放課後の勉強会が終わって、夕焼けの帰り道。
 湊先輩がおれの横で「はぁ〜、疲れた」と伸びをした。その横顔があまりにキレイだったので、胸がぎゅっとなった。
 でも、どんなにときめこうと、表面はいつも通りだ。爽やか一年生の顔のままでいる。水泳部の仲間たちもいっしょだったから。
 ――だけれど。
「陽斗くん? なんか変だよ? そわそわしてるような気がするけど」
 先輩がおれの顔をジッとのぞきこむ。
 柔らかな声に紡がれた言葉と表情に、胸がじわりと熱くなって、頬まで真っ赤になりそうだった。うおっ、あぶね! 
「せ、先輩の気のせいです! 疲れてません? コンビニ寄りません?」
 ごまかしながら、先に立って歩く。ほんとは、そわそわして当然だ。だって、先輩に「願いごとひとつ叶えてあげる」って言われたんだもんな。
 あの瞬間、おれは確信した。この世界でいちばん幸せな生き物は、まちがいなくおれだって。
 ちなみに、おれの願いごとは一択。“先輩とつきあうこと”だ。
 もちろん、先輩が軽い気持ちで言ったのは知ってる。けど、先に口にしたのは先輩だ。言葉にした以上、責任はとってもらう。いや、責任とってほしくて、言わせたんだけどさー。
 おれは、ちょっとだけ計算した。勉強と称して、湊先輩とふたりきりの、とびきり甘い時間を過ごそうとたくらんでいた。なのに、蓋を開けてみれば、水泳部の部員だらけ。
 勉強会で先輩の隣に座れると思ったのに、誰もかれもが「佐伯先輩〜!」と先輩を呼びつける。
(……なんだその佐伯先輩争奪戦。おれ以外、全員赤点とれよ)
 三回くらいは呪った。口にしなかっただけ偉いよな、おれ。そして、先輩も先輩だ。
「陽斗くんも、こっちに来なよ。いっしょにやろ?」
 その甘い声を、他のやつにも向けるのが気に入らなかった。
「……みんなずるいです」
 そうつぶやいたとき、先輩の動きが一瞬止まった。あれは、たしかに焦ってた。「え」って言ってたし。おれは背中を向けて、すねたフリをしていた。それでも、めちゃくちゃかわいかった。
 そのときだった。先輩が決定的なひとことを言ったのは。
「じゃあね……テストでいい点とったら、願いごとひとつだけ叶えてあげる」
(勝った)
 心の中で静かにガッツポーズした瞬間だった。
 優しい人ほど、言った言葉に責任を感じる。おれはそこを突くのが得意だ——先輩限定で。だから、死ぬほど勉強した。睡眠時間を削って、参考書を読みすぎて、目が痛くなるほどだった。
 おれは、このまま、かわいい後輩としての立場に甘んじるつもりはない。欲しいものは、全力でいく。水泳と同じ。恋は努力でつかみとるものだからな。……いや、恋じゃないか。独占欲? どっちだっていいか。
 とにかく定期テストの結果は、ほぼ最高点に近い成績だった。親や先生だけじゃなく、水泳部のなかまたちも、ぎゃふんと言わせた。つまり、おれに必要だったのは、勉強する動機だったってわけだ。
 さっそく、湊先輩を昼休みの部室に呼びだして報告した。先輩は目を輝かせて、おれの頭をぽんっと撫でた。
「すごいじゃないか、陽斗くん! よくがんばったね!」
 その手の温度。少し照れが混じった声。はにかんだ笑顔。はあー、何それ。かわいすぎる。ぜんぶ、いただきます。脳内に保存した。一生忘れない。
「で、その……願いごとは、どうする?」
 先輩はまだ“ファミレス奢り”くらいにしか思ってないだろう。そんな顔をしていた。
ほんとに油断しすぎだ。これから食われようっていうのに。
 おれは、ゆっくり追いつめるように言った。
「おれと、つきあってください」
 先輩は固まって、真っ赤になって、「えっ、えっ、あ、男どうしなのに……」なんてしどろもどろになった。そのすべてがかわいくて、抱きしめそうになった。耐えた自分をだれか褒めてほしいくらいだ。
 結局、先輩はちょうど鳴った予鈴に救われ、「返事は、明日……」と逃げた。よほど、ビックリさせちゃったんだろうか。部室を出ていくとき、ゴチッとおでこをぶつけていく。逃げられてしまったが、その逃げ方もかわいすぎて笑ってしまった。
 そして今日、部活のとき先輩はとうとう言ったのだ。
「あの、陽斗くん。ひとまずデート……してみようか」
 だから、おれは当然こう答えた。
「じゃあ、プール行きましょう!」
「デ、デートで?」
「はい、自主トレです!」
 しん、と沈黙が落ちた。先輩は困惑と安堵が混ざった表情を浮かべた。
「いいけど……本当にそれでいいの?」
「いいですよ?」
 おれにとっては、先輩といっしょなら、なんでもデートだ。同じ場所で、同じ時間を過ごせる。先輩がおれのためだけに動いてくれる。空気を共有してくれるだけで幸せ。それだけで最高なんだ。
 だけど——本題はここからだ。自主トレは口実。先輩をふり向かせるための、次の一手を打つための舞台だ。先輩に、おれをちゃんと好きになってもらうため。自分だけを見てほしいから。
 外では爽やかな、かわいい後輩でいればいい。けど、心のなかではずっと決めている。
 湊先輩は、ぜったいにおれのものにする。
 そのための作戦は、今、静かに始まったばかりだ。
 そしてこの独占欲は、当分の間、先輩は知らなくていい。