もう、弟なんて呼べない

 春も終わりを告げる頃、今年のインターハイ出場をかけた予選が始まった。大会初日はまるで夏が訪れたかと思うような日差しの中で行われた。

 レギュラーで出場している俺は、高校最後のインターハイを目指してピッチを駆け回る。空気は梅雨前でカラッとしているのに、額にはじっとりと汗がにじみ、ユニフォームが背中に張り付いて不快な感触が広がる。

 グラウンドの向こうで、ベンチから身を乗り出して試合を見つめる空の姿があった。真剣な眼差しで俺のプレーを追っている。その視線を感じると、なぜか胸の奥がくすぐったくなる。

 ハーフタイムになりベンチに戻ると、空が真っ先にタオルを手に駆け寄ってきた。

「陽く……じゃなくて、先輩。タオルどうぞ」

 空はまだ俺のことを「先輩」と呼び慣れないらしく、いつも言い換える。本当は「陽くん」でもいいのだけど、他の一年生の手前、そういうわけにもいかない。チームメイトの視線を気にして、空がわざと距離を取るようにしているのが、なんだかおかしくもあり、少し寂しくもあった。

「おぉ、サンキュ」

 タオルを受け取って顔をゴシゴシと拭くと、ふんわりと柔軟剤の香りが鼻を包み込む。俺の家とは違う、なんだか空の匂いみたいで、ホッとするような香りだった。昔、空の家に泊まった時も、この匂いに包まれて眠った記憶がある。

「これ、空の?」

 タオルを顔から離してぶらぶらと振ってみせると、空は「うん」と頷いた。その時、少し照れたような表情を浮かべたのを俺は見逃さなかった。

「陽く……先輩のタオル、どこかわからなかったから」

「悪りぃ! てっきり俺のかと思って……洗って返すわ」

「いいよ。家に持って帰って洗えばいいだけだから」

 空は大したことないといわんばかりに手を振った。でも、その手の動きがどこかぎこちない。

「あれ? 陽く……先輩、タオル貸して」

「ん? お、おう……」

 空が手を差し出すのでタオルを渡すと、それを受け取った空は俺に近づいてきた。一歩、また一歩と距離を詰めてくる空に、俺の心臓が早鐘を打ち始める。

「ほら、ここ。汗、まだ拭けてない」

 耳元に息がかかりそうな距離で、空が俺の首の後ろの汗を拭った。優しい手つきでタオルが肌を撫でる度に、背筋がゾクゾクした。空の指が時折、直接肌に触れる。その度に、電気が走ったような感覚に襲われる。

「……っ!」

「あ、ごめん。痛かった?」

 体がビクッと反応したからか、空が慌てて俺から離れた。心配そうに覗き込んでくる顔が、妙に近い。

「いや、そうじゃなくて……」

 なんだか気恥ずかしくなって耳が熱くなった。まるでそこに心臓があるみたいに、耳の奥がどくんどくんと脈打つのがわかる。空の吐息が首筋に残っているような錯覚に陥る。

「どうしたの? 顔、赤いよ?」

 空が眉を下げて不安そうな顔をする。手を伸ばして俺の額に触れようとしたので、俺は反射的に後ずさった。

「なんでもない! ちょっと暑いだけだ!」

 そういって空に背を向けてその場を後にした。背中に空の視線を感じながら、逃げるように水飲み場へと向かった。

 冷たい水を飲みながら、さっきの感覚を思い出す。空に触れられた瞬間の、あの妙な感覚は何だったのか。昔はよく手を繋いで歩いたし、おんぶだってしてやった。なのに、今は触れられるだけで体が熱くなる。

 ――まさか、な。

 頭を振って邪な考えを追い出した。空は幼馴染で、弟みたいな存在だ。そんな風に意識するなんて、おかしいに決まってる。



 予選を順調に突破し、今年もインターハイ出場を決めた。決勝戦は実力が拮抗していて負けるのではないかとヒヤヒヤしたが、終了間際に俺の放ったシュートが運よくゴールネットを揺らした。

