部長は猫

 部長は猫だった。
 比喩などではない。

「我が社の部長です」と紹介されたのは、茶色がかった白い毛に覆われ、耳と手足と顔の中央だけが茶色の青い綺麗な目をした獣。
 驚く私に、後ろにいた同期の猫田《ねこだ》くんが目を輝かせて言う。

「部長がシャムネコなんですか! さすがペット用品の会社は違いますね!」
「うん。この、ホタテ部長はね……あ、名前をホタテというんだ。ちなみにメスの五歳ね。ホタテ部長と呼んであげて」

 課長はそこで言葉を切ってから、私と猫田くんを見て続ける。

「もともとホタテ部長は、社長の飼い猫なんだよ。うちはペット用品を作る会社だから猫に判断してもらおう、って社長が冗談交じりに発言したのがキッカケなんだけど……」

 もったいぶるように少しだけ間を空けて、課長は再び口を開く。

「ホタテ部長の反応が良かったものは、大ヒット商品になるんだ」

 私は部長に視線を向ける。
 テーブルの上に座ってあくびをしていた。
 ただの猫にしか見えないけどなあ。

「すごいですね! さすがホタテ部長。抱っこしてもいいですか?」

 猫田くんの言葉に課長はうなずく。

「あ、私も抱っこしたいですー。今日、部長を抱っこしてないんですよー」

 近くにいた女性社員の言葉を合図にするかのように、部長を抱っこするための行列ができた。
 何なんだ、この会社……。


「あっ。犬山(いぬやま)さん」

 その日の帰り道。
 駅のホームで猫田くんとバッタリ遭遇した。
 彼はスーツの似合う痩身で、顔も整っており、いわゆるイケメンだ。
 ラッキーなことに彼とは新入社員研修の時に仲良くなれた。

「猫田くん、先に帰ったはずだよね。私は晩ご飯の買い物をしてたからこんな時間になっちゃったけど……」
「ホタテ部長と遊んでたらこんな時間になっちゃったんだ」
「猫好きなんだね」
「うん。大好き! 家にも五匹いるんだよ」

 猫田くんはそう言うと、とびきりの笑顔を見せた。
 本当に猫が好きなんだなあ。

「犬は好きじゃないの?」

 さり気ない私の質問に犬山くんは答える。

「ああ、犬はちょっと……」

 急に彼の顔が曇った。
 なんて分かりやすい人なんだろう。

「そっか」

 私はそれだけ言うと黙り込んだ。

 ハッキリ言うと、私は猫が好きではない。
 むしろ苦手だ。
 子供の頃、家で猫を飼っていたいたことがある。
 気の強いアメリカンショートヘアーで、懐かないし機嫌が悪いと噛んだり引っ掻いたりして凶暴だった。

 その点、犬は違う。
 人間に懐いてくれるし、頭が良くて、従順だ。
 それなのに何で猫が部長なんだろう。
 犬じゃあダメだったのかな。

 なんで猫田君は犬が苦手で、猫は大好きなんだろう。
 理解できない。
 まあ、名は体を表すというけれど。苗字も当てはまるのかな。

「ただいま」

 誰もいないと分かっているのに、ついつい自然と口に出てしまう。
 私は玄関を上がり、すぐに灯りをつけた。
 狭い台所で調理を始める。
 ……と言っても、スーパーで買った惣菜をレンジで温めるだけ。

 今、暮らしているのは、1Kのアパート。
 職場に近いからという理由で、今年から一人暮らしを始めたのだ。
 初めのうちは「これで夜遊びをしても親に叱られない!」と喜び、ワクワクした。

 でも、そもそも私は二十二年間、彼氏がいたことはない。
 つまり『彼氏いない歴イコール年齢』ってやつだ。
 しかも友人達も皆、社会人になってしまったため、夜遊びをする相手もいない。
 慣れない仕事で疲れ切って帰ってくるのに、その後で徹夜してまで遊ぶ気力もないのだけど。

