「ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」
「いいのよ、こちらこそ思わず飛び出しちゃって、ごめんなさいね」

 ちょっと驚いたからと悲鳴を上げるなど失礼すぎた。少女はひたすらぶつかった相手……この店の店長だという人物に謝罪を繰り返す。
 相手は気にしていないようだが、少女はその繊細なレースデザインのドレスに身を包む相手の逞しすぎる腕に抱き寄せられていることにとても驚いてしまったのだ。時代は多様性。人の趣味嗜好に文句を言うつもりはないが、少女にとって問題はそこではなかった。
 まだ中学生である少女は少しばかり引っ込み思案なところがあり、学校も彼女の住む地域ではたまたま学区内の人数が多いとは言い難いこともあって、男性に慣れていなかった。つまり、一見年齢が近そうで、ある程度距離をとってくれていた従業員はまだしも、自分より確実に年上だろうたくましい男性に腰を抱かれていた状況に悲鳴を上げたのである。

 が、少女は謝りながらも少しばかり首を傾げた。逞しくはあるが、特徴を掻い摘めば女性と言えなくもない。ジェンダーレス、という言葉が頭をよぎり、ならば自分も必要以上に意識しないようにしなければと改めて心に刻む。

「とりあえず、お飲み物はいかが? お代はお詫びにサービスしちゃう」
「そんな、ちゃんとお支払いします」
「いいのいいの。ちょっと、あなたがこちらに迷い込んだのはうちの不手際の可能性があるのよ。飲み物程度でお詫びが済むことじゃないのだけど」
「えっ、あ、そうだった。あの、両親が待っているのですぐ戻りたくて!」
「……ごめんなさいね。今、至急調査中よ。きちんと説明させてもらうわ。ただ外は……まあこんな状況だから。このお店の中は安全だし、無理にとは言わないけれど一杯くらい、ね?」
 こんな状況、といって店長が指したのは、従業員が持ち帰ったあの鉤爪。極力それが視界に入らないように配慮されたのか布がかけられていて、それでも少女は先ほどの状況を思い出し身を震わせる。
 今自分は普通の状況にないことを理解して、ぎゅっと一度目を瞑る。
「……じゃあ、あの、おすすめのカフェモカっていうの、飲んでみたくて」
「あら見てくれたのね、ありがと! コーヒーは普段飲まない?」
「はい、その、憧れてはいるんですけど、どういうの飲んだらいいのかよくわからなくて」
「なら、ミルクたっぷりめにしようかしら。ミルクやお砂糖は平気?」
「はい。甘いのは好きです」
「はぁい、少し待っていてね」

 にこにこと笑みを浮かべる店長がカウンターに向かい、そこで周囲を見回した少女は、慣れぬ内装に視線を留める。
 壁に掛けられた時計は両面タイプのようで、支柱から伸びた蔓のような細工の先に、可愛らしい葡萄を模した縁取りがまるく囲んだ、懐中時計に似たデザインの時計がぶら下がっている。
 天井には花の中央から優しく光が広がる可愛らしいシャンデリア。全体的に飴色で、温かい雰囲気だ。椅子は座面も背もたれもふかふかで、状況はまったく落ち着けないというのに、確かな安心感がある。そういえば隣のテーブルの椅子には、シマエナガの色を反転させたような、ふわふわの黒い鳥のぬいぐるみが乗っていた。もしかしたら、外のブラックボードに描かれていた鳥かもしれない。
 ふと、右手の甲、親指付近にピリッとした痛みを感じた気がして、少女は視線を落とす。なんだろうとまじまじ見つめて見れば、漸く見つかるような小さな傷。覚えがなく首を傾げ、少しして猫の首輪に触れた後ちょうどこの辺りに爪が引っかかったのではないかと思い当たった。
 痛みが、ここは現実だと訴える。気を引き締め直した少女は、少しだけ背筋を伸ばした。
 そこまで考えてもう一度見回した少女は、自分をここに案内した従業員がいないことに気が付いた。いつの間にいなくなったのだろう。


「お待たせ。よかったらこっちも食べてね」
「マカロン! 可愛い、いいんですか?」
「もちろんよ! 必ず帰してあげるから、ちょっとだけ待っていてね」

 大丈夫、なのかもしれない。少なくとも、店長に騙そうとかそういった悪意は感じられなかった。自分が十分世間知らずの子どもであることを理解している少女は、少し悩みながらもそっと口元にカフェモカを運ぶ。
 湯気から香る、母親が飲むコーヒーに近い香り。それでいてどこかココアのような甘い匂いも感じて、ふうふうと少し冷まして傾け、舌にのせる。
 思った以上に苦味はなく、ミルクの甘さが柔らかく口内に広がった。

