もう、弟なんて呼べない

 高校生活、最後の年。

 グラウンドには容赦ない陽射しが降り注ぎ、芝生から立ち昇る熱気が陽炎のように揺れている。汗で張り付いたユニフォームを引っ張りながら、俺――橘陽(たちばなよう)は、ゴールポストに向かってボールを蹴り込んだ。

 鋭い音を立ててネットが揺れる。

「橘、ナイスシュート!」
「はいよ!」

 チームメイトとハイタッチを交わす。掌がぶつかる音が、四月の澄んだ空に響く。

 俺が通う県立東高校は、サッカーの強豪校というわけじゃない。それでも、ここ数年はインターハイ出場を果たしている。三年生になってレギュラーを確保し、副キャプテンという立場になった今は、最後の夏に向けて気持ちが高まっていた。

「今日はここまで! 片付け始めろ!」

 監督の声が響き渡る。

 練習後の疲労感が心地いい。シューズで芝を擦る音、仲間たちの笑い声、そして汗の匂い――どれも俺にとっては日常の一部だった。

 小学生の頃からサッカーを始めて、もう十年近くになる。地域のクラブチームで基礎を学び、中学では県大会まで進んだ。高校でも迷わずサッカー部に入り、今ではこのグラウンドでの時間が生活の中心になっている。

「橘、ちょっと来い」

 ボールを片付けていると、監督に呼ばれた。振り返ると、部室の前に見慣れない顔が並んでいる。

 新入生だ。

 四月も半ばを過ぎて、一年生の入部希望者が続々と集まってきていた。今日は正式な入部届を出した新入部員の紹介らしい。

「全員集合! 新入部員の紹介をする」

 監督の号令で、部員たちが集まってくる。

 一年生が五人、緊張した面持ちで並んでいた。どの顔も初々しく、これから始まる高校サッカーへの期待と不安が入り混じっているのが伝わってくる。

「じゃあ、一人ずつ自己紹介してもらおう」

 最初の男子が前に出た。中学で県選抜だったという触れ込みの選手だ。次々と自己紹介が続く中、俺は何となく視線を巡らせていた。

 そして、最後の一人が前に出た瞬間――。

久我空(くがそら)です。よろしくお願いします」

 その声を聞いて、俺は息を呑んだ。

 くが、そら……?

 まさか、と思いながら顔を見つめる。

 背が高い。俺より少し高いくらいだろうか。肩幅もしっかりしていて、顔立ちは少年の面影を残しながらも、確実に男の顔になっている。

 でも、その目元に、俺の知っている面影があった。

「……空? お前、空か?」

 思わず声が漏れる。

 空がこちらを見て、ふわりと笑った。その笑顔は、昔のままだった。

「陽くん、久しぶり」

 五年ぶりの、その声。

 懐かしい呼び名に、記憶が一気に蘇る。



「おい橘、知り合いか?」

 チームメイトの声で我に返る。

「ああ、幼馴染だ。昔、隣に住んでたんだ」
「へぇ、そうなんだ」

 周りがざわつく中、空は相変わらず柔らかな笑みを浮かべていた。

 ミーティングが終わると、俺は真っ先に空のところへ駆け寄った。

「本当に空なのか? いや、まさか同じ高校に来るなんて……」
「偶然じゃないよ」

 空は悪戯っぽく笑う。昔と変わらない、人懐っこい笑顔だ。

「東高のサッカー部に陽くんがいるって聞いて、受験した」
「は?」

 予想外の答えに、俺は言葉を失った。

 久我空は、俺の幼馴染だ。家は隣同士で、物心ついた頃から一緒に遊んでいた。年齢は俺の方が二つ上。小学生の頃は、いつも俺の後ろをついて回る泣き虫な奴だった。

 夏休みは毎日のように一緒に過ごした。セミを捕まえたり、川で泳いだり、秘密基地を作ったり。空はいつも「陽くん、陽くん」と俺を慕ってくれた。

 でも、俺が小学校を卒業すると同時に、空の家が引っ越すことになった。親父さんの転勤だったらしい。隣の市とはいえ学区が違うから、会う機会もめっきり減って、中学三年間はほとんど会わなかった。最初は連絡を取り合っていたけど、お互いの生活が忙しくなって、いつの間にか疎遠になっていた。

 まさか高校で再会するなんて。

「背、伸びたな」
「陽くんこそ。でも、俺の方が高くなっちゃったね」

 空が少し身長を比べるように近づいてくる。

 確かに、空の方が数センチ高い。見上げる形になって、妙な違和感を覚えた。

 昔は俺が見下ろしていたのに、いつも俺の腰の辺りにしか頭がなかった小さな空が、今は俺を見下ろしている。

「お前、いつの間にこんなにデカくなったんだよ」
「中学で急に伸びたんだ。陽くんに追いつきたくて、牛乳いっぱい飲んだ」

 冗談めかしていうが、その目は真剣だった。

「サッカー、続けてたんだな」
「うん。陽くんみたいになりたくて」

 さらりといわれて、照れくさくなる。

 「バカ、そんな大したもんじゃねえよ」

 頭を掻きながら誤魔化すと、空がくすりと笑った。

 その笑顔を見て、胸の奥がざわついた。

 何だろう、この感じ。

 昔と同じ笑顔のはずなのに、何かが違う。



 練習後、俺と空は二人で帰ることになった。

「そういえば、今どこに住んでるんだ?」
「実は、また陽くんちの近所。去年、親の仕事の都合で戻ってきて」
「マジか」
「陽くんの家、まだあの場所だよね?」
「ああ、変わってない」