「キラキラした人生とは真逆だなあ」

 私がそう呟いた直後。
 チン、という音が静かな台所に響く。
 野菜コロッケと唐揚げが温まった。
 それからサラダと、炊いておいたご飯をよそえば、晩ご飯の完成。  

「コロッケも唐揚げもいまいちだなあ」

 半分ほど食べた終えたところで、私は率直な感想を口に出した。
 母の作ったコロッケの方がずっと美味しい。
 ああ、実家に帰りたいなあ。
 やっぱり一人暮らしって寂しい。
 犬、飼いたいなあ。


 次の日、会社に行くなり課長に呼び出された。
 何事かと思えば……。

「え?! 猫……じゃなかった、ホタテ部長を私が預かるって、どういうことですか?!」

 私は驚いて課長を見る。

「いやあ。それがね、社長が結婚記念日で夫婦でハワイに行くそうなんだ。毎年、僕が預かっていたのだけど、今年は僕の方も都合が悪くてねぇ」
「ペットホテルに預ければいいじゃないですか」
「社長はペットホテルは信用していないそうなんだよ。うちの社員なら信用できると言っているんだ」
「私、アパートですからペット禁止ですよ」
「だーいじょうぶだよ! ほんの十日間ばかりならバレやしないよ」
「十日間も預かるんですか?!」
「そう。短い間だから。猫田くんは実家暮らしで、既に五匹も猫がいるそうだからねぇ……」

 私は黙り込んだ。
 課長は両手を顔の前で合わせて言う。

「犬山さんしか頼める人がいないんだ」
「……分かりました」

 私はそう言ってちら、とホタテ部長を見る。
 机の上で丸くなって寝ていた。
 いい気なもんだなあ。


 こうして私と部長の十日間の共同生活が幕を開けた。
 ペットフードやら猫ベッドなどの部長の身の回りのものは、社長が送ってきた。
 だから私は何の準備もしなくてもいいから気楽と言えば気楽ではある。

「高そうなもん食べてるなあ」

 私はそう言うと、猫用のおやつを見つめた。
 ホタテ部長はそれが欲しいのか、ニャーニャー鳴いている。
 同封されたメモに視線を落とす。

「ええっと、おやつは一日一回、かあ」

 部長がうるさいので、おやつを与えた。
 そして、それを食べ終えると猫用ベッドで眠ってしまったのだ。

「自由な生活してるなー」

 私はそう言ってあくびをする。
 時刻は午後10時。
 早いけど私も寝よう。

 次の日の朝。
 会社へ行く準備をしていたら、インターホンが鳴った。
 玄関のドアを開けると、猫田くんが立っていた。

「え?! 猫田くん?! どうした……」

 そこまで言ってから全てを察した。
 彼は笑顔で言う。

「部長も会社に連れて行くんだよね? 俺、手伝うよ!」

 うん。そういうことだろうと思ったよ。
 でも、部長をキャリーケースに押し込んで、それを抱えて電車に乗るのは辛いなあと思っていたので有難い。

「猫のいる生活っていいよね?」

 電車の中で、猫田くんがそう尋ねてくる。
 彼が右手に持ったキャリーケース。
 中にはホタテ部長がいるのだが、随分と大人しい。

「いいもなにも。まだ昨日、預かったばっかりだから」

 私の問いに、猫田くんがさらに質問を重ねる。

「抱っこくらいしたよね?」
「してない」
「さすがに撫でたでしょー」
「撫でてない」

 私がそう言うと、猫田くんはひどく驚いたような顔をした。

「犬山さんって、もしかして……猫、あんまり好きじゃない?」

 ちょっと寂しそうに彼は呟いた。

「うん、まあ。私は犬派なの」

 私がそう答えると、キャリーケースの中で「なー」と声がした。
 なんだか気まずくなって、私は黙って車窓の外を眺める。
 猫田くんは、キャリーケースの中の部長をしきりに気にしていた。
 部長は、大人しいものだった。


「どうする?」

 会社帰りの電車の中。
 猫田くんがそう尋ねてくる。
 彼は、私(というより部長)を送る、と言って半ば強引に一緒に帰ることになった。

「え? 何を?」
「新商品の開発だよ。猫の新しいおもちゃのアイデアを考えてこい、って言われたでしょ」
「あーあ。あれかあ。悩みどころだよね」
「俺、色々とアイデアがあって、どれがいいか迷ってるんだ」
「へぇ。そっか」