「おいしい……!」
「よかった。それじゃ、少し待っていてね」

 店長は忙しいのか、少女をテーブルに残すとカウンターそばに戻っていく。なんとなくそれを目で追っていた少女は、店長がなぜか宙に浮かぶ青緑のプレートのようなものに手を滑らせ始めてぎょっとする。
 ホログラム? タブレット? いや宙に浮かんでる? とぎょっとしたが、先ほど見たこともない化け物に襲われたことを考えればマシな驚きだ。最先端の技術ってそこまで進化してたのかな、と首を傾げつつも、口に合ったカフェモカを飲み進め、可愛らしいパステルカラーのマカロンも一つ頂く。ぱりっとした表面が柔らかく沈み、口いっぱいに広がる香りと甘さがたまらない。

 少女の気持ちが少しばかり緩んだ時だった。

 突如カフェの奥が騒がしくなり、待ちやがれ、と先ほどの従業員の声が聞こえる。まさかあの化け物がここにも、と思わず身を強張らせて立ち上がった時、少女の目に映ったのは、あの駐車場で見かけた白い猫だ。

「あ、あの時の!」
 無事だったのか、と思ったが、すぐに猫は無事ではなくなった。店長が素早い動きで猫の首根っこを掴み上げて持ち上げ、そして奥からは知らない人物が飛び出してくる。

「我が聖女よ!」
「あんたのじゃねエよ!」
 後ろから追ってきた従業員が飛び込んできた男のマントを掴み、少女に駆け寄ろうとしたのを止める。
 混乱する少女の目の前に立った店長は、腕を一度振り上げた。その手の平が男に向けられる。

「あんたが元凶ね。依頼者変えて出直して来いって言ったでしょ!」

 一喝。
 自分が守られていることは理解できたが、状況がわからない少女がちらりと店長の後ろから顔を覗かせると……そこには、不自然に着ている服が身に纏わりつく――角があり、まるで見えない箱にでも首から下がぎゅうぎゅうに閉じ込められているかのような男の視線が、少女を捕らえる。足は動かないようだ。

「嗚呼! なんと愛らしい。ぜひ我が国にいらしてください! 救国の聖女、我が聖女よ!」
「だからあんたのジャねぇって言ってンだろ!」
 べし、と箱詰めの男の頭に従業員が箒を振り下ろした。何が何だかわからないが、混沌とした状況に思わず少女は「こわい」と呟き、目に涙を浮かべた。



「ああ、大丈夫よ大丈夫。怖いおじさんは閉じ込めておくからね。ほらお菓子でも食べて」
「あ、あの、猫……」
「ああ、これ? そうよね、猫に見えるわよね。でもよく見て? この場所ならちゃんと見えると思うから」
「え?」
 椅子に座るように促され、とりあえず箱詰め男が動けないのを横目で確認しつつ椅子に座りなおした少女は、いまだ店長の手の中にいるぶら下がる猫を心配した。が、妙なことを言われて首を傾げつつ見上げると、少女の目が大きく見開かれる。
 ふわふわの白い毛の小さな猫。……その腹部に、妙な赤い円がある。中に記号が書き込まれたそれはまるでファンタジー漫画の魔法陣のようで、とそこまで考えたところで、ぐにゃりと猫の形が歪んだ。
「ひっ」
「ね、猫じゃないでしょ? この男、とんでもないことしてくれちゃって」
 気づいてしまえば店長の摘まみ上げるそれが、白い髪の毛の束のようなものに変わっていた。首輪はそのままだが、それが毛の束を纏めているのだ。そこに『首』なんてない。

「な、何これ」
「何がとんでもない、だ! とんでもないのはお前らだろう! こっちは正式な手順を踏んでここに来たんだぞ!」
 少女の声に被せるように、箱詰めの男が喚く。喚くが、暴れることはできないのかやはり角ばった状態で床に直立で叫んでいた。
「今は違うでしょうが! 魔法を辿った不法侵入よっ! しかもこの毛! この前怒鳴り散らして外に飛び出した時、こっそりこの魔法を使ったんでしょう。思いっきり規約違反よ!」
「こっちは世界を守るのに必死なんだぞ! 我々の肩にはたくさんの国民の命が――」
「だーかーら、あんたみたいな邪な考え持ってるやつじゃなくてまともな奴が依頼に来いって言ったのよ!」
「善良なだけでは国を纏めることができないことも知らない奴らめ! 大儀の為だ! 大体魔法はちゃんと、我が世界に相応しい聖女のみを案内するようにしていたんだぞ。問題なかろう!」
「大アリよ! この子は望んでなんかいなかった!」
 そう、少女は大前提としてこのカフェに辿り着く条件を満たしていない。だからこそ、カフェの外に迷い込んだのだ。
 少女は現状に満足していた。異世界転生や転移を望んだことなど、なかったのだ。

 まだ説明を受けていなかった少女は、よくわからないが自分の味方はやはり店長と従業員であることは理解した。そして、望んだことはなくとも異世界トリップというものは知っていた少女は、だんだんと状況を理解し始める。
 自分は聖女とやらだと勘違いされ、あの猫だと思っていたものにここに連れてこられたのだ、と。