異世界千道館  転移転生案内所


 がやがやと賑わう、入り口が大きく開かれた白を基調としたカフェの一角。窓際のソファ席に座る、上下共黒い衣服を着こむ男――従業員は、スマホを片手にコーヒーを飲んでいた。
 傍らにはたくさんのコーヒー豆が入ったロゴ入りの紙袋。カフェの敵情視察……ではなく、単なるお使いついでに休憩をとっている従業員が見ているのは、たくさんの文字の羅列。そこには、『悪役令嬢』や『婚約破棄』の文字がたびたび現れる。

(こういう話なのか)

 少し前に、悪役令嬢転生を望むお客様との出会いがあったので、任された買い出しついでに何となく検索してみたものだった。
 悪役という言葉がどうにも不穏であったが、店長があの女性におかしな転生先を案内するとは思えない。帰ったら経過を見てみようか、なんて思いつつスマホの電源ボタンに触れる。
 この端末は従業員の高校潜入時に用意されたもので、最近ではよく任されるようになった買い出しで重宝していた。主に美味しい飲食店検索で使用されているのだが、今回は真面目に仕事関連であったとも言えるだろう。……が、今回の買い出しは、お使いであるコーヒー豆がついでである。あくまでメインは従業員の私的な買い物であった。
 それが、カフェで休憩を取るほど従業員を疲労困憊に追い込んだ原因である。

 ポケットに手を当てれば、かさりと包装紙が音を立てる。
 中に入っているのは、黒いペン。上部に白い音譜模様がラインでさりげなく描かれているそれが、従業員が購入できる精一杯の『可愛いペン』だった。

(壊したペンの代わり……って言っても、いきなりこんなの増えても困るんじゃ)

 買ってしまってからも従業員はひどく戸惑っていた。天道イロハから借りたままになってしまっていた、音譜模様のペン。返せるようにしておくと店長は言っていたが、てっきり和菓子屋の息子にしたように店長がさりげなく戻してくれると思っていたのにそれがないまま、とうとう化け物退治の際に壊してしまった。こんなもの戻されても困るよなと悩んでいた従業員を見て、店長が代わりの物を選んできなさいと路地裏から追い出したのである。
 だが、文具屋にいっても従業員にはどれがいいのかさっぱりわからなかった。
 可愛らしいペンは山ほどあるが、従業員が数の多さに眉を寄せていた時、購入の為に手を伸ばしていたのは小学生らしい女児ばかりだったのである。
 よく見れば確かに、音譜の中に店長が好きそうなヒラヒラドレスを着た見知らぬアニメキャラがデザインされているものもあったので、さすがにこれではないような気がする、と従業員を狼狽させた。女子高生の『可愛い』がわからない。
 音譜に熊、違う。音譜に犬、なんか違う。音譜におじさん……なんで? と絵柄の豊富さに翻弄され、壊したペンと同じものなんて見つからず、パステルカラーに囲まれ散々悩んで四苦八苦した黒い少年は、結局いろんな店をはしごして三時間ほどかけて一本の黒いペンを手にしていた。
 レジで購入する際「プレゼントですか?」と問われて小銭をばら撒いた記憶を首を振って追い出しながら、従業員はため息を吐いた。ちなみにペンを包む包装紙にはリボンのシールが貼ってある。

 それにしても、見知らぬペンが増えていたら、天道イロハは迷わず教室前の落とし物ボックスに入れる気がする。

 しかも真っ黒な(白い音譜模様はあるが)ペンなんて、彼女のペンケースには入っていなかった気がする。買った後こうして時間が経過するごとに後悔が押し寄せ、しかしあの売り場に戻る勇気もなく、従業員は途方に暮れた。コーヒーは三杯目に突入している。
 三杯目を注文する際に持ち帰りで包んでもらったタルトや焼き菓子の紙袋も増え、もうそろそろ帰らなければとなんとか飲み干して立ち上がった従業員は、その後再び隠れるように座ることとなった。

 カフェの入り口に、見知った姿がある。

 きょろきょろと周りを見回していたのはメグルだ。そしてその後ろになぜか、天道イロハの姿がある。どうして。混乱の中で縮こまれば、ポケットがかさりと音を立てる。
 そうだ、ペン。いやでも。
 従業員が戸惑っている間に、あ、と目を見開いたのは、まさかのイロハだった。