 私がそう答えると猫田くんは「あ」と言って、キャリーケースに視線を落とす。
 そして彼は遠慮がちにこう尋ねる。

「今日、犬山さんの家に行ってもいい?」

 断ろうと思った。
 だけど、こうして部長の入ったキャリーケースを持ってくれていることだし、何よりも……。
 猫田くんみたいなイケメンが、私の家に来る機会などそうそうないだろう。
 そう判断して快諾したのだが……。


「ほーら部長! とってこーい!」

 猫田くんはそう言うと、持参した小さなボールを台所に投げた。

「部長は犬じゃないんだから、そんな遊びしないよ!」
「えー。俺の家の猫はこうやってボールを投げると、追いかけて口にくわえて持ってくるんだよ」
「それ、猫じゃなくて犬だよ」

 私はそう言って部長を見た。
 彼女はボールに無反応で、大きなあくびをした。

「ほら」

 私の言葉に、猫田くんはボールを取りに行きながら言う。

「おかしいなあ」

 私はその後ろ姿を見て、小さく溜息をついた。
 イケメンの同僚が家に来る……なんて舞い上がったけど。
 一体、何を期待したんだろう。
 猫田くんは私ではなく、部長と遊びたいだけ。
 そんなことは分かりきっていたはずだ。

「ただでさえ家は狭いんだから、ボール投げはやめて」

 私はそう言うと、台所へ行ってヤカンに水を入れ、火にかけた。

「はーい。じゃあ、部長、猫じゃらしで遊ぶか!」

 寝室からそんな猫田くんの声が聞こえる。
 本当、何しに来たのよ。

 二人分のコーヒーをトレイに乗せて寝室へ戻ると、部長がジャンプをしていた。
 猫田くんの操る猫じゃらしで遊んでいるうちに、熱くなったらしい。

「へぇ。猫を遊ばせるの得意なんだね」

 私はそう言ってトレイをテーブルの上に置く。
 猫田くんは遊ぶ手を止めずに答える。

「うん。まあ、一応、生まれた時から猫がいる環境だしね」

 どんな環境だよ。
 すると、再び部長がジャンプをする。
 着地に失敗した彼女はテーブルに激突。
 カップのコーヒーがこぼれ、テーブルの上を満たす。

「あーあ。もー」

 私はそう言って布巾を取りに台所へ行く。

「部長、大丈夫?! 怪我はないか?」

 猫田くんは真っ先に猫の心配をしている。

「ごめんなさい!」

 彼はそう言って慌てて、台所へ走ってくると「俺が拭きます」と布巾を持って戻ってきた。
 猫田くんはテーブルを拭きながら言う。

「コーヒーは猫にとってあまり良くない成分が入ってるから、早めに拭かないと!」
「じゃあ、もっとテーブルから離れて遊んでよ」
「それもそうか!」

 猫田くんはそう言って笑った。
 なんなのこの人……。
 無邪気なのかアホなのかわかんない。

 猫田くんは、二時間たっぷり部長と遊び、撫で、抱っこをして帰って行った。
 私が出したコーヒーをもきっちり飲んでいったので、これでは無料の猫カフェのようだ。
 さらに「明日も迎えにきます!」と帰り際に言った。
 もう好きにすればいいよ。

 次の日も、その次の日も猫田くんは、朝迎えにきて、帰りは部長を送ったついでに遊んでいく。
 それが日課となった。
 最初はその光景をぼんやりと眺めているだけだった。
「猫田さんも部長と遊んでみなよ」と猫田くんに勧められ、猫じゃらしで部長を遊ばせてみた。
 なかなか難しいが、コツを掴んだら部長は狂ったようにじゃれる。
 それが面白くて時間を忘れて部長と遊んだ。
 くるくると回って目を回したり、ジャンプをして着地に失敗したり。
 そんな部長の姿がおかしくて猫田くんと大笑いをした。


「ホタテ部長ー。ごはんだよー」

 私の言葉に、猫用ベッドで丸くなっていた部長が顔を上げる。
 そして、私の足にすりっと体を押し付けてから、カリカリを食べ始めた。
 一緒に遊ぶようになってから、部長との距離が縮まった気がする。

