「あ、待って危ないよ!」

 咄嗟に出た言葉だった。相手は小さな白猫だ。にゃあ、と可愛らしい声で鳴いて少女の目の前に現れたかと思えばその足元にすり寄り、非常に愛らしい猫だった。
 だがここは大型ショッピングモールの駐車場だ。こんなところにいたら危ないよ、と少女が首元の綺麗な装飾の首輪を探る。もしかしたら飼い主の情報があるかも、と思ったが、迷子札はないようだった。周囲を見回し飼い主を探していると、突如猫が首元の少女の手を振り払い、あろうことかそのまま駐車場へと飛び出した。幸い車は通っていなかったが、慌てて危ないと声をかけ追いかけた少女は、猫が裏手の大きな搬入口に向かっていくことに焦りを覚える。トラックなんか通ったら、猫が危ない。
 その一心で柵の隙間を通った瞬間――

 なぜか、真昼間であったはずの景色が闇に落ちた。

「え、え?」
 慌てて周囲を見回せば、そこは見知らぬ路地、見慣れぬ林立するビル街だ。自分がいた筈の、遠くに山が見えるショッピングモールはどこにいったというのだろう。
 何より見上げれば、星一つない闇がそこにある。立ったまま、寝過ごした? そんな馬鹿なと少女は混乱して身を震わせた。

「ど、どこ? おかあさーん、お、とう、さーん……」

 呼びながらも、いないことは明らかだった。
 今日は家族と一緒に買い物に出かけた筈なのに。お気に入りの文具屋で、受験勉強も楽しくなりそうなノートを見つけて新調するはずだったのに。

「ど、どうしよう」
 ここはどこ。こんな都会みたいなビルが乱立した場所に心当たりはなかった。少女はそこそこ栄えている程度の、それでも山が近くに見える場所に住んでいたのだ。
 突然迷い込んだ、冷たさを感じる都会のジャングルで震える少女は気づかなかった。猫がいなくなっていることにも、背後から忍び寄る長い指の影にも。


 突如、びゅっと耳のすぐ横で鋭い音がした。遅れて髪の毛が後ろにふわりと舞い上がり、何かが通り過ぎたのだと少女が理解した時、後ろに黒い人影があることに気付く。

 そしてその正面に対峙する、やたら爪の長い赤眼の化け物。

「ヒッ」
「まに、あっタ! そこのヒト、あんまり離れないデください、よっ!」
「い、いやっ、なにこれっ……」
「そのまま大声も出さなイデくれると助かるんだけ、ド!」

 黒い人影――黒い上下にエプロンを付けた男が、掃除用具で化け物と戦っている。その化け物のあまりの恐ろしさに悲鳴すら掠れる少女を背後に、男が器用に箒で化け物を技量を持って押し込み始めた。少女から、少しでも距離を取るように。

「さっさと、キえろ!」

 素早い打撃からの、穂先での目つぶし。どうやら赤眼の化け物にとってそれなりのダメージとなったようで、ガァと悲鳴を上げて目元を覆った瞬間、その長い爪を男の蹴りが根こそぎ折った。輪郭が煙のように揺らいだ化け物だったが、どうやら実体が存在していたようだった。男が化け物相手に打撃を喰らわせることはいつものことだが、その多くはどろどろと溶けたり蒸発するように消えたりと身体を形として遺さないことが多いのに対し、この化け物の折られた爪は、ガラガラと音を立てて転がった。靄が晴れ、その曲線を露わにする。

 血に塗れてそれが染み込んだかのような、先端が鋭く長い鉤爪だ。

 それを見た少女は、声にならない悲鳴を上げた。喉を裂かんばかりに息が駆け抜けるのに、口から音は飛び出さない。恐ろしさで声を忘れてしまったかのようだ。
 だがそれが幸いしたようで、男が対峙した後化け物は少女を狙うことなく男との死闘を繰り広げ、そうして大きく蹴り飛ばされた後、不利を悟ったのか素早くその姿を闇に溶かした。一瞬足を踏み出しかけた男だが、後ろに少女がいることを思い出したのか、一度苛立たし気に箒で地面を掃ったあとは、そのまま変わらぬ闇に背を向けた。