 試合終了のホイッスルが鳴った瞬間、空が真っ先に駆け寄ってきた。他のチームメイトより先に、俺の元へと一直線に走ってくる。

「陽くん、やった! すごい!」

 興奮のあまり、空は俺に飛びついてきた。汗だくの体同士がぶつかって、空の体温が直に伝わってくる。一瞬、時が止まったような感覚に陥った。

「お、おい……みんな見てるぞ」

 慌てて空を引き離そうとしたが、空はしばらく俺にしがみついていた。やっと離れた時、空の頬が紅潮していることに気づいた。



 帰り道、オレンジ色に染まった空を見上げながら、二人で並んで歩いた。夕陽が二人の影を長く伸ばしている。蝉の声が遠くから聞こえてきて、夏の訪れを告げていた。

「陽くん、今日めちゃくちゃかっこよかった」

 空が横から俺を見上げながらつぶやいた。その瞳に夕陽が反射して、きらきらと輝いている。

「あのシュート入ってよかったわ。俺、結構体力の限界だったからさ。延長戦に入ってたら、もう動けなかったし」

「さすが副キャプテンって感じだったよね! あぁ、俺も一緒のピッチに立ちたかったな……」

 空は興奮が冷めやらぬ様子で喋り続けていた。そんな空の横顔を見上げる。昔は俺が見下ろしていたのに、今は俺が見上げる立場になっていて、内心複雑な気分だ。いつの間にこんなに背が伸びたんだろう。声も低くなって、横顔も少し大人びて見える。でも、喜んでくれる表情は昔のままで、それが妙に愛おしく感じる。

 ――相変わらずかわいいやつだな……。

 俺はふっと口元を緩めた。やっぱり空は守ってやりたくなる存在だ。いや、本当にそうか? 最近の空を見ていると、守られているのは俺の方かもしれない。

「そういえば、インハイ前に合宿あるよね?」

「あぁ。夏休みに入ったら一泊二日でサッカー三昧だぞ」

「俺、陽くんのサポートしっかりするね!」

 空の目が期待に輝いている。その真っすぐな視線に、胸の奥がざわついた。

「おいおい……俺の専属になるのか? 嬉しいけど、他のやつの手前、あまり派手にやるなよ」

「わかってるって。でも、陽くんのことは特別にサポートしたいんだ」

 特別、という言葉に心臓が跳ねた。空はどういう意味でいったんだろう。幼馴染として? それとも……。

「なんか、恥ずかしいこというなよ」

 照れ隠しに空の頭を軽く小突くと、空は嬉しそうに笑った。俺を見るその瞳がキラキラしていて、眩しかった。



 夏休みに入ってすぐ、インターハイに向けた合宿が行われた。県内の施設での一泊二日の合宿。朝から晩までサッカーに明け暮れることになっている。

 夏休みに入る前に、鬱陶しかった梅雨が明けた。今は空から容赦ない日差しが降り注いでいる。朝から気温はぐんぐん上がり、グラウンドの上は陽炎が揺らめいている。ねっとりとした湿気を含んだ空気が肌にまとわりついて、汗が身体中から噴き出てくる。

 レギュラーメンバーは、実戦形式の試合を繰り返し行った。

「ヘイ、パス!」

 手を上げてパスを促し、前に走り出す。足元にボールが吸い付くように受け取ると、そのままドリブルして足を振り抜いた。

 ズバシュッ!

 ゴールネットが激しく揺れた。

「ナイス!」

「おう!」

 メンバーとハイタッチを交わして微笑み合った。もうすぐ高校最後のインターハイだ。悔いの残らないようにしたい。そう思いながらも、どこか寂しさが胸を締め付ける。この夏が終われば、俺の高校サッカーも終わりだ。空と一緒にプレーできる時間も、あとわずかしかない。



 休憩中、ベンチに座りドリンクを飲んでいると、空がやってきた。汗で前髪が額に張り付いていて、それを手でかき上げる仕草が妙に色っぽく見えた。

「陽く……先輩、足、揉んであげる」

「え? いいって。汗かいてるし、臭いぞ」

「陽くんは臭くなんかないよ」

 そういって空は俺の前に片膝を地面について座り、俺の足を自分の膝の上に乗せた。その瞬間、太ももに空の手の温もりが伝わってきて、どきりとした。

 アキレス腱、ふくらはぎ、膝裏と手際よくマッサージをしていく。その力加減がちょうどよく、体の力が自然と抜けていった。空の大きな手が俺の足を包み込むように動く。時折、指先が素肌を撫でる度に、くすぐったいような、心地いいような、不思議な感覚に包まれる。

