「なぁ知ってるか、この辺りで噂の都市伝説!」
「はぁ?」
違う制服に身を包んだ学生が二人、重そうなリュックを背負って進めていた足を止めた。正しく言えば、呆れた男子生徒の前に明るい友人が回り込んでその行く手を遮ったのだが。
「だーかーら、最近ネットで噂の都市伝説なんだよ! のっくんそういうのあんま詳しくないだろ?」
「のっくんって呼ぶなっつの。ノゾムでいいだろ普通に。それともタツはタっちゃんで呼ぼうか?」
「ぎゃあ、姉ちゃんの呼び方真似すんな! いつも通りで頼んます!」
仲良さげな二人が多少騒いでも違和感がない程度には、若い世代の人通りも多い。塾帰りとあって空は真っ暗だが、そこかしこに立ち並ぶコンビニや飲食店のおかげで道は明るかった。
それにしても、暑い。
この暑い中背中に張り付くシャツは鬱陶しく、熱気がこもる原因だろう参考書だらけのリュックがひどく重く感じる。
歩道の横を走り去る車の向こうに見えた自販機に目を止め、喉が渇いたな、と目の前の友人から視線を外した少年――ノゾムは、「お目が高い!」と目線を追いかけるように顔を割り込ませてきた友人に盛大なため息を吐く。
「何がだよ。喉乾いたんだけど」
「あ、確かに。あっちーのにこの参考書どもが邪魔で汗だく……じゃなくて、あの自販機! あの自販機の横の路地が、異世界に通じてるーなんて噂があるんだよ!」
「はぁ? 異世界? 流行りの小説やアニメじゃあるまいし」
「いやそれが噂あんのはマジマジ。結構地域の話で噂上がってんだって! なんでも迷い込んだら帰ってこれないとか、中には異形の化け物がいっぱいいて死ぬまで戦わなきゃいけないとか――」
「それでどうやって噂が立つんだっての」
「それなー!」
どうやらタツもわかっていてノリノリでその噂話というものを話し始めたらしい。
入ったら出られない、死ぬまで戦うなんて話、ありふれたありえない話だ。それが真実なら、噂の語り手がそもそもいないのだから。
「でも気にならん? ノゾム、都市伝説系は興味なくても、異世界系の小説好きだろ?」
「まぁ……」
それは事実だった。来年は受験生、という高校二年生の夏休み。親に毎日勉強は勉強はと口癖のように問われ、家で参考書を開き外に出れば塾に通う日々は、正直言って夏休み感がまるでない。さっさといい大学に合格して家を出た兄のSNSでは毎日楽しそうな様子が伝わってくるというのに、自分の楽しみといえばこっそり端末で見るネット小説なのだから、つい時間も忘れて読みふけってしまうのだ。
小説には夢が広がっている。誰かに必要とされ、この世界ではありえない剣と魔法の世界で、自由に生きる。最初苦しい思いをする物語もあるが、大体はヒロインと出会って無双して、中にはたくさんのヒロインと出会うものまであって……とどこまでも自分には縁がない物語を、自分に似た冴えない主人公なんかが体験するのだ。夢見るくらい何が悪いという建前のもと、参考書の上でスマホを見続けることもある。
まぁそれでもただの趣味。実際そんなことが起きたら、という妄想をするだけであって、現実は家と塾の往復だ。いい加減喉の渇きが限界だったノゾムは、きょろきょろと周囲を見回して車の往来が途切れたことを確認し、道路を横切って駆け出した。
「お、興味深々?」
「バカ、あれ飲みたいの」
自販機には、でかでかと百円!の文字が躍っている。百円自販機ならコンビニより炭酸飲料が安く手に入るものもある。案の定たどり着いた自販機に好みのジュースを見つけたノゾムはポケットから財布を取り出した。
「ラッキー、百円じゃん」
タツも財布を取り出し、それぞれ硬貨を入れて色鮮やかなボトルを購入した。メロンソーダをごくごくと飲み出すタツの横でブドウの炭酸が喉を通り抜ける感覚に浸りつつ、ノゾムはスマホを取り出してお気に入りの小説の更新がないか確認する。今日はまだのようだ。
「んでさ、その都市伝説なんだけど」
「まだ言うか……」
「何人か挑戦はしてんだけど普通の路地でさー。ほんと、選ばれた奴だけ通れる説あるわけ!」
「まさか行ってみようとかいうなよな。この路地だろ? めっちゃ暗いんだけど」
