中学三年の夏。
おれは仲間たちと、近くの進学校の見学に行った。
「なあ、陽斗。ほんとにあの高校、志望すんの? めちゃくちゃ難しいぞ」
「おまえ、まずは内申点をどうにかしろって」
仲間たちはそうやってからかってくるけれど、おれの目当ては別にあった。それは、プールだ。その高校の水泳部は、この辺でいちばん強くて、全国も狙えるって話。だから、どうしても見ておきたかったんだ。
「ゴチャゴチャうっせーな。ほっとけ」
文句を垂らしながら校内をブラブラ歩き、体育館の横を抜けていく。すると、半屋外のプールが見えてきた。自然と足が弾んで速くなる。おれはプールのフェンスに貼りついた。
「おお……すげぇ……」
広い! キレイ! プールの水面がキラキラ光っている。そして——ひとり、だれかが泳いでいた。
白い水しぶきが弧を描き、滑らかなフォームで水を切っていく。リズムに乱れがなく、無駄な動きもひとつもない。水と空気、その境界を美しく行き来しているみたいだった。
おれは息をするのも忘れた。
「うっま……」
素直にそう思った。いや、それだけじゃなくて、なんか目が離せなくて。おれも水泳をやってるから、すごいヤツがいると悔しくなるんだけど、なぜか微塵とも思わなかった。
友だちの声も、周りの雑音も、全部聞こえなくなっていく。
胸がドキドキしてきた。
あのひと、女子選手かな……? あんなにキレイに泳ぐんだもんな。まるでマーメイドみたいだ。最初はそう思った。けれど、泳ぎ終わって上がってきたのは、小柄で細身の男だった。濡れた髪をかき上げ、凜としたまなざしをこちらに向ける。
息が止まった。
「きみ、中学生だよね? 来年、うちを受けるの?」
「は、はい……!」
目があう柔らかい笑顔。水滴が頬を流れて、夏の光で光っている。
「待っているよ。がんばって」
その瞬間、雷に打たれたみたいだった。ただひと目見て、少し言葉を交わしただけなのに。なのに、頭にこびりついて離れなくなった。
“あのひとに、もう一度会いたい”
おれの進路希望は、運命的なその一瞬で決まってしまった。
*
学校見学からの帰り道、仲間たちがあきれたように言ってきた。
「無理だって。あの高校、めちゃ偏差値高いし」
「もうちょい下げろよ。現実を見ろ」
先生にも、親にも言われた。あきらめろって。でも、おれは決めた。決めちゃったんだ。絶対、あの先輩のいる高校に入る!
「ウオオオオッ! やるぞーーーー!」
それからのおれは、自分でも引くくらい勉強した。寝不足で倒れそうになっても、問題集をひたすら解いて解きまくって、気づけば冬。受験本番だ。
そして迎えた合格発表の日。
「よっしゃあ!!」
本気でさけんだ。人生でいちばんうれしい瞬間だった。
これで、先輩に会える。あのひとに会える。るるるー。胸が弾む。心臓、うっさい。
入学式の日、おれは真っ先に水泳部の志望届を握ってプールへ向かった。部室のプレートを確かめ、ワクワクしながら扉を開けると——そこにいたのは、偶然にもあの日の先輩だった。
「こんにちは。入部希望?」
ニコッと話しかけてくれる。おれはすっかり舞いあがってしまった。
「はいっ! おれ、一ノ瀬陽斗っていいます! 中三のとき……あの、見学であなたの泳ぎを見て、このガッコに決めようと……!」
「あのときの……? うん、覚えてるよ。本当に来てくれたんだね。うれしいな、ありがとう。僕の名前は、佐伯湊。よろしく」
会えた! ついに念願が叶った! ヒャッホー! それに、名前も教えてもらった! ブラボー!
