もう、弟なんて呼べない

 夜中、喉が渇いて目が覚めた。

 窓の外では虫の声が低く響いている。エアコンの風が肌を撫で、薄いシャツ越しに伝わるひんやりとした空気が、身体を包んでいた。

 ——あれ? 確か、風呂上がりに空からマッサージ受けてて……。

 ぼんやりとした意識の中で、記憶を手繰り寄せる。そうだ、練習で酷使した身体をほぐしてもらっていたんだ。最初は恥ずかしくて身体がガチガチにこわばっていたのに、空の手つきがあまりにも優しくて丁寧で、気がついたら意識が遠のいていた。

 あいつの手のひらの温度を、まだ覚えている気がする。

 肌に負担がかかるからと、マッサージオイルを塗られていたはずだ。それなのに、今は肌がさらりとしている。綺麗に拭き取ってくれたのだろう。しかも、ちゃんと服まで着せられていた。

 ——えっ? まさか。

 嫌な予感が頭をよぎる。

 ガバッと起き上がり、ズボンのウエストをそっと引っ張って中を確認する。

 ――ちゃんとパンツも履いている。

 ほっと息をついた直後、別の焦りが押し寄せてきた。

 もしかして、見られたのか?

 そう考えただけで、顔が一気に熱くなる。別に、俺たちは男同士だ。昔は一緒に風呂に入った仲じゃねぇか。恥ずかしがることなんて、何もないはずなのに。

 なのに——すっかり男らしくなった空を思い浮かべると、心臓がうるさく跳ねる自分がいた。

「は、ぁ……くそ」

 頭をがしがしとかきむしり、深いため息をつく。

 眠気はすっかり吹き飛んでしまった。ベッドを降りて窓際へ向かい、カーテンの隙間から外を覗く。月明かりが薄く地面を照らしていた。窓をほんの少しだけ開けると、夜の湿った空気が頬を撫でる。夏の夜特有の、草と土の匂いが鼻腔をくすぐる。