 カリカリを食べる部長をそっと撫でてみた。
 背中がぴくりと動き、彼女がちらとこちらを見る。
 かまわず撫でてみると、喉をゴロゴロと鳴らし始めた。
 ちょっと可愛い。


 部長と暮らすようになって一週間が経過した頃。
 ドライフードを取り出す時のガサガサ、という袋の音だけで彼女はご飯だと分かるようになった。
 さらにスーパーの袋の音にも反応するので、惣菜を買って帰宅すると玄関の前で部長が待っていたりもする。
 ちょっだけ寂しさが紛れた。

 そして一番、大きな変化。
 彼女は夜になると、私の布団に入って眠るようになった。
 もうすぐ五月になるとは言え、まだ寒い。

「部長、あったかいなあ」

 私はそう言って部長を抱っこしながら寝た。


「どう? その後、部長とは」

 次の日の朝。
 電車の中で猫田くんがそう尋ねてきた。
 私は笑顔で答える。

「夜は同じ布団で一緒に寝てるんだ」
「マジかよー! 羨ましい!」

 この会話、はたから聞いたら変な想像になりそうだな。
 そう思って私は笑った。

「……ってことは、猫用のオモチャもいいアイデアが出た?」

 犬山くんの言葉に私は首を横に振る。

「それはまだかなー」
「まあ、困った時には部長に聞くといいよ」
「部長、便利に使われてるよ? ねー?」

 私はそう言ってキャリーケースの中を見た。
「なー」と部長が鳴く。
 猫田くんが笑った。


「あと三日だなー」

 私の家で、部長と遊びながら猫田くんがポツリと呟く。

「何かあるの?」

 私はそう尋ねてマグカップに口をつけた。

「社長がハワイから帰国するまでだよ。部長と過ごすのも後三日だな、って」
「ああ、そっか……」

 私はそう言うと壁にかけたカレンダーに視線を向ける。
 すっかり忘れていた。
 思ったより、あっという間だったな……。

「寂しい?」

 猫田くんが意地悪な笑みを見せて尋ねる。

「別にー」
「素直じゃないなあ。うちのさくらみたい」
「さくら、って?」
「うちの猫。美形だけどツンデレの姫」
「やっぱり猫か」

 私はそう言って笑う。
 そして、猫田くんに尋ねる。

「ねぇ。犬、苦手?」
「え?」
「犬は苦手なの?」

 私の問いに彼は黙り込んで、部長と遊びながら答える。

「犬は嫌いだ」

 胸がずきりと痛んだ。
 まるで自分のことまで嫌われたような気分だった。
 私は立ち上がって口を開く。

「何か甘い物でも買ってくる」
「え? ああ、俺が行こうか?」
「ううん。私が行く。猫田くんは部長と一緒にいて」
「分かった」

 私はちら、と部長に視線をやる。
 彼女はじっとこちらを見ていた。
 そして私が玄関のドアを開けた瞬間。

「部長ーーーー!!!」

 猫田くんの大声と共に、私の足元をものすごいスピードで何かがすり抜けて行った。
 目の前を横切っていった姿を見て初めて気付く。

「部長!」

 私が気づいた時には、部長は玄関のドアから外へ出て行ったあとだった。
 今まで脱走する気配なんて一度もなかったのに。

 私と猫田くんは慌てて部長を追いかける。
 駐車場の方へと走って行ったはず。
 しかし、私と猫田くんがそちらへ着いた時には、部長の姿はなかった。

 どこを探しても部長は見つからない。
 既に辺りが暗くなり始めている。
 私と猫田くんは、くたくたになって再びアパートの駐車場へと戻って来た。

「どこに行っちゃったんだろう……」

 私がそう言ってため息をつくと、猫田くんもため息をつく。

「そう遠くへは行ってないはずなんだけどなあ」

 何となく余裕のある彼の発言に、私はイラッとした。

「なんで私がドアを開けた時くらい遊ぶのをやめないの?!」
「俺が叫んだ時に犬山さんが気付いて、ドアを閉めるか捕まえるかしてくれれば良かったのに!」
「走り出した途端に猫田くんが捕まえれば出なかったのよ!」
「俺だって外に出るなんて思ってなかった! だから買い物なら俺が行くって言ったろ!」

