朝のプールは、静かで好きだ。水面がまだ眠っているみたいに平らで、少し触れただけでゆらりと広がる波紋が気持ちいい。
もっとも、僕はもう、その水の中には入れないんだけれど。
「湊先輩、おはようございます!」
弾んだ声といっしょに走ってきたのは、一年の 一ノ瀬陽斗くんだ。部内でも期待のホープで、努力家で、しかも爽やか。どこか太陽みたいな子。
朝からまぶしい笑顔だなあと思いながら、笑みを返す。
「おはよう、陽斗くん。今日もいちばんだね。でも走ったら危ないよ」
「あ、すんません! はやく自主練がしたくて! 先輩にも見てもらいたくて!」
彼は無邪気に笑うけれど、その視線はまっすぐで、どこか熱っぽい。
僕なんか、そんなふうに見られても……と思うのに、胸の奥が少しだけあったかくなった。ケガをして、選手としてはもう前に進めなくなった僕を、こんなふうに必要としてくれる人がいるのはうれしい。
「じゃあ、今日もフォームチェックするね。最初はアップから」
陽斗くんは元気に「はいっ!」と返事をして、準備運動を始めた。ストレッチと柔軟をたっぷりやって、プールに飛び込む。水面が高く跳ねあがり、光の粒をまとう。スピードを抑えた泳ぎを延々とくり返した。
自主練はいつものように順調で、陽斗くんは何本泳いでもへこたれない。見ているこっちが息切れしそうになるくらいだ。魚のようなその姿を見ていると、少しだけうらやましくなる。
「陽斗くん、腕の入りが少し外に流れてるよ。気をつけて」
「了解です、先輩! 次で直します!」
素直だし、吸収が早い。やっぱりこの子は才能があるんだな、と感心してしまう。
でも、陽斗くんの表情に陰が差しているのが見えた。気になって、プールへと身を乗りだし、声をかける。
「最近、調子どう? ちょっと疲れてるっぽい?」
陽斗くんはプールサイドに手をかけて、水に浮かぶからだを固定した。
「まいったなあ、先輩には隠せないや」
「隠せると思ってたんだ?」
「思ってましたけど、無理でした。じつはタイムがぜんぜん伸びなくて」
陽人くんは苦笑したあと、言い訳をした。
「けど、先輩に見てもらえると、なんかがんばれるんです。先輩がそばにいると思うだけで、ちょっと安心するっていうか……」
え。
く、くすぐったい。そんな真っすぐに言われたら反応に困るよ。
僕は頬が熱くなっていくのを自覚しながら、なんとか言葉をひねり出した。
「僕にできることなら、なんでもするよ。陽斗くんのこと、ちゃんと応援したいし」
ピクンと陽斗くんの指が動いた。
「ほんとに、なんでも?」
陽斗くんの声がほんの少しだけ低くなった。視線が熱い。僕は反射的に一歩下がった。
「えっ、いや、その……練習のことでできることなら、ね、うん」
気をつけなければ。うっかり太陽に近づきすぎて、イカロスみたいに落っこちてしまう。
「ふふ、ですよね」
陽斗くんはうれしそうに笑って、また泳ぎだした。
僕のこと、からかっているんだろうか。
もし、そうだとしたら、ほんとにずるい。
*
朝の練習後、顧問の先生がやってきて、部員たちを集めた。
「おまえら、定期テスト近いだろう。赤点をとったら大会出場を禁止するぞ。うちは文武両道がモットーなんだからな。とくに問題ありそうなのは一ノ瀬! おまえだ」
陽斗くんが見事に固まった。そのまんま、サーッと青ざめる。
なんだか嫌な予感。案の定、解散した後、彼は深刻そうな顔で僕の前に立った。
「先輩……おれ、本当にヤバいです……」
「テストのこと? どの教科?」
「……全部、です」
オール危険域とは思ってなかった。逆に才能を感じるよ。しょうがないなあ。僕はため息をつきたくなるのをガマンして、にっこり笑った。
「じゃあ、僕が勉強を見てあげようか」
「えっ……先輩、ほんとに!?」
目を輝かせる陽斗くん。
「ん。一年生の科目ならまだ基礎ばっかだし、たぶん、なんとかなると思う。それに部員たちのモチベーションアップも、マネの仕事だしね」
でも、そのあとで少し頬が赤くなった。陽斗くんが小さくガッツポーズをするのを見てしまったからなんだ。
これはちょっと、喜びすぎでは?
