母の命日の日に、故郷で墓参りをしたあと、近くの駐車場でしばらく休んでいたときだった。どこからかミャーミャーと、どこか物寂しげな猫の鳴き声が車の下から聞こえてきた。外にでてみると、よろよろと倒れそうな子猫がでてきて、ぼくの足にしがみつき、そのままぼくの肩まで登ってきた。そしてぼくの肩に爪を立てて、離れなくなってしまった。母の命日ということもあって、なにやら縁を感じた。体は赤ちゃんのように四頭身で、みているだけで母性本能をくすぐられてしまった。ぼくは男性なのだが、男性にも女性ホルモンがあるらしい。この愛おしいと思う気持ち、守ってあげたいという思いはおそらく母性本能なのだと思った。ある意味、ヒゲの生えた母性本能なのだが。
近くに人家はない。捨て猫なのだろうか。この猫を飼ってあげたい気持ちはあるのだが、ぼくの妻の美子が、ペットを飼うことに強く反対しているのだ。美子は二十八歳で、ぼくよりもひとつ年上だった。ファンタジーな物語やアニメ、そして海や自然の風景を眺めることがふたりとも大好きだった。そのうえふたりとも音楽好きで、美子はぼくより背が低い和風美人だ。美子は決して動物が嫌いなわけじゃない。美子が、十五歳の頃から十数年ほど飼っていた犬の風太郎が病気で死んだ。それからいわゆるペット・ロスになり、あまりの悲しみ、寂しさに、二度とペットは飼わないと決めていたのだ。
しかし、おなじヒゲ族としてほっておくわけにもいかない。ぼくが仕事をしているホームセンターの店に行き、猫用のミルクとキャットフード、トイレと砂を購入した。それから書店に行き、猫の飼い方が書いてある本を数冊購入した。
家に帰ると美子は買い物らしくいなかった。さっそく子猫に食事をさせてみる。しかし、ドライタイプも缶詰も食べようとしない。どうやらまだ離乳食まえの子猫のようだった。捨てるにせよ、こんな赤ちゃん子猫を捨てるなんて、いろいろと訳はあるのだろうが、無性に怒りの気持ちがわいてきた。とにかく子猫は猫用のミルクは飲んだ。どうにか元気になりそうだと一安心した。ぼくは子猫にミャーという名前をつけ、そしてしばらく家の二階にあるぼくの書斎でミャーをかくまうことにしたのだ。もともと父親の建てた家なのだが、その父も、二年前に肺炎で亡くなっていた。ぼくの部屋にしていたところを書斎と称して、インターネットや読書などをする場所としていたのだ。この部屋には美子も入らない。一人で読書をしたり書き物をしているときには邪魔しないという取り決めがふたりでかわされていたのだ。
ミャーと暮らしはじめてから、一ヶ月ほどたったある日、ぼくとミャーの関係に転機が訪れた。ぼくがミャーに猫用のミルクをつくり、飲ませているときだった。ぼくの怪しい素振りになにかを感じていたのか、美子がこっそりと階段をあがってきて、突然ドアをあけたのだ。
「満彦、なにかこっそりとやってると思ったら」
美子の怒っているときの低い声が、ぼくの耳を直撃し、
「ごめん、話そうと思っていたんだけど」
ぼくは、借りてきた猫のように、美子の顔色をうかがった。
眉間に皺を寄せた美子の顔が、しだいに柔らかくなり、微笑みに変わった。ミャーは美子の姿をみつけると、すぐにミャーは美子の足にまとわりつき、ミャーミャーと、必殺女殺しとぼくが名付けた、本家本元の猫なで声で鳴いた。
「可愛い猫ね、どうしたの?」
ぼくは急いで事のいきさつを話した。すると美子の顔がしだいに怒りの形相に変化してきた。目が潤み、唇が震えてくるのが危険を知らせるサインだ。
「あ、ほんとにごめん!」
「満彦に怒っている訳じゃないの。こんなミルクしかまだ飲めないような子を捨てる無責任な人に怒っているのよ!」
美子とは二年前に結婚したのだが、まだ子供はいなかった。だが、さすがに子供の頃から猫や犬たちと暮らしていたせいで猫の扱いがうまい。赤ちゃんを抱くように、やんわりと抱きあげて、
「よしよしいい子だね。おじちゃんはタバコを吸っていて、猫ちゃんの体に悪いから、お姉さんのところにいようね」
と、めったに聞けないような優しい声でミャーの額のあたりを優しくなでていった。ぼくもミャーになりたいものだと一瞬思った。
それにしても美子のほうがひとつ年齢がうえなのに、なんでぼくがおじちゃんで美子がお姉ちゃんなのか、とは思ったが、どうやら一緒に暮らすことには同意してくれたようだ。ぼくは心のなかでほっとしつつも、舌をだしていた。