 私は言い返そうとしてハッとした。
 買い物……。

「そうか!」

 私はそう言うと、慌てて家に戻った。
 手近なスーパーの袋を手に取ると駐車場に戻る。

「それで何するの?」
「部長はスーパーの袋の音に反応するのよ! これを使えばご飯だと思って戻ってくるかもしれない!」 

 私は早口でそう言うと、袋を大きく揺らして音を鳴らす。
 ダメ元だけど、やってみなくちゃ――。

「にゃー」

 猫の鳴き声。
 私と猫田くんは顔を見合わせた。
 すると、駐車場に止まっていた車の下から、一匹の猫が姿を現した。
 部長、と叫びそうになったが、それをこらえて二人で彼女を捕まえた。
 あっさりと捕獲成功。

「いやあ。本当、良かった!」

 猫田くんはそう言って安堵の表情を見せた。

「本当。一時はどうなることかと思った……」

 私もホッと胸をなでおろす。
 部長は、ご飯をたっぷり食べた後、寝室に置いた猫用ベッドでぐっすり眠っている。
 怪我はないようだ。
 部長を優しく撫でながら私は口を開く。

「私、犬が好きだけど猫も好きになった」
「ごめん」

 猫田くんはそういって顔を上げる。
 彼はしゃがんで、私に目線を合わせた。
 そして続ける。

「さっきは言い過ぎた。俺が悪いのに」
「ううん。私の方こそ、ごめんね」
「……それから、犬のこと嫌いだって言ったことも、ごめん」
「なんで? 嫌いなんでしょ?」
「いや、嫌いってゆーか怖いんだ。子供の頃に近所の犬に噛まれたことがあって……」

 猫田くんはそう言うとうつむいた。

「なーんだ。それなら私も猫、嫌いだったよ」

 私が笑うと、部長の背中がぴくりと反応した。

「今は好きだけどね」

 私がそう付け足すと、猫田くんはじっとこちらを見つめた。
 ドキドキと心臓がうるさくなる。
 猫田くんの右手が私の顔に近づいてきた。
 私は目を閉じる。
 耳元に彼の手がかすかに触れた。

「髪の毛に葉っぱついてたよ」

 猫田くんの言葉に目を開けた。
 あっ、そういう、ことね。
 うん、そうだよね。
 いや、別にキスされるとか思ってないけど?!
 思ってないから!
 ああ……。私も車の下に潜り込みたい気分。

 部長と暮らして十日目。
 一人と一匹暮らしの最終日だ。

 私はその日の夜、早めに布団にもぐりこんだ。
 部長が中に入ってきたので、抱っこした。

「ホタテ部長、もうこうして眠れないね」
「にゃー」
「でも、職場では会えるか」
「にゃ」
「でも、やっぱり寂しいね」

 私がそう言うと、部長は私の手を舐めた。

「慰めてくれてるの? 優しいね」

 私は手の甲で涙を拭った。


 それから部長は社長の家に戻って行った。
 私は部長のおかげで、猫のおもちゃの良いアイデアを思いつき、見事に採用されたのだ。
 そして、その商品はそこそこヒットした。


「部長のおかげだよ。ありがとう」

 私はそう言って部長を抱っこした。
 彼女は喉をゴロゴロ鳴らしている。

「でもね、部長のいない部屋は寂しいな」

 私はそう言って彼女に頬をすり寄せる。 
 あれから猫田くんも迎えに来なくなったし、送ってくれなくなったし、家にも来なくなった。

「まあ、私と一緒にいたかったわけじゃないから当たり前なんだけどさ」

 私はそれだけ言うと部長を下ろした。
 彼女は青色のガラス玉のような瞳でこちらを見上げている。

「じゃあ、今日は仕事も終わったし帰ろっと。また明日ね、ホタテ部長」

 私はそう言うと、自分の机に戻った。


「犬山さん!」

 駅のホームで呼び止められた。
 声の主は猫田くん。

「どうしたの?」

 私は振り返ってから立ち止まる。
 猫田くんは息を整えてから、勢いをつけるかのように言う。

「今から時間ある?」
「え?」

 驚く私に猫田くんは続ける。

「いい猫カフェ知ってるんだ。ふたりで行かない?」
「行く!」

 私は笑顔で答えた。