ててついていく。カウンターに入ると、従業員はひとまず荷物を纏めてカウンター奥の椅子に置き、ティートローリーをイロハのそばに用意してそのまま出入口へと向かった。
来客という言葉を思い出し少し緊張しながら、イロハは出入り口を気にしつつ指示されたティーストレーナーなどの道具を準備し始める。わかりやすいようにイラスト付きでカフェの業務内容を説明してあるウィンドウは、隅に店長らしきイラストが描かれていて少し緊張を和らげてくれた。
カラン、と音を立て、向こうから扉が開かれる。
「すみません、道に迷っちゃったみたいで……」
「いらっしゃいマせお客様。――道案内はお任せください。当店にいらっしゃるお客様には、新たな道をご案内できルかと思います」
「えっ?」
戸惑った様子でやってきたのは、イロハと年頃が変わらない学生だった。制服からはどこのものか判断できないが、おそらく高校生。カフェの本業を考えれば、この人が自分たちと同じ異世界転移を体験するかもしれないのかと思わず手を止めた。が、学生が奥にいるイロハに視線を向けたところで、慌てて「いらっしゃいませ」と頭を下げる。
「あの、何言って……? 帰り道が知りたいんです」
「ご案内できマすよ。ただここに辿り着くというコとは、それだけが道じゃありません。当店は異世界転移紹介所。ご興味がありましたラ、どうぞご注文ください。お茶はサービス致します」
そこで従業員はすっと手を上げる。すると、ふわりと近くのテーブルからメニュー表が浮き上がり、従業員の手の中に収まった。どこからともなく黒い鳥が現れ、メニュー表の上をくるりと回ってその角に留まる。そうして羽を広げた時、一瞬辺りがきらめいて見えた。
それはとても、不思議な光景だった。
ぎょっとした様子でそれを見た学生が、ごくりと喉を鳴らした。よくわからないことを言っている相手の現実ではありえない行動が、言葉を止めたのだろう。
「異世界、転移。マジで?」
呟く声がイロハにも届く。どうやらこの学生は、ある程度知識がある……メグルのように適応できるのかもしれないとイロハは察して、どきどきとうるさい心臓に手を当てる。異世界は自分も体験したが、きっと自分とメグルとではあの時の感情に差があった筈。その後メグルが嬉々として転移者として活躍しているのは、聞いている。とても楽しそうに日々を過ごし、明るくなったのも見て知っていた。この人ももしかして……と茶葉を手にちらりと視線を送る。
学生は、差し出されたメニュー表を見て恐る恐る手を動かす。その手がメニュー表に触れた時、イロハにはすでに新たな道が開けたように感じた。