 ペットボトルの蓋を開けて、ミネラルウォーターを口に含む。渇いた喉に冷たい水が染み渡っていく。それだけで、少しだけ頭が冷える気がした。

 しばらく窓辺に腰掛けて、外をぼんやりと眺めていた。

 遠くで蛙の声がする。風が木々を揺らす音だけが響いている。静かな夜だ。

 マッサージのおかげか、身体が嘘みたいに軽い。明日の練習も、これなら問題なくこなせるだろう。

 ——空、すげぇな。

 そう思った瞬間、自然と口から言葉がこぼれていた。

「空、すげぇな」

 ひとりごとのつもりだった。だから、後ろから声が返ってきたとき、心臓が跳ね上がった。

「それはよかった」

 振り返ると、暗がりの中に空が立っていた。

 月明かりに照らされたその姿は、どこか現実離れして見える。寝起きなのか、少し乱れた髪が額に張りついていて——なぜか、目が離せなかった。

「悪りぃ、起こしちまったか」

「ううん、俺も喉が渇いて起きてた」

 空はゆっくりと歩いてきて、俺の隣に腰を下ろした。

 近い。

 肩が触れそうな距離。暑くて汗をかいているはずなのに、ほのかに甘いシャンプーの香りがする。

 空がペットボトルを手に取り、水を飲んだ。喉仏が上下に動くのが、暗闇の中でもはっきりと見えた。

 ——なんだよ、その仕草。

 妙に色っぽい、なんて思ってしまった自分に気づいて、慌てて視線を逸らす。

 ちょっと待て、俺。なんで空のこと色っぽいとか思ってんだよ。おかしいだろ。

 頬に熱が籠っていくのがわかる。薄暗くてよかった。こんな顔、空には絶対に見せられない。

「それより、ありがとな」

 声が少し上擦った。誤魔化すように言葉を続ける。

「俺、マッサージしてもらいながら寝落ちしちまったんだろ?」

「うん」

 空の返事は短かった。

 その声が、なぜか妙に甘く響く。暗くて表情がよく見えない。もしかして、笑っているんだろうか。それとも……。

「その……服も、着せてくれて、ありがとな」

「……うん」

 また、短い返事。

 沈黙が落ちた。

 虫の声だけが、やけに大きく聞こえる。互いに何かを言いあぐねているような、妙な緊張感が漂っていた。

 俺はいたたまれなくなって、焦って口を開いた。

「お、おかげで身体がスッキリしたし、これで明日も頑張れそうだ」

 我ながら、取ってつけたような台詞だ。

 しかし空は何もいわなかった。

 再び沈黙が訪れる。なんだか気まずくて、俺はペットボトルを手に取り、水を口に含んだ。ごくり、と喉が鳴る音が、静寂の中でやけに響いた。

 だめだ。このままじゃ、おかしくなりそうだ。

「じゃ、じゃあ……明日も練習あるし。俺、もう寝る」

 くるりと空に背を向けて、ベッドへ向かおうとした。

 その瞬間——手首を掴まれた。

 空の手は、思っていたよりもずっと大きくて、熱かった。

「陽くん」

 低い声が、背中に落ちる。

 その呼び方に、心臓が大きく跳ねた。今、一生懸命「陽先輩」と練習している方じゃなくて、「陽くん」。小学生の頃、あいつがいつも俺を呼んでいた、あの呼び方だ。

 振り向こうとした瞬間、後ろから抱きしめられた。

 空の腕が、俺の身体をきつく包み込む。背中に、あいつの体温が伝わってくる。首筋に、熱い吐息がかかった。

「——っ」

 声が出なかった。

 頭が真っ白になる。何が起きているのか、理解が追いつかない。

「……空?」

 かろうじて名前を呼ぶ。声が震えていた。

 空は答えなかった。ただ、腕に込める力が少しだけ強くなった気がした。

「ずっと、こうしたかった」

 耳元で、空が囁く。

 低くて甘くて、聞いたことのない声だった。俺の知っている「幼馴染の空」とは、まるで別人みたいだった。

「……は?」

「陽くんに、触れたかった。ずっと」

 心臓がうるさい。耳の奥で、自分の鼓動が響いている。

「お前、何いって——」

「好きなんだ」

 空の声が、静かに響いた。

「陽くんのことが、好き」

 時間が止まったような気がした。

 虫の声も、風の音も、何も聞こえなくなった。ただ、背中に感じる空の体温と、耳元にかかる吐息だけが、やけに鮮明だった。

「昔からずっと憧れてた。かっこいいなって、俺もああなりたいなって思ってた」

 空の声は落ち着いていた。でも、俺の腰に回された腕が、かすかに震えているのがわかった。

「でも再会して、一緒に練習して、話して——気づいたんだ。これは憧れなんかじゃないって」

 ぎゅっと、抱きしめる力が強くなる。

「陽くんのこと、恋愛対象として好きだ」

 ——恋愛対象として。

 その言葉が、胸の奥深くに突き刺さった。

