異世界千道館  転移転生案内所

「おまえら二人とも結界カラ出ンじゃねェ! 無事でイタいなら自分も大人しクしてろ!」
 耳鳴りが止んで声が届くなったらしい二人、というより女を蹴り飛ばしただろう男に向かって叫び、再び従業員は駆け出した。
「ペンを返せ、このバケモンが!」
 ザッと音を立て影を掃くと、箒に持ち上げられたペンが宙を舞う。それを掴んでエプロンのポケットにしまい込んだ従業員は、足を奪い損ねたのだと気づいた化け物に再び足元を狙われるが、ビルの壁を蹴って移動することでそれを避ける。
 結界の外に出たために、あの位置に結界があることは意識されてしまっただろう。彼らを庇っての戦闘は難易度が跳ねあがる。
 これは出し惜しみしていられないかと空中に向け手の平を広げた従業員だが、その手を、がっしりとした指に掴まれた。

「よく頑張ったわね、あとは任せて」
「店長!」

 突如現れた店長は、はたきを振り上げる。それを見てその場から離脱した従業員は、結界内で言い争う二人の下に戻ってその前に立った。
 店長が間に合った。もう大丈夫だ。
 その安堵から漸く、後ろの二人の会話が耳に届く。

「最低よ! なんでこんなことするのよぉ……っ」
 店長が巻き起こしたはたきの風圧で、化け物から血が飛び散る。
「ウゼーんだよヒステリー女! おまえこそなんてことしてくれたんだよ! 俺はどうなったんだよ、てめぇのせいだクソ!」
 負けじと化け物が五本目の足で店長を捕らえようとするが、店長はがっしりとした体躯でありながら身軽にそれを避けた。
「私が何したって言うのよ! 浮気したのはそっちでしょ!?」
 それどころか五本目の足を掴み、そのまま強く引っ張り始める。綱引きのような一進一退の攻防は長くは続かず、化け物がとうとう覚束ない足を滑らせひっくり返った。もともと漏れ出ていた内臓が、飛び散る。
「遊びの何が悪いんだよ!? ちょっと遊んだくらいでうるせぇな!」
 やはり実体があるのか、倒れた瞬間衝突の大きな音が周辺を揺らす。一部ビルのガラスが飛び散り店長と化け物に降り注ぐが、店長はそれすらも刃としてはたき一振りで化け物に攻撃を繰り出す。
「遊び……? 浮気が、遊びだって言うの……?」
「それの何が悪い!」
「アノ、アンタら静かにシテくれない?」
 とうとう従業員は耐え切れず突っ込んだ。この二人には間近の風景が目に入っていないのだろうか。

 それにしても……

「あらやだ、そいつ最低ね」
「あ、店長オ帰りなさい」
「はいただいま。ところであなたねぇ、遊びって癒しとか楽しいとかそういったプラスの感情を生むのがいいんじゃない。周りにマイナスの感情植え付けて得る快感はただの迷惑行為よ。独りよがりな悪遊びがしたいなら、結界から出てこの路地裏彷徨ったらどうかしら。付き合ってくれる怨霊はいっぱいいるわよ」

 従業員が突っ込む前に、いつの間にかあのとんでもない化け物を塵のように掃い戻ってきていた店長が、男に睨みをきかせていた。
 突如現れた店長の言葉には言い返せなかったのか、男がまたしても情けなく顔を歪める。女に対してはひどい形相で詰め寄っていたというのに、おそらく強者相手に強く出られない性質なのだろう。

「で、でも俺はこいつのせいで!」
「その前にあなたが押したんでしょ? 咄嗟に掴まれたって文句言えないわよ」
「それはこいつが煩いから!」
「あんたがそうさせたのよ。やぁね、人のせいにばっかりしてなかなかの屑ね」

 大丈夫かしら、と店長が泣き崩れる女性を助け起こし、ついでに男の首根っこを引っ張り上げる。

「何すんだよ!」
「だってどう見ても原因あなたなんだもの。うちのスタッフを危ない目に遭わせたこと、許してないわよ」

 ふふふ、と笑う店長の凄みに男は縮こまった。やはり、強者には強く出られないようだ。

「この男はあたしが対応するわ。従業員くんはそちらの女性に事情を説明してあげてくれる? とっておきのお茶出してあげて」
「わかりました。店長、救助ありがとウございます」
「当然よ! 遅れちゃってごめんなさいね」