「空、マッサージうまいな……」

 思わず感心して声が出た。本当にプロ顔負けの手つきだ。

「陽くんの役に立ちたくて、練習したんだ。YouTube見たり、本読んだりして」

 空は俯きがちにいった。耳まで赤くなっているのが見える。

「本当はお尻のマッサージもした方が疲れが取れるけど、ここじゃ寝そべることできないから」

 お尻、という言葉になぜか反応してしまう自分がいた。空に触れられることを想像して、顔が熱くなる。

 空は一身に俺の足のマッサージを続けている。真剣な表情で、まるで大切なものを扱うように丁寧に揉みほぐしていく。その姿を見ていると、胸の奥が温かくなった。

 ちょうど両足のマッサージが終わった頃、休憩も終了した。

 その場に立つと、パンパンだった足がすっきりとして動きやすくなっていた。まるで生まれ変わったような軽さだ。思わず目を見開き、空を見ると満足そうに微笑んでいた。

「お前……すげえな」

「お役に立てて光栄です」

 わざと大げさに頭を下げる空に、俺は苦笑した。

「またやってくれよ」

「もちろん! 陽くんのためなら、いくらでも」

 空は嬉しそうに目を細めた。その顔に胸が跳ねる。「陽くんのため」という言葉が、やけに心に響いた。

 ――なんだ……この感覚……。

 俺は不思議な感覚に襲われて、思わず胸をぎゅっと握りしめた。空への気持ちが、少しずつ変わってきているのを感じる。



 一日中、ピッチを所狭しと走り回ったせいで、夜になる頃には何もしたくないほどくたくたになっていた。シャツは汗でびっしょりと濡れ、足は鉛のように重い。けれど、空がマッサージをしてくれたおかげで、なんとか最後まで走り切ることができた。

 宿泊所に入り、あてがわれた部屋に行くと、そこには空がいた。宿泊所は二人で一部屋になっている。扉を開けた瞬間、空と目が合って、互いに一瞬固まった。

「なんだ、空と同室だったのか」

 平静を装っていったが、内心は動揺していた。一晩中、空と二人きりだ。その事実に、なぜか緊張する。

「陽くん、よろしくね」

 空の笑顔がやけに眩しく見えた。

「あー、疲れたな」

 俺は床に座り、足を投げ出した。全身から疲労感がにじみ出ている。

「動きたくなくなる前に、お風呂入ろうか? 俺、湯船にお湯ためてくるね」

 空はいそいそと風呂場に向かっていった。その後ろ姿がなんだか嬉しそうに見えたのは、気のせいだろうか。鼻歌まで歌っているような気がする。戻ってきた空は、やはり満面の笑みだった。

「空、なんかいいことあったのか?」

 緩みっぱなしの顔をじろじろと下から見上げて呆れ顔になった。けれど空は、笑みを崩さない。むしろ、さらに嬉しそうな顔になった。

「だって、陽くんと一晩中一緒にいられるじゃん。そりゃ嬉しいよ」

「おまっ! ガキじゃねえんだからな……」

「一緒のベッドで寝るなんて、小学生以来じゃん?」

「ば、ばか! ベッド二台あるだろうが!」

 まるで子供のような言葉の応酬に、なぜか顔が熱くなった。小学生の頃、空の家に泊まった時、怖い夢を見たといって俺の布団に潜り込んできたことを思い出す。あの頃の空は本当に小さくて、俺が守ってやらなきゃと思っていた。でも今は……。

「ふふっ。冗談。けど、陽くんと一緒にいられて嬉しいのは本当だよ」

 空は腰を屈めて、俺と同じ目線になった。俺を見つめる視線が熱い。瞳の奥に、何かいいたそうな光が宿っている。しばらく見つめ合っていたが、恥ずかしくなって思わず目をそらしてしまった。