それとも、救いようがないくらい、悲惨な成績なんだろうか。
気軽に引き受けたことをちょっと後悔しつつ、放課後、部室に向かった。
そうしたら――。
「先輩、数学教えてください!」
「化学もお願いします!」
「社会科のプリント、わからなくて……!」
次々と部員が押し寄せてくる。なぜか僕の周りに生徒が山のように集まり、勉強会が始まった。
「え、ええっと、いちどにはできないから、順番にね」
気づくと、陽斗くんが部室のすみっこで、むうっと頬を膨らませていた。
わ、怒ってる。そりゃそうだ、僕も陽斗くんだけ教えればいいと思ってたもん。
みんなに教えながら、途中で彼のようすをチェックした。ふて寝でもしているのだろうか。子猫のようにこちらに背中を見せて丸まっている。うちのクロみたいでかわいいなあ。
「陽斗くんも、こっちに来なよ。いっしょにやろ?」
クロにするのと同じように、やさしく声をかけたつもりだったけれど。
「いえ……みんなずるいです」
陽斗くんは、背中を見せたまま答えた。
「え?」
「おれ、先輩を独り占めできると思ってたのに……」
独り占め? だから、すねていたんだ。そんなこと言われたら、僕の心臓の方がもちません。ほんとにもう、この子はかわいいな。本当に甘えんぼうでワガママな子猫みたい。
「じゃあね……テストでいい点をとれたら、願いごとをひとつ叶えてあげる」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
とたんに、陽斗くんはガバッとふり向いた。
「ほんとに? 今度こそぜったい約束ですよ、先輩!」
「うん、わかったよ。ぜったいの約束だね」
「うおうしっ、やるぞ!」
よかった、元気が復活して。ひとまずホッと胸をなでおろした。
でも、このときの僕は知らなかった。彼の言う『願いごと』の重さを。
それから陽斗くんが本気で、命がけの勢いで、勉強し始めることも。
後日、ほぼ上位層に食い込むような高成績を叩き出し、先生や部員たちを驚かせることも。そして、彼の願いが、
「おれとつきあってほしい」
なんて破壊力抜群のものだとは、夢にも思ってなかったんだ。
もっとも、僕はもう、その水の中には入れないんだけれど。
「湊先輩、おはようございます!」
弾んだ声といっしょに走ってきたのは、一年の 一ノ瀬陽斗くんだ。部内でも期待のホープで、努力家で、しかも爽やか。どこか太陽みたいな子。
朝からまぶしい笑顔だなあと思いながら、笑みを返す。
「おはよう、陽斗くん。今日もいちばんだね。でも走ったら危ないよ」
「あ、すんません! はやく自主練がしたくて! 先輩にも見てもらいたくて!」
彼は無邪気に笑うけれど、その視線はまっすぐで、どこか熱っぽい。
僕なんか、そんなふうに見られても……と思うのに、胸の奥が少しだけあったかくなった。ケガをして、選手としてはもう前に進めなくなった僕を、こんなふうに必要としてくれる人がいるのはうれしい。
「じゃあ、今日もフォームチェックするね。最初はアップから」
陽斗くんは元気に「はいっ!」と返事をして、準備運動を始めた。ストレッチと柔軟をたっぷりやって、プールに飛び込む。水面が高く跳ねあがり、光の粒をまとう。スピードを抑えた泳ぎを延々とくり返した。
自主練はいつものように順調で、陽斗くんは何本泳いでもへこたれない。見ているこっちが息切れしそうになるくらいだ。魚のようなその姿を見ていると、少しだけうらやましくなる。
「陽斗くん、腕の入りが少し外に流れてるよ。気をつけて」
「了解です、先輩! 次で直します!」
素直だし、吸収が早い。やっぱりこの子は才能があるんだな、と感心してしまう。
でも、陽斗くんの表情に陰が差しているのが見えた。気になって、プールへと身を乗りだし、声をかける。
「最近、調子どう? ちょっと疲れてるっぽい?」
陽斗くんはプールサイドに手をかけて、水に浮かぶからだを固定した。
「まいったなあ、先輩には隠せないや」
「隠せると思ってたんだ?」
「思ってましたけど、無理でした。じつはタイムがぜんぜん伸びなくて」
陽人くんは苦笑したあと、言い訳をした。