 弟みたいな後輩。幼馴染。守るべき存在。

 そうやって、ずっとラベルを貼り続けてきた。そうしないと、自分の中の何かが崩れてしまいそうで。

 でも本当は--、とっくに気づいていたのかもしれない。

 空の視線にドキドキしていたこと。あいつの手に触れられると、心臓がおかしくなること。男同士だからと、必死に言い聞かせていたこと。

 全部、全部——。

「……空」

 名前を呼ぶと、背中の腕がびくりと強張った。

 俺はゆっくりと振り返った。

 月明かりの中、空の顔が見えた。いつもの余裕のある笑顔はどこにもなくて、真剣で、少し怯えたような目をしていた。

 ああ、こいつ——本気なんだ。

 そう思った瞬間、胸の奥で何かが溶けていくのを感じた。

「お前さ」

 声が掠れた。

「……いつから、そんなデカくなったんだよ」

 空の目が、一瞬大きく見開かれた。

 俺は続けた。

「昔は俺の後ろにくっついて、すぐ泣いてたくせに。いつの間にか俺より背ぇ高くなって、声も低くなって——」

 言葉が詰まる。喉の奥が熱い。

「気づいたら、お前のことを目で追ってた。練習中も、飯食ってる時も。マッサージされてる時なんか、心臓うるさくて……」

 空が息を呑む音が聞こえた。

「……陽くん」

「弟だと思ってた。後輩だと思ってた。でも——」

 俺は、空の目を真っすぐに見つめた。

「もう、そんなふうに見れねぇよ」

 空の目が潤んでいるように見えた。月明かりのせいかもしれない。でも、次の瞬間——空が笑った。泣きそうな顔で、でも嬉しそうに。

「ずるい」

 空が、一歩近づいてきた。

「そんなこといわれたら、もう我慢できない」

 ——あ。

 そう思った時には、唇を塞がれていた。

 柔らかくて、熱くて、少しだけ震えている。ぎこちないキスだった。でも、それが余計に、空の本気を伝えてきた。

 目を閉じる。

 抵抗する気なんて、最初からなかった。

 むしろ——ずっと、こうなることを待っていたのかもしれない。

 唇が離れた時、俺たちは額を寄せ合っていた。互いの吐息が、顔にかかる。

「……ごめん」

 空が小さくいった。

「いきなり」

「謝んなよ」

 俺は笑った。自分でも驚くくらい、穏やかな声が出た。

「嫌だったら、突き飛ばしてる」

 空の目が、また潤んだ。今度は確実に、泣きそうな顔だった。

「陽くん——」

「もう一回」

 自分でいっておいて、顔が熱くなった。

「もう一回、してくれよ」

 空は一瞬固まって——それから、花が咲くみたいに笑った。

「……うん」

 二度目のキスは、さっきよりも深かった。

 空の手が俺の頬に触れる。指先が、耳の後ろを撫でる。くすぐったくて、でも離れたくなくて。

 ああ、もう——だめだ。

 こいつのこと、弟なんて呼べるわけがない。



 俺たちは並んでベッドに座った。肩が触れ合う距離だ。さっきまでの緊張感は嘘みたいに消えて、不思議と穏やかな空気が流れていた。

 窓の外では、相変わらず虫が鳴いている。もうすぐ夜明けが近いのか、空気が少しずつ冷たくなってきた気がした。

「……信じらんねぇ」

 俺は天井を見上げながら呟いた。

「なにが?」

「お前と、こうなるなんて」

 空が小さく笑った。

「俺は、ずっと想像してた」

「……マジかよ」

「マジ。再会した時から、いつかこうなればいいなって」

 横目で空を見ると、照れくさそうに笑っていた。こういう顔をする時だけ、昔のちびの面影が残っている。

「お前、結構キモいな」

「ひどくない?」

「でも——」

 言葉を切って、俺は空の手に自分の手を重ねた。

「嬉しい、かも」

 空の手が、俺の手を握り返してきた。大きくて、温かい手。昔は俺が握ってやる側だったのに、いつの間にか逆転していた。

「陽くん」

「ん?」

「明日から、どうする?」

 その問いに、俺は少し考えた。

 部活は続く。チームメイトの目もある。簡単なことじゃないのは、わかっている。

 でも——。

「とりあえず、明日の練習乗り切るところからだな」

 空が、ぷっと吹き出した。

「そういうとこ、好き」

「うっせ」

 照れ隠しに悪態をつきながら、俺は空の手を握る力を少しだけ強くした。

 窓の外が、うっすらと白み始めていた。もうすぐ朝が来る。合宿最後の日だ。

 ——もう、弟なんて呼べねぇな。

 心の中で、そう呟いた。

 不思議と、怖くはなかった。むしろ、胸の奥がじんわりと温かい。

 空の手の温もりを感じながら、俺は静かに目を閉じた。

 夏の夜が、ゆっくりと明けていく。