僕は自分の部屋で悶々としていた。
思い出したくないのに、僕を見ていたあの目が頭から離れなかった。一睡もできずに朝を迎えた時、決心がついた。
丁度仕事を終えた母さんが帰ってきて、夜勤明けの自分よりやつれている僕を見て驚いていた。
話し終えると初めは少し動揺したが、看護師という仕事柄胆が据わっていて、すぐに自分が被害者の体で警察に相談した。が、やはり実害がない事で、通勤手段を変えてみたり、相手に遭遇した日時を記録するようになどのアドバイスしかなかった。
そして日曜日、神木さんが家に来て、母さんと3人で話した。
「本当にご厄介になっていいの?」
「はい、問題ありません」
「私が学校に迎えに行ければいいんだけど、基本夜勤で、代われる人があまりいなくて。父親は電車で夜遅いし」
「2人でいれば、何かしてくる事もないと思います」
「ありがとう。
ご両親には、私から改めてお願いするわ」
「うちの親には、勉強合宿だって言ってあります。
変に気を遣われると、佐々倉君も居づらいんじゃないかと思って」
「・・・お世話になります。
お宅まで送っていくわね」
母さんは僕達を車に乗せ、神木家で下ろした。神木さんのお母さんに手土産を渡し、丁寧に頭を下げた。
「神木くん、よろしくお願いします」
最後に言って、母さんはそのまま出勤していった。
かくして、僕はしばらく神木家で暮らす事になった。
後になって振り返るとすごいチャンスだったんだけど、この時の僕の心理状態では、そんな発想に至らなかった。
只々、神木さんの存在がありがたかった。
僕は、大学生になって家を出られたという神木さんのお兄さんのお古の自転車を借りて、神木さんと一緒に登下校した。
僕はほぼ座れていたので、バス通学を苦痛に感じたことはないけど、朝の清々しい空気の中をチャリで走るのも爽快だった。降りた後がべらぼうに暑いというのも初めて知った。
2、3日そうしているうちに恐怖も薄らいできた。
部屋も、お兄さんの部屋を使わせてもらった。でも、寝る時以外はほとんど神木さんの部屋で過ごした。
数学がまるでわからない僕に、神木さんは根気強く教えてくれた。もう少し早くこの生活をしていれば、期末テストはもう少しましな点数が取れたかもしれない。
そして何も起こることなく、神木さんとご家族のおかげで、僕は無事に1学期の最終日を迎える事ができた。
「あっ、弁当箱忘れた!」
校門を出た直後に神木さんが自転車を止めた。
「思い出してよかったですね、弁当箱カビだらけにするところでしたよ」
「危ねー、ちょっと待ってて」
神木さんはスタンドを立てて、校舎へ走っていった。
僕も自転車を降り、すぐ側の花壇の縁に腰掛けて神木さんを待った。
明日から夏休みということで、校門を出ていく学生達の顔は、皆解放感に満ちているように見える。
僕も、明日久々に自宅に帰るつもりだ。
携帯を取り出し、母さんに送るメッセージを打っていたので、後ろから肩に手を置かれるまで、人の気配に気付けなかった。
「あの」
油断していた。
さっきまで忘れていたのに、一瞬であの時の恐怖が蘇ってきて、足が震える。もちろん振り向く事なんてできなかった。
「カミキくんですか?」
「・・・え?」
質問の意味がわからず混乱しているところへ、向こうから全速力で神木さんが走ってきた。
「離せ!」
神木さんは僕の肩から手を払いのけ、僕の腕を掴んで自分の後ろに下がらせた。
「嫌がらせはやめてください!」
「え・・・」
「ずっとこいつをつけ回して、何が目的ですか。警察呼びますよ!」
「ちょっと待って、誤解だよ。
これを渡したかっただけなんだ」
男は鞄の中から何かを取り出した。
「あ・・・」
「え?俺の傘・・・」
「あれ、君がカミキ君?」
3人ともしばし固まった。状況に頭が追いつかない。
最初に言葉を発したのは男だった。
「息子がこの傘を借りてきたんだけど、貸してくれたおにいちゃんがすごく哀しそうな顔をしてたから、絶対返してあげてほしいと頼まれて・・・」
「息子って・・・ゆうくん?」
「ええ、ゆうの父親です」
「なに、話が見えない。
お前、傘壊れたって・・・」
「あぁ、えっと・・・」
僕はバツが悪い思いで神木さんに事実を伝え、その後の話をゆうくんのお父さんから聞いた。
事の顛末は――傘を持ち主に返すという、ゆうくんとの約束を果たそうとしたお父さんだったが、「あのバス停からバスに乗ったおにーちゃん」が、僕ではないかと目星をつけたものの決め手がなく、自分も途中までバスに乗って、傘に書かれていた『カミキ』という名前を確認できるものがないかと、近くまで寄ってみたりしたがそれも見つからず。