「けど、先輩に見てもらえると、なんかがんばれるんです。先輩がそばにいると思うだけで、ちょっと安心するっていうか……」
え。
く、くすぐったい。そんな真っすぐに言われたら反応に困るよ。
僕は頬が熱くなっていくのを自覚しながら、なんとか言葉をひねり出した。
「僕にできることなら、なんでもするよ。陽斗くんのこと、ちゃんと応援したいし」
ピクンと陽斗くんの指が動いた。
「ほんとに、なんでも?」
陽斗くんの声がほんの少しだけ低くなった。視線が熱い。僕は反射的に一歩下がった。
「えっ、いや、その……練習のことでできることなら、ね、うん」
気をつけなければ。うっかり太陽に近づきすぎて、イカロスみたいに落っこちてしまう。
「ふふ、ですよね」
陽斗くんはうれしそうに笑って、また泳ぎだした。
僕のこと、からかっているんだろうか。
もし、そうだとしたら、ほんとにずるい。
*
朝の練習後、顧問の先生がやってきて、部員たちを集めた。
「おまえら、定期テスト近いだろう。赤点をとったら大会出場を禁止するぞ。うちは文武両道がモットーなんだからな。とくに問題ありそうなのは一ノ瀬! おまえだ」
陽斗くんが見事に固まった。そのまんま、サーッと青ざめる。
なんだか嫌な予感。案の定、解散した後、彼は深刻そうな顔で僕の前に立った。
「先輩……おれ、本当にヤバいです……」
「テストのこと? どの教科?」
「……全部、です」
オール危険域とは思ってなかった。逆に才能を感じるよ。しょうがないなあ。僕はため息をつきたくなるのをガマンして、にっこり笑った。
「じゃあ、僕が勉強を見てあげようか」
「えっ……先輩、ほんとに!?」
目を輝かせる陽斗くん。
「ん。一年生の科目ならまだ基礎ばっかだし、たぶん、なんとかなると思う。それに部員たちのモチベーションアップも、マネの仕事だしね」
でも、そのあとで少し頬が赤くなった。陽斗くんが小さくガッツポーズをするのを見てしまったからなんだ。
これはちょっと、喜びすぎでは?
それとも、救いようがないくらい、悲惨な成績なんだろうか。
気軽に引き受けたことをちょっと後悔しつつ、放課後、部室に向かった。
そうしたら――。
「先輩、数学教えてください!」
「化学もお願いします!」
「社会科のプリント、わからなくて……!」
次々と部員が押し寄せてくる。なぜか僕の周りに生徒が山のように集まり、勉強会が始まった。
「え、ええっと、いちどにはできないから、順番にね」
気づくと、陽斗くんが部室のすみっこで、むうっと頬を膨らませていた。
わ、怒ってる。そりゃそうだ、僕も陽斗くんだけ教えればいいと思ってたもん。
みんなに教えながら、途中で彼のようすをチェックした。ふて寝でもしているのだろうか。子猫のようにこちらに背中を見せて丸まっている。うちのクロみたいでかわいいなあ。
「陽斗くんも、こっちに来なよ。いっしょにやろ?」
クロにするのと同じように、やさしく声をかけたつもりだったけれど。
「いえ……みんなずるいです」
陽斗くんは、背中を見せたまま答えた。
「え?」
「おれ、先輩を独り占めできると思ってたのに……」
独り占め? だから、すねていたんだ。そんなこと言われたら、僕の心臓の方がもちません。ほんとにもう、この子はかわいいな。本当に甘えんぼうでワガママな子猫みたい。
「じゃあね……テストでいい点をとれたら、願いごとをひとつ叶えてあげる」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
とたんに、陽斗くんはガバッとふり向いた。
「ほんとに? 今度こそぜったい約束ですよ、先輩!」
「うん、わかったよ。ぜったいの約束だね」
「うおうしっ、やるぞ!」
よかった、元気が復活して。ひとまずホッと胸をなでおろした。
でも、このときの僕は知らなかった。彼の言う『願いごと』の重さを。
それから陽斗くんが本気で、命がけの勢いで、勉強し始めることも。
後日、ほぼ上位層に食い込むような高成績を叩き出し、先生や部員たちを驚かせることも。そして、彼の願いが、
「おれとつきあってほしい」
なんて破壊力抜群のものだとは、夢にも思ってなかったんだ。