けど、先輩は、少しだけ寂しそうに笑った。
「僕ね……ケガをして、もう部員としては泳げないんだ。だから今はマネージャーなんだよ。でも……少しでも水泳に関わっていたくて……はは、未練がましいかな」
そんな……。あの美しい泳ぎが見られないなんて。おれの胸は、ぎゅっと痛んだ。何より、先輩自身が泳げないことで苦しんでいるのが、おれにはつらかった。
でも、言えなかった。何も。ショックで声が出なくて、ただ立ちつくしていた。
その日の帰り際、おれはひとりで校庭の隅に立ち、空を見上げながら誓った。
なら、おれが泳ぐ。先輩の分まで強くなる。先輩が笑えるように、おれが全部、背負ってやる。でも、それは言わない。言ったらきっと、先輩は困るだろうから。だから、この決意は、“おれだけの秘密”にするんだ。
胸の奥底にそっとしまって、おれの高校生活は始まった。
おれは仲間たちと、近くの進学校の見学に行った。
「なあ、陽斗。ほんとにあの高校、志望すんの? めちゃくちゃ難しいぞ」
「おまえ、まずは内申点をどうにかしろって」
仲間たちはそうやってからかってくるけれど、おれの目当ては別にあった。それは、プールだ。その高校の水泳部は、この辺でいちばん強くて、全国も狙えるって話。だから、どうしても見ておきたかったんだ。
「ゴチャゴチャうっせーな。ほっとけ」
文句を垂らしながら校内をブラブラ歩き、体育館の横を抜けていく。すると、半屋外のプールが見えてきた。自然と足が弾んで速くなる。おれはプールのフェンスに貼りついた。
「おお……すげぇ……」
広い! キレイ! プールの水面がキラキラ光っている。そして——ひとり、だれかが泳いでいた。
白い水しぶきが弧を描き、滑らかなフォームで水を切っていく。リズムに乱れがなく、無駄な動きもひとつもない。水と空気、その境界を美しく行き来しているみたいだった。
おれは息をするのも忘れた。
「うっま……」
素直にそう思った。いや、それだけじゃなくて、なんか目が離せなくて。おれも水泳をやってるから、すごいヤツがいると悔しくなるんだけど、なぜか微塵とも思わなかった。
友だちの声も、周りの雑音も、全部聞こえなくなっていく。
胸がドキドキしてきた。
あのひと、女子選手かな……? あんなにキレイに泳ぐんだもんな。まるでマーメイドみたいだ。最初はそう思った。けれど、泳ぎ終わって上がってきたのは、小柄で細身の男だった。濡れた髪をかき上げ、凜としたまなざしをこちらに向ける。
息が止まった。
「きみ、中学生だよね? 来年、うちを受けるの?」
「は、はい……!」
目があう柔らかい笑顔。水滴が頬を流れて、夏の光で光っている。
「待っているよ。がんばって」
その瞬間、雷に打たれたみたいだった。ただひと目見て、少し言葉を交わしただけなのに。なのに、頭にこびりついて離れなくなった。
“あのひとに、もう一度会いたい”
おれの進路希望は、運命的なその一瞬で決まってしまった。
*
学校見学からの帰り道、仲間たちがあきれたように言ってきた。
「無理だって。あの高校、めちゃ偏差値高いし」
「もうちょい下げろよ。現実を見ろ」
先生にも、親にも言われた。あきらめろって。でも、おれは決めた。決めちゃったんだ。絶対、あの先輩のいる高校に入る!
「ウオオオオッ! やるぞーーーー!」
それからのおれは、自分でも引くくらい勉強した。寝不足で倒れそうになっても、問題集をひたすら解いて解きまくって、気づけば冬。受験本番だ。
そして迎えた合格発表の日。
「よっしゃあ!!」
本気でさけんだ。人生でいちばんうれしい瞬間だった。
これで、先輩に会える。あのひとに会える。るるるー。胸が弾む。心臓、うっさい。
入学式の日、おれは真っ先に水泳部の志望届を握ってプールへ向かった。部室のプレートを確かめ、ワクワクしながら扉を開けると——そこにいたのは、偶然にもあの日の先輩だった。
「こんにちは。入部希望?」
ニコッと話しかけてくれる。おれはすっかり舞いあがってしまった。
「はいっ! おれ、一ノ瀬陽斗っていいます! 中三のとき……あの、見学であなたの泳ぎを見て、このガッコに決めようと……!」
「あのときの……? うん、覚えてるよ。本当に来てくれたんだね。うれしいな、ありがとう。僕の名前は、佐伯湊。よろしく」
会えた! ついに念願が叶った! ヒャッホー! それに、名前も教えてもらった! ブラボー!
けど、先輩は、少しだけ寂しそうに笑った。
「僕ね……ケガをして、もう部員としては泳げないんだ。だから今はマネージャーなんだよ。でも……少しでも水泳に関わっていたくて……はは、未練がましいかな」
そんな……。あの美しい泳ぎが見られないなんて。おれの胸は、ぎゅっと痛んだ。何より、先輩自身が泳げないことで苦しんでいるのが、おれにはつらかった。
でも、言えなかった。何も。ショックで声が出なくて、ただ立ちつくしていた。
その日の帰り際、おれはひとりで校庭の隅に立ち、空を見上げながら誓った。
なら、おれが泳ぐ。先輩の分まで強くなる。先輩が笑えるように、おれが全部、背負ってやる。でも、それは言わない。言ったらきっと、先輩は困るだろうから。だから、この決意は、“おれだけの秘密”にするんだ。
胸の奥底にそっとしまって、おれの高校生活は始まった。

