大会当日。
 会場は熱気で重たく揺れていた。コバルトブルーの水面に、太陽の光が反射している。もうすぐ、この景色に選手たちが加わろうとしていた。
 アップを始めている部員たちの中心に、陽斗くんがいた。肩を回し、呼吸を整え、ストレッチで身体をしならせて、瞳が鋭い。その横顔は頼もしくて、少し怖くて、まるで何かを乗り越えていく覚悟をまとっているみたいだ。
 百メートル自由形。各学校のスタートリストが発表されても、陽斗くんはいつになく落ち着いているようだった。いつもより、ずっと集中しているように見える。
 ――と思っていたら、陽斗くんはこちらに気づき、表情を柔らかくした。
「先輩、来てくれたんですね!」
 ニコニコ無邪気な笑顔で、こちらにやってきてしまう。
「もーう! ダメじゃんか、こっち来たら!」
 持っていたパンフレットで、彼の頭をポンと軽くたたいた。
「すいません。けど、レース前に、言っておきたいことがあって」
「何?」
「必ず勝って戻ってきます。先輩のために泳いできますから」
 それだけを言うと、彼は選手の待機場所へと戻っていった。あっというまのできごとだった。歩いて去っていく背中がたくましくてまぶしい。
 幸せすぎて泣けてきた。鼓動が早鐘のようになっていく。
 切なくて、うれしくて、どうしようもなく大切で――どんどん気持ちがあふれていく。
 どうしよう、こんなの知らない。知らない気持ちだ……。
 ダメだ、こんなの勝てっこない。陽斗くんの真っ直ぐに、もう僕は敵わない。逃げつづける方が、きっと苦しい。
 とうとう気づいてしまった。
 この気持ちを恋と言わずして、なんて呼べばいいんだろう。
 好きだ。陽斗くんが好きだ。
 けど、同時に不安が脳裏をかすめた。
 僕なんかが、本当に彼を好きになっていいの―ー?
 そのとき、陽斗くんがまた振りかえって、僕だけに手を振ってきた。まるで僕の不安を見透かしているみたいに。
 そうだ、悩むのはあとにしよう。今はレースに集中するんだ。
「が、がんばれ!」
 大きな声で声援を送った。
 観客席はほぼ満員で、歓声が波みたいに揺れている。
 陽斗くんはスタート台に立ち、水面をまっすぐ見すえている。そして、スターターの音と同時に飛び込んだ。
 強く、しなやかで、美しいフォーム。迷いがない泳ぎ。
(速い……!)
 トップの選手も速いのに、陽斗くんは一歩も引かない。どんどん追い上げる。横一列に並んだ!
(負けないで!)
 心のなかで叫んだそのとき、陽斗くんがぐっと加速した。
 ラスト25メートル。僕は手を握りしめ、心の全部で彼を追いかけた。
 フィニッシュの音。電光掲示板にタイムが表示される。
《1位 一ノ瀬陽斗》
「あ……」
 胸に熱が一気に押し寄せた。
 勝った……! 陽斗くんが勝った!!
 あふれる涙をこらえようとしても、無理だった。すごい。陽斗くん、すごいよ。本当に勝ってしまった。
 陽斗くんがタオルで顔を拭きながら、きょろきょろと何かを探している。僕をすぐ見つけて笑顔になった。
 こんなにも僕を必要としてくれている……。
 もう逃げない。怖くない。ちゃんと向き合えばいい。
 陽斗くんの隣に、胸を張って立てるように、僕も覚悟を決めるんだ。