僕をバスで見かけなくなったので、なんとか夏休みに入る前に返そうと、やむを得ず学校近くで張り込んでいたのだという。
「まさかそんなに怖い思いをさせてるなんて思わなくて、申し訳なかったね」
「いえ・・・」
「改めて、傘をありがとう」
ゆうくんがいれば、もっと手っ取り早く傘を返せただろう。
ごまかす事だってできるだろうに、こんなに苦労してまで息子との約束を守ろうとしたお父さんも本当に優しいと、今となっては思う。
そもそも、傘を渡す時の迷いをゆうくんに悟られてしまった、心の狭い僕の失態だった。
そして、真相が明らかになって冷静さを取り戻した僕は、もっと重要な事に気付いて打ちのめされた。
進展なんかするわけなかった。
思い出したくないのに、僕を見ていたあの目が頭から離れなかった。一睡もできずに朝を迎えた時、決心がついた。
丁度仕事を終えた母さんが帰ってきて、夜勤明けの自分よりやつれている僕を見て驚いていた。
話し終えると初めは少し動揺したが、看護師という仕事柄胆が据わっていて、すぐに自分が被害者の体で警察に相談した。が、やはり実害がない事で、通勤手段を変えてみたり、相手に遭遇した日時を記録するようになどのアドバイスしかなかった。
そして日曜日、神木さんが家に来て、母さんと3人で話した。
「本当にご厄介になっていいの?」
「はい、問題ありません」
「私が学校に迎えに行ければいいんだけど、基本夜勤で、代われる人があまりいなくて。父親は電車で夜遅いし」
「2人でいれば、何かしてくる事もないと思います」
「ありがとう。
ご両親には、私から改めてお願いするわ」
「うちの親には、勉強合宿だって言ってあります。
変に気を遣われると、佐々倉君も居づらいんじゃないかと思って」
「・・・お世話になります。
お宅まで送っていくわね」
母さんは僕達を車に乗せ、神木家で下ろした。神木さんのお母さんに手土産を渡し、丁寧に頭を下げた。
「神木くん、よろしくお願いします」
最後に言って、母さんはそのまま出勤していった。
かくして、僕はしばらく神木家で暮らす事になった。
後になって振り返るとすごいチャンスだったんだけど、この時の僕の心理状態では、そんな発想に至らなかった。
只々、神木さんの存在がありがたかった。
僕は、大学生になって家を出られたという神木さんのお兄さんのお古の自転車を借りて、神木さんと一緒に登下校した。
僕はほぼ座れていたので、バス通学を苦痛に感じたことはないけど、朝の清々しい空気の中をチャリで走るのも爽快だった。降りた後がべらぼうに暑いというのも初めて知った。
2、3日そうしているうちに恐怖も薄らいできた。
部屋も、お兄さんの部屋を使わせてもらった。でも、寝る時以外はほとんど神木さんの部屋で過ごした。
数学がまるでわからない僕に、神木さんは根気強く教えてくれた。もう少し早くこの生活をしていれば、期末テストはもう少しましな点数が取れたかもしれない。
そして何も起こることなく、神木さんとご家族のおかげで、僕は無事に1学期の最終日を迎える事ができた。
「あっ、弁当箱忘れた!」
校門を出た直後に神木さんが自転車を止めた。
「思い出してよかったですね、弁当箱カビだらけにするところでしたよ」
「危ねー、ちょっと待ってて」
神木さんはスタンドを立てて、校舎へ走っていった。
僕も自転車を降り、すぐ側の花壇の縁に腰掛けて神木さんを待った。
明日から夏休みということで、校門を出ていく学生達の顔は、皆解放感に満ちているように見える。
僕も、明日久々に自宅に帰るつもりだ。
携帯を取り出し、母さんに送るメッセージを打っていたので、後ろから肩に手を置かれるまで、人の気配に気付けなかった。
「あの」
油断していた。
さっきまで忘れていたのに、一瞬であの時の恐怖が蘇ってきて、足が震える。もちろん振り向く事なんてできなかった。
「カミキくんですか?」
「・・・え?」
質問の意味がわからず混乱しているところへ、向こうから全速力で神木さんが走ってきた。
「離せ!」
神木さんは僕の肩から手を払いのけ、僕の腕を掴んで自分の後ろに下がらせた。
「嫌がらせはやめてください!」
「え・・・」
「ずっとこいつをつけ回して、何が目的ですか。警察呼びますよ!」
「ちょっと待って、