 歩きながら、昔の話に花が咲く。

「覚えてる? 夏祭りの時、金魚すくい全部失敗して、陽くんが自分の分けてくれたこと」
「そんなこともあったな」

 実はよく覚えている。空が泣きそうな顔をしてたから、つい自分の金魚をあげたんだ。

「あの金魚、結構長生きしたんだよ。三年くらい」
「へぇ」

 他愛もない会話だけど、不思議と心地いい。

 春の風がさっと頬を撫でた。桜の季節は終わったけれど、新緑の匂いが爽やかだ。街路樹の葉が風に揺れて、さらさらと音を立てている。

「陽くん、変わらないね」
「あ? 何が」
「サッカーしてる時の真剣な顔。昔から格好良かったけど、もっと格好良くなってる」
「……何いってんだよ」

 真正面から褒められて、顔が熱くなる。空は昔から素直だったけど、こんなにストレートだったっけ。

「本当のことだよ」

 空が真っ直ぐな目で見つめてくる。その視線から逃げるように、俺は前を向いた。

「先輩って呼ばなくていいのか? 学校では」
「あ、そっか。部活の時は先輩って呼ぶよ。でも、二人の時は陽くんでもいい?」
「……好きにしろ」

 ぶっきらぼうに答えたけど、内心では嬉しかった。陽くん、という呼び名が、妙に心地いい。

 横断歩道で信号待ちをしていると、空が不意にいった。

「俺、ずっと陽くんに会いたかった」
「……そうか」

 何と返していいかわからず、曖昧に頷く。

「中学の時、陽くんのこと調べたんだ。東高でサッカー続けてるって聞いて、すごく嬉しかった」
「調べたって……」
「共通の知り合いに聞いたんだよ。陽くんが副キャプテンやってるって聞いて、やっぱり陽くんだなって」

 空の言葉に、胸が熱くなった。

 こいつ、ずっと俺のこと気にかけてくれてたのか。

 信号が青に変わり、俺たちは歩き始めた。

 空の横顔を盗み見る。

 整った顔立ち、少し長めの睫毛、柔らかそうな髪。昔の面影はあるけれど、もう子どもじゃない。

 首筋に汗が光っている。喉仏が動く度に、妙に目が離せなくなる。

 当たり前だ。五年も経てば、人は変わる。

 でも、この違和感は何だろう。

 空と並んで歩いていると、妙に落ち着かない。距離感が掴めないというか、昔みたいに自然に接することができない。

「陽くん」
「ん?」
「また一緒にサッカーできて、嬉しいです」

 夕陽に照らされた空の笑顔が、やけに眩しく見えた。

 オレンジ色の光が空の頬を染めて、一瞬、ドキリとした。

 何だよ、この感覚。



 別れ際、空が立ち止まった。

「陽くん、明日の朝練、一緒に行ってもいい?」
「別に構わないけど……早いぞ?」
「大丈夫。陽くんと一緒なら」

 また真っ直ぐな目で見つめられて、俺は視線を逸らした。

「七時に俺ん家の前な」
「うん!」

 嬉しそうに頷く空を見て、昔を思い出す。

 小学生の頃も、こうやって毎朝一緒に登校していた。空はいつも俺の家の前で待っていて、寝坊した俺を起こしに来ることもあった。

「じゃあな」
「うん、また明日」

 空が手を振って去っていく。その後ろ姿を見送りながら、俺は複雑な気持ちになった。



 家に帰ってシャワーを浴びながら、俺は今日の出来事を何度も思い返していた。

 久我空。

 幼馴染の、弟みたいな存在。

 それが俺の高校に入学してきて、しかもサッカー部に入った。しかも、俺に会うために。

 鏡に映る自分の顔を見つめる。

 頬がまだ少し赤い。何でだろう。

 シャワーの湯を顔に浴びせながら、空の顔を思い出す。

 あの真っ直ぐな目。昔と変わらない人懐っこい笑顔。でも、声は低くなって、体つきもがっしりして、もう昔の空じゃない。

 何でこんなに動揺してるんだ、俺。

 ただの後輩じゃないか。昔馴染みの、可愛い後輩だ。

 そう自分に言い聞かせても、胸のざわつきは収まらなかった。

 ベッドに寝転がり、天井を見上げる。

 空の声が耳に残っている。

『陽くんみたいになりたくて』
『ずっと会いたかった』
『陽くんと一緒なら』

 あいつ、何考えてんだ。

 わざわざ俺のいる高校を選ぶなんて。

 携帯が震えた。メッセージの通知だ。

 開いてみると、空からだった。

『今日はありがとう。陽くんに会えて、本当に嬉しかった』

 絵文字は使わない、真面目な文章。それが空らしくて、つい笑ってしまう。

『おう、明日遅刻すんなよ』

 返信すると、すぐに既読がついた。

『大丈夫! 陽くんこそ、寝坊しないでね』

 昔を知ってる奴だからこその返信に、苦笑する。

 そういえば、昔は空の方がしっかりしてたんだよな。俺が寝坊ばかりしてて、いつも空に起こされてた。

『うるせぇ』

 短く返信して、携帯を置いた。

 でも、すぐにまた手に取る。

 空のプロフィール画像を見る。サッカーボールを持って笑っている写真だ。

 中学でもサッカーを続けていたんだな。

 俺みたいになりたくて、か。

 嬉しいような、恥ずかしいような、不思議な気持ちだ。

 窓の外では、春の夜風が優しく吹いている。カーテンが揺れて、月明かりが部屋に差し込んだ。

 明日から、空との高校生活が始まる。

 最後の一年、俺のサッカー人生の集大成となる年に、あいつが現れた。

 それが何を意味するのか、俺にはわからない。

 ただ、胸の奥で何かが静かに揺れ始めていることだけは、確かだった。

 明日の朝、空が家の前で待っている。

 そう思うだけで、なぜか眠れなくなりそうだった。