 ほら行くわよ、と店長が歩き出せば、一度見失ったカフェの明かりは、すぐそばにあった。



「……私、どうなっちゃったんですか?」
 用意されたお茶を一口飲み、涙を拭った女性は、意外にも落ち着いた様子を見せた。男がヒステリーがどうのと言っていたが、ヒステリックな様子を見せていたのはあくまで男のせいなのだろう。
 落ち着いてくれたのはいいが、落ち着いたからこそ気づいたのかもしれない。

 自分が今、普通ではない状況なのだと。

「よく、見えないんです。なんだか体のところどころがモザイクがかかってるみたい」

 それはこのカフェにいる為だ。このカフェはくつろげる空間をと店長が気を配っている為、客の精神状態によっては見なくていいものに偽りを与える場合もある。それが本人の為にならないならば明かす必要はないが、今はその偽りが必要であると従業員は感じていた。
「夢とも言える空間に明確な答えはありマセんから」
「……夢」
 女はまた一口、お茶を飲んだ。お茶は、女の希望でカモミールティーだ。鎮痛作用があるとも言われるそれを欲したのは、無意識なのだろうか。
 店長自慢のはちみつを加え、摘んだカモミールを浮かべたお茶の香りは優しくカフェ内に広がっていた。偽りは、今必要なすべてを与えている。
「私は、死んだんですね」
 それは確信を持った言葉だった。従業員はあえて言葉を発しなかったが、女にはそれで十分だった。
「味も香りも、わかってよかった。落ち着きました」
「……何か思い出しましタか」
「はい。私、婚約者に殺されちゃって、……殺しちゃった」

 それはとても、軽く流せる言葉ではない。だが女は困ったような笑みを浮かべたまま言い切った。
 婚約者だったのかあの男。従業員はそっと、転移の対応をこなすようになって与えられた不可視のウィンドウでそれを確認する。が、文字を追うまでもなかった。

「今日は、式の打ち合わせがあったの。なのに彼、仕事が入ったってドタキャンして。一人準備して空しいなと思って帰る途中で、女の人と腕を組んで歩いてる彼を見つけて……って、なんか漫画みたい」
「絵にかいたような屑ッテことじゃないですか」
「あはは、そうかも。……ついその場で問い詰めちゃって、女の人は逃げちゃうし、私は……車道に向けて突き飛ばされたのは憶えてて。たぶん、咄嗟に腕を伸ばしたのも。巻き込んでやるって最後に思ったのかなぁ」
「……そレは」
「助けて、欲しかったのかなぁ……」
 女の目に、涙が浮かんだ。答えは多分、わかっているのだろう。ぽろぽろと涙を零す女に、従業員は声をかけられず立ち尽くした。店長のように声をかけることができないのならば、せめて話を聞くことしかできないのではと経験不足を自覚する。それは、きっと相手にも伝わったのだろう。
「って、ごめんね、年下の男の子にこんなこと言っちゃって」
 女はやはり、苦笑する。困ったような笑みばかり浮かべる女だった。従業員にはそれがひどく痛々しく見えてしまう。
「無理して笑わなくていいと思いまスケど……って、これも漫画っぽいデすか」
「うん、うん! ふふ、ありがとう店員さん。ああ、これ本当に美味しい。美味しいな……」
 ぽたぽたと涙を流しながら笑みを浮かべてお茶を口元に運んでいるが、あまり量は減っていない。従業員は少し戸惑いながらも、席をはずそうかと立ち上がる。が、女はそれを止め、そこにいてくれるかなと苦笑した。
「怖い怪物なんて本当にいるんだね。あなたも危ない目に遭わせてごめんなさい」
「バケモン退治はオレの仕事デス。失態は俺が未熟なだけでスから。大丈夫、ここはもう安全です」
「そっか。お仕事頑張ってたんだね。そっか……もう、安全かぁ。……ふふ、……ごめん、ごめんね、お父さん、お母さん……」