「あー、店長。警護対象発見しまシタ。バケモンがいましたが、逃げられました。折った鉤爪、持ち帰ったほうがいいンすか」
 どうやらどこかと連絡を取っているらしい。少女が見上げても男の手にスマホの類は見られないが、耳元に手を当てているのでイヤホンがあるのかもしれないと、現実感が帰ってきたことで少女は周囲を見回す。
 あの恐ろしい影はもうないが、そこかしこから気配がするような、不気味な薄暗い路地。ぞわりと体を震わせ、いつのまにか座り込んでいたアスファルトから腰を上げる。すると反対に男が身を屈め、無造作に折れた爪をすべてかき集めた。

「アンタ、どうやっテここに?」

 まだ状況が飲み込めなかったせいか、その言葉が自分に向けられていることに少し遅れて気づき、少女は慌てて口を開く。

「あ、あの。助けてくれてありがとうございました! その、ここは、よくわからなくて……」
「誰かに路地に押サれたとか?」
 なんだか具体的な質問に少女は首を傾げつつ、いえ、とか細く答える。
「その、猫が、いて……」
「猫?」
「近所のショッピングモールの駐車場に猫が迷い込んでて、その、危ない方に飛び出していったから追いかけたら、急に……?」
「なるほど。猫が、ね」
 店員は一度周囲を見回したが、すぐにまた耳に手を当てるとどこかに状況を報告しているようだった。その間不安できょろきょろと少女は周囲を見回すが、やはり気配がひしめいているような、不気味な路地だ。

「アンタ」
「あ、はいっ!」
「今から安全なとこに連れて行くんでついてきてもらえマすか。ココ、危ないんデ」
「……さっきみたいなの、いるんですか?」
「まぁそれなりに?」
「うっ……わかりました。あの、ここどこですか? こんなビルがいっぱいあるところ、私知らなくて……」
「ここは、ちょっと『ズレたとこ』っていうか。まぁ、確実にアンタがいたとこカラは遠いと思います」
「……ズレ……」

 これは本当に、ついていって大丈夫なのだろうか。だがしかし、助けてもらったのは事実で、そして自分ではあんな見たこともない化け物の相手をすることは不可能だと少女も理解している。何よりこんな、誰もいなそうな路地裏で唯一の人である。化け物に連れていかれるよりは、マシ。というかついていかないとたぶん死ぬ。
 少女はほんの少しの間逡巡し、そして頷いた。
「そりゃよかった。んじゃ、この先はここにいる間、何があっても『名を名乗らず』、『よく考えて』動いてください」
「えっ? 名乗っちゃ駄目なんですか?」
 別に好き好んで個人情報を語りたいわけではないが、名乗るなと言われれば理由が気になる。そういった意味で尋ねた少女は、前髪で表情を伺えない長身の男を見上げる。多分少し年上、といった雰囲気だが、先ほど化け物と掃除用具で戦っていたことを考えるとなんとも高校生くらいとは断言しにくい。
「あんなバケモンに見つかった場所で名乗るほうが不用心デショ」
「う、確かに」
 ごもっともなことを言われ、少女は黙り込んだ。少なくとも、名乗れと言われるより名乗るなと言われる方が信頼できる気がして、自分の中で納得する……というのは安易だろうか。『よく考えて』を実行しつつ、それでも足は男の後を追った。今ここに残るのは、どう考えても危ないだろう。

 しばらく無言で歩いた後、ふとビルの向こう側の曲道からうっすらと明かりが広がっていることに気付き、少女の視線は期待を含んでそちらを見る。予想通り前を歩く男は明かりの方角へと足を向け、振り返ると少女が通るのを待つつもりなのか足を止めた。
 少女が緊張しながらビルの向こうを覗く。そこに、中学生の自分には少し早いような、それでも憧れを持ってしまう佇まいのカフェを見つけて、少女は今度こそ肩の力を抜いた。
 出入口のそばには、ブラックボードに『本日のオススメ☆カフェモカ』と踊るような文字がイラストとともに書かれていた。丸いフォルムに翼が生えたシマエナガのようなイラストが、カップのふちに止まっていて可愛らしい。そのボードが、硬派なカフェよりも中学生の少女にはとっつきやすく感じてほっと気が緩んだようだ。

 そうして扉を開け、ドアベルの音と共に少女が足を踏み入れた瞬間。

「きゃっ」

 どし、と飛び出してきた温かい何かにぶつかってしたたかに鼻を打った少女は、それが随分とレースが多いひらひらとしている服であることに気付いた。
 謝ろうと顔を上げ……そこで漸く、ぶつかった相手が自分の腰に手を回し支えてくれていることに気づき――

「ひゃわぁあああ!?」
「あらやだ、驚かせてごめんなさい!」

 悲鳴を上げた。