わくわくとタツが覗き込む路地は街灯が不快な明滅を繰り返しているだけで、両脇の建物も明かりはなく、窓の何か所かには店舗募集の張り紙まであるし、あまりにも寂れた雰囲気だ。これではこの先の道にも明るさは期待できないだろう。あの先の小さな赤い光はなんだろうか、車の、ブレーキランプか――
路地を覗いていたノゾムはその時急に、ぞわりと闇の向こうに肌が粟立つような恐怖を覚えて、右足をずるりと半歩後ろに下げた。
だが。
「まあまあ、お試しってヤツ~!」
場違いに明るい友人の声が背後から聞こえたかと思うと、ノゾムの意思とは関係なく、足は再び前へと進んだ。否、から足を踏むように数歩前へと飛び出した。背に強い衝撃を受けると同時に、だ。
「タッ……!」
この状況の犯人であろう友人の名を呼ぼうとしたノゾムだが、その視界は暗く染まり、まるで視界がすべて消え去ったように、前後不覚に陥った。言葉すら、途中からすべてが飲み込まれたかのようにふつりと途切れる。
「……うわ、マジだった! やべ、マジのっくんの姿消えたじゃん! 選ばれしものってやつー!? あいつオヒトヨシだもんなーそれっぽい!」
その場に一人取り残されたタツは、ほんの一瞬、目の前で人が消えたことに背筋が冷えたものの、その意味を頭が理解したとたん興奮した様子で頬を紅潮させた。その手にはスマホが不自然に握りしめられている。
「撮れてっかなー、……うわ、押した衝撃でカメラまで地面向いてんじゃん最悪! 編集でなんとかなるかー……? あ、でも急に消えたのは間違いないし? うわーマジかよこの噂! 塾帰りの少年、異世界へ旅立つー! とかバズる? つか、これでのっくん帰って来なかったら、これこそ『誰も帰ることはない都市伝説』の目撃者兼語り手じゃんオレ~!」
タツは興奮冷めやらぬまま、その路地前からのろのろとスマホを手に歩き出す。
起動したチャットアプリには、教えてもらった通りでした! と興奮してスタンプを連発していた。グループなのかカラフルなスタンプや文字でにわかに騒がしくなる画面の向こうから、淡々と「確認ご苦労様でした」と短い文面が流れ去る。それがまた、恐ろしいとも誰も思わないものなのか。
【確認された】その後どうなるのか。次に続く可能性が生まれたとしても、テンションの差はあれど、同志の集まりの中に注意を促す者はいない。
勇者を異世界に送り込みし勇者爆誕!
都市伝説は本物だった!
伝説の語り手よ、詳細はよ――盛り上がる画面の向こうに思いを馳せ、タツはにんまりと笑みを浮かべる。そこに、今しがた姿を消した友人を心配する様子はなかった。ただただどこまでも自身が物語の主役であるかのように、高揚感だけが湧き上がっているようだ。
「勇者を送り込む勇者かー、へへ! 押したのはわかんないように編集したいな。あー、あいつの苗字何だっけ? ま、Nくんでいいか」
そう、二人はただの塾で知り合っただけの、浅いとも言える友人関係だった。タツの愛称をノゾムが知っていたのはたまたま他の友人たちがタツと話しているその場にいたからで、ノゾムが異世界小説にハマっていたのをタツが知っているのも更新を気にしたノゾムがスマホを覗き込む回数で彼女かと揶揄ったタツがたまたま知っただけなのである。
だからといって目の前で人が消えたことに、自分が押して引き起こした現象に、罪悪感を抱く様子は見られないのが不思議だと、画面の向こう側は誰も指摘しやしない。誰もかれもが、画面の向こう側を、アニメのように感じているのかもしれない。
タツは都市伝説やホラー動画の方が好きだった。いつかそんな動画をアップしてバズってみたい、なんて、昨今珍しくない欲求なのかもしれなかった。……倫理観の欠如については、別にして。
「マジ、のっくんなら異世界で勇者になってヒロインでハーレムつくちゃったり? オレってばキューピッドじゃん。受験だるすぎだしなー」
動画で成功しないかな、なんてスマホを弄る手は止まらない。友人の後を追うつもりもないタツの足取りは軽くなっていき、パタパタと鳥の飛び去る音を背に明るい大通りへと足を進めたのだった。
「チィ……チチチ」