 式を楽しみにしてくれていたのに。

 女は泣いていた。終始口にしていたのは「ごめん」であり、そこに恨みの言葉はなかった。


 やがて泣き止んだ女は今度こそお茶を飲み進めると、そういえば、とただ黙って待っていた従業員に声をかけた。

「ここはあの世じゃないんだよね? 素敵なカフェだけど、どういう場所なの?」
「ココは、元の位置よりちょっとズレた場所なんです。紹介所、といウか道案内が仕事」
「道案内?」
「……本来ここに訪れるのは、人を探す異世界人と、それに適合する異世界冒険希望者デす。転移とか、転生トか」
 言葉が足りない従業員に、女は一瞬きょとんとした表情を見せたが、すぐにぱちんと胸の前で手を叩く。
「あ、もしかして転生して悪役令嬢になっちゃうとか、そんな感じの? 漫画で見たことある!」
「悪役令嬢……? ああそういえばそんなのもアッタような……」
「わ、すごい。ホントにあるんだ、っていうか仲介業者があったの!?」
「仲介……まあソウですね、そうなります。すみまセン、オレ転移担当なんで、転生は詳しくナくて」
「いいのいいの、勝手に興奮しちゃってごめんね。それにしてもすごい! ねぇ私も転生できるかな? どうせなら悪役令嬢になって、浮気者の婚約者を今度こそとっちめたい!」
「めちゃくちゃ限定的ジャないですか」
 女は変わらず笑顔だった。まだ目じりが涙で濡れている為どこか痛々しく、従業員が一瞬言葉を詰まらせたとき。

「あら、いいじゃない! ちょうどあなたに紹介できる案件があるわね。期待にばっちり応えられるわよ!」
「店長」
「あ、店長さんなんですね、助けてくれてありがとうございました!」
 奥の部屋から現れた店長を見て、従業員は奥の部屋の様子を伺った。そこにはもう人の気配はない。
 強制だな、と従業員は判断した。そもそも転移と違い、転生は前提条件が大きく異なるのだ。
「あの男ならもう逝ったわ。ごめんなさいね、一発殴らせてあげたかったんだけど」
「いえいえ、もう顔も見たくないので。あいつももしかして転生したんですか?」
「そうね、まぁここに来た以上はしっかり道案内させてもらうのがお仕事なの」
 店長は少し複雑そうに答えたが、女はそっか、と呟くと頷いた。気持ちを切り替えると早いのか、それとも諦観からくるものか、それを考えながらも従業員はそっとお茶のおかわりを差し出す。
「なんかちょっと悔しいですね。漫画が好きで結構読んでたんですけど、あいつのことだから、男女比が大きく違ってハーレムになっちゃう世界とかですか?」
 その言葉にはちょっとした悔しさが滲んでいるが、怒り出すようなことはなかった。だが女の言葉に、店長はにっと笑って見せる。
「いやぁね、あなたと違ってあの男にそんな『徳』はないわよ。でもちょっと惜しい! ちゃんとお話してしっかり更生の道案内をしてあげたのよ。聞いちゃう?」
「聞いちゃう! いいんですか?」
「特別よ。あの男が行った世界は、じゃーん、こんな感じよ!」

 ぱっと女どころか従業員にまでウィンドウが提示され、その内容を見た瞬間女は目を丸くする。

「お、男の人が多くて女の人が少ない世界?」
「そう! ちゃんと女性を大事にできる男じゃないと、絶対モテないわ。というか希少な女性を守る制度がものすごく分厚い世界でね、品行方正にしていないと女性に会うことすらできないのよ」
「そんな世界が……」
「まぁあっちは魂が足りないからなんでもいいから送ってくれって感じだったんだけど。魔物が多いから戦える男も募集してたみたいね」

 それはわりときつい生涯になるなと、従業員は黙ってその情報を読み進めながらそう思った。男は品行方正とは縁遠い性質だろうし、魂に強い能力を秘めているわけでもなかったので。

「さ、次はあなたよ。素敵な転生先を紹介しちゃうわ!」
「ふふ、なんか楽しみになってきた。悪役令嬢でお願いしますね」

 いや悪役令嬢って、それでいいんですかとは従業員は思っても口には出さず、ただ店長と共に奥の部屋に向かう女を見送る。
 片付けようとしたカップに残ったカモミールはふわりと香りを残し、椅子に滴る血の匂いを誤魔化していた。

「次こそお幸セに」