「お風呂から上がったら、全身マッサージしてあげるから。先に入っておいでよ」

「お、おう……」

 全身マッサージ、という言葉にまた動揺する。なぜだか俺の世話を焼きたがる空の言葉に引っかかったが、とりあえず湯船にゆっくり浸かって疲れを癒すことにした。



 湯船に浸かると、うとうとしてしまい、寝落ちしそうになる。今回の合宿はハードだったから、意外と体への負担が大きかったようだ。熱い湯に体を沈めていると、疲労が少しずつ溶けていくような気がした。でも同時に、これから空と二人きりで過ごす夜のことを考えると、落ち着かない気持ちになる。

 風呂から上がると、空は部屋でストレッチをしていた。柔軟な体が大きく曲がる様子を見て、また心臓が跳ねた。

「疲れ取れた?」

「ああ、なんとかな……お前も入ってこいよ」

「うん。すぐ上がってくるね」

 そんなに慌てて入ることないのに、と思ったが、後でマッサージしてくれるといっていたっけ。気合い入ってるなと思うと、空がとてもかわいく感じてしまう。

 空が風呂場へ消えていく間、俺は部屋で一人になった。静かな部屋に、遠くから聞こえる水の音だけが響く。なぜか落ち着かなくて、ベッドに座ったり立ったりを繰り返した。



「陽くん、お待たせ!」

 思っていたよりずっと早く、空が戻ってきた。髪がまだ濡れていて、水滴が首筋を伝っているのが見える。

「え? もう上がったのかよ」

「俺、シャワーにしたから」

 まさに烏の行水ってやつだろう。十分もかからず戻ってきたのだからな。

「ちゃんと洗ってきたのか?」

 わしわしと頭を撫でると、ほんのり湿っていた。シャンプーの香りが鼻をくすぐる。

「ほら、ちゃんと乾かしてないじゃねえか!」

「大丈夫だよ、夏だし」

 確かにそうなのだが……。もう空は高校生なのだから、昔みたいにぐちぐちいうのはやめておいた。でも、濡れた髪から滴る水滴が、妙に色っぽく見えてしまう。

 空は俺の前に立つと、少し緊張したような表情を浮かべた。

「じゃあ陽くん、脱いで」

「へ?」

 突然の言葉に、俺は固まった。

「服。全部脱いで。できたらパンツも」

「はあぁぁ?」

 全部――パンツまで脱ぐということは、全裸になるということだ。俺は全身真っ赤になった。顔だけじゃない、首から胸まで熱くなるのがわかる。

「な、な、なんで全裸にならないといけねえんだよ!」

 声が裏返ってしまった。空は真面目な顔で俺を見つめている。

「だって直接肌をマッサージした方が、効くんだもん」

 それに、と空は続けた。

「今日、きちんと体をメンテナンスしておくと、明日の練習が楽になると思うんだけど」

 こてんと顔を傾けて俺に笑いかける空の顔を、歯噛みしながら見つめた。その無邪気な表情が、逆に俺を追い詰める。でも、その顔を見ると力が抜けてしまった。

「……わかったよ」

 まあ、男同士だし、何か問題なんて起こるはずないだろう。そう自分にいい聞かせる。でも、心臓は相変わらず早鐘を打っている。

「じゃ、じゃあ脱ぐから。こっち見るんじゃねえぞ」

 空に背を向けて、震える手でシャツを脱いだ。ズボンも脱いで、最後にパンツも……。全裸になった瞬間、今まで感じたことのない恥ずかしさが全身を包んだ。

「うつ伏せになって」

 空の声が、いつもより低く響く。俺はいわれるままにベッドにうつ伏せになった。シーツの冷たさが火照った体に心地いい。

「じゃあ、始めるね」

 空の大きな手が、俺の背中に触れた。その瞬間、全身に電流が走ったような感覚に襲われた。

「力、抜いて」

 空の声が耳元で囁かれる。その息が首筋にかかって、ゾクゾクと背筋が震えた。空に身を委ねながら、俺は目を閉じた。