夜の食事を終えると、ぼくはいそいそと書斎に向かう。デスクのうえのパソコンに電源を入れ、株の状態をみるために、スマイル証券のサイトをひらいた。昼間はスマホで株の取引を行うこともある。便利な世の中になったものだ。銘柄はテレビでもよくでてつぎからつぎへと話題を提供している若い経営者が社長をしている会社の株だ。今のところ十六万ほど儲かっていた。百万ほど利益がでたら、家の敷地にもう一台くらい車を停めることのできる駐車場をつくりたいのだ。ぼくがパソコンのキィを叩いていると、ミャーがやってきてパソコンのキーボードにうえに乗っかった。いつも株取引をはじめると邪魔をしにくる。株以外のサイトを閲覧しているときは、膝のうえや近くで寝ているだけなのだが。
「ミャー、どうしたんだよ。なぜいつも株をやろうとすると邪魔するんだよ」
ミャーは首をかしげて、ぼくをじっとみつめていた。株は一秒ごとに変化する。あっというまに株価が下がってしまうこともたびたびあるが今までは運がよく下落する株を買ったことはなかった。しかし今夜はちがった。ぼくが買っていたCYUという通販会社の株が下がりに下がり、売ろうとしても処理できずに底値まで落下していった。ぼくはすぐにテレビをつけてみた。なんとCYUの社長がインサイダーの疑いで事情聴取を受けるというニュース。言葉もでなかった。ただ呆然としてテレビ画面をみつめていた。テレビ画面がどろどろに溶けてゆく真っ黒な溶岩にみえてきた。
悪いときには悪いことが重なるもので、美子がぼくの背中を叩いていた。
美子の顔が怒りの形相だ。美子は震える指先を、パソコンのモニターに向けていた。
美子はモニター画面をくいいるようにみつめ、
「満彦、あなた、株をやっていたのね。それに、ずいぶん損をしたみたいね。先日、庭を掃除していたら、結婚指輪をどこかに落としたみたいで、満彦にも探してもらおうと思って部屋に入ってみたら、もう、こそこそと」
逆ギレしてしまったぼくは、ついああだこうだと言い返し、美子を本気で怒らせてしまった。
「株で損をしたことよりも、私に相談なくやっていたことが情けないわ。ちょっと頭を冷やしたいから、しばらく実家に帰るからね」
*
あれから一週間。美子のいない家は、まるで模型でつくられた世界のようで味気なく、。一人で食べる食事も寂しくて美味しくない。美子に詫びて帰ってくるように電話をしようとするのだが、なんとなく延び延びにしてしまっていた。そんなとき、ぼんやりとしていたせいか、ドアをあけたスキに、ミャーが外に出てしまった。すぐさま追いかけたけれども、もう夜も十時を過ぎていた。首輪の鈴の音は聞こえるけれども、ミャーの姿はどこにも見えなかった。ミャーは箱入り娘ならぬ、箱入り息子だ。家に閉じこめておくのはなんだか可哀想だと思い、屋根の上を自由に散歩させたり、猫用リードをつけて、一緒に家のまわりを散歩をしてはいるが、自由には外出はさせてはいなかった。ぼくの家の周囲の道路は、車も始終走っているし、野良猫たちもいる。なによりも、最近よくニュースでみる、猫を虐待したり、いたずらをする人もいるかもしれない。もう、いてもたってもいられず、冷や汗をかきながらミャーを捜し続けた。
ミャーを探すのを諦めて、そろそろ帰ろうかと思い、家の玄関に入ろうとしたときだ。家の庭のあたりにミャーがちょこんと座り、ぼくをじっとみつめていた。ミャーの名を呼ぶと、ミャーが勢いよく走り込んできた。ぼくはほっとしてそのままベッドに倒れ込んで寝た。無情にも目覚まし時計が鳴り、寝不足のまま仕事にでかけた。
結婚まえの美子とは、別れと再会をくりかえしてきた仲だった。縁が深いのかわからないが、ぼくが苦しくてどうにもならない時にかぎって再び現れてくれる天使のような存在だった。人は一人では生きていけないものだなと、美子とのふれあいのなかで強く深く思い知らされた。
ぼくの膝で眠る、ミャーの背中をなでながら、
「ミャーが邪魔していたのは、きっとこうなることがわかっていたからなんだろうな」
と、いうと、ミャーは尻尾をふりながらひとつ大きなアクビをした。まるでそらみたことか、と呆れているかのように。そしてぼくの膝から跳び起きて、大きくのびをすると、電話機のうえに飛び乗って動き回りなんどかピポパと音をたてていた。そして後ろ足で受話器を蹴り上げた。しばらくすると受話器から美子らしい声がする。ぼくは急いで受話器を取り上げた。
「美子?」
「そうよ。もっとはやく電話をしてくるかと待っていたのに……」
「ああ、ぼくが悪かった。もう二度と株には手をださないよ」
「そうしてね。満彦」
どうやらミャーが乗ったボタンは短縮番号で、美子の携帯電話にかかるものだったらしい。偶然なのだろうが、ミャーが電話をかけてくれたのだとはいえなかった。それにしても、ミャーにとっても夫婦喧嘩は消化に悪いものらしく、ミャーが電話機の近くで嘔吐していた。吐いたものをかたづけようと近寄ると、嘔吐した毛玉のなかに、美子が無くしたと話していた、結婚指輪が光っていた。
(fin)
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