「いた、イチくん!」
「え、……は?」
 なぜ、メグルではなくイロハが自分のことを覚えているのかと店員は前髪の下で目を丸くする。だがイロハは当然それには気づかず、周りの迷惑にならぬよう小走りで駆け寄ってきた。
「よかった、イチくんに会えた! 前は急にいなくなるし、誰も覚えてないしでびっくりして」
「あー、天道さん? 彼びっくりしてますよ、たぶん。見えないですけど」
「あっ、ごめんなさい!」
 メグルに助け舟を出されてなんとか一度落ち着いた従業員は、まさかと口を開く。
「アンタ、覚えてるのか……?」
「えっと、うん。実はあの後、誰も異世界の話をしないし覚えてないみたいでびっくりして。でも私は全然忘れてなくて。すごく混乱したんだけど、イチくんの机もないから誰にも聞けなくて……」
「で、僕が記憶を取り戻した後、友人たちに実際体験した転移の記憶から練り上げた自作ゲーム設定の話をしていましたら、彼女がもしかして覚えているのかと僕に問いかけてきたわけですよッ」
 二人の言葉を脳内で二度反芻し、従業員は漸く事態を飲み込んだ。

「なんで記憶が消えてなイんだ……?」
「さあ、それこそ奇跡とかでしょうか? あ、ここにきたのは奇跡でも偶然でもないですよッ! 店長さんに『記憶が残ってる女生徒がいる』と連絡しましたら、ここに行けと言われまして」
「店長……っ」
 間違いない。店長は相手がイロハだとわかっていてメグルに伝えたのだろう。そんなメグルは、店長案件の外注異世界転移に呼ばれたらしく、さっさとこの場を立ち去ってしまった。うきうきと。
 残された従業員とイロハの間に、沈黙が訪れる。

「……あの、座ってもいい?」
「あ、あァ……どうぞ。何飲む?」
「え、えと。イ……天員くんは何飲んでたの?」
「ブラックのコーヒー。次はカフェオレにする」
「じゃあ、同じので。えっと」
「金はいい」
 財布を取り出そうとするイロハを止め、従業員は一度冷静になろうと立ち上がった。四杯目のコーヒーを頼むことになるとは思わなかったが、このカフェの店員は笑顔で注文を受けるとすぐに用意を始めた。一度端に寄った従業員は、さてとこの状況を考える。

 まさか記憶が消えない生徒がいたとは思わなかった。これも、彼女の能力が開花していたせいだろうか。
 自分で考えても答えは出ないだろう。そう考えたところで、ふと、彼女が『イチくん』と呼んでいたことを思い出す。彼女には偽名だと伝えていなかったし当然だが、途中からは苗字呼びに戻っていた。そちらも当然偽名だが、なぜ使い分けていたのだろうか。
 かさりとポケットの中から包装紙の音がする。店長が言っていた『返せるようにする』というのは、まさかこういうことなのか。確かに、店長ならば天道イロハの記憶が消えていない可能性を考えていてもおかしくはない。

 出来上がったコーヒーをトレーで運んだ従業員は、座るなり覚悟を決めてその包装紙を取り出した。やると決めたらやる男なのだ。

「これ」
「え?」
「ペン、借りてたダろ。あれ、実はバケモン退治の時壊れたンだ。悪かっタ」
「……えっ、大丈夫? 怪我してないの?」
「ペンに助けらレた。悪い、同じのは見つけられなかった」
「ペンに……? あ、お役にたてたんなら全然いいよ! えっと、開けてみてもいい?」
 どこかそわそわとした様子のイロハに頷けば、包装紙を破くことなく丁寧に開けたイロハは、取り出した黒いペンを眺め、大事そうに両手で支える。
「嬉しい、ありがとう」
「……いいのか? ソレで」
「すっごく嬉しい。すごく。大事に使うね。……もう一回会えてよかった。あの時は、本当にありがとう」

 いや、と答えながら、従業員は戸惑った。あまりにもイロハが嬉しそうに笑う、その手には、自分が選んだ黒いペン。
 誤魔化すように飲み干すカフェオレは少し甘かった。


「で、彼女はどうスれば?」
 耳に手を当てて連絡を取れば、一度連れて帰って、と聞こえてくる店長の声に、やっぱりなと店を出た従業員は後ろを振り返る。
「えっと、もう解散かな……?」
「悪いけド、もうちょっと付き合っテ」
「えっ!? あ、うん! もちろん! どこでも!」
「悪い奴についていきそうだなアンタ」
「行かないよ!?」
 焦るイロハの手を掴み、従業員は真っ直ぐ道を歩き出す。え、と戸惑う気配は手から伝わるが、はぐれたりしたらとんでもないことになるのはお察しだ。

「行くぞ」
「え、天員くん、――えっ!」
 ちょうどあった曲がり角を手を引かれたまま曲がったイロハは、次の瞬間には一変していた景色に目を白黒させた。薄暗い、けれど明かりが柔らかい、不思議などこかの路地裏に、ぽつんとカフェがある。

「ようこそいらっしゃいまセ。入って。ここがオレの職場」
「素敵なカフェ……」
「まぁ入ったらびっくりすルけど」
「え? あ、お邪魔しま――」

「いらっしゃーい! あなたが魔女っ子ちゃんね! はじめまして~店長よ!」

 扉を開けるなり登場した店長にイロハは目を丸くし、従業員はやっぱりなと頭を抱えたのだった。手を繋いだままだと気づくのは、もう少し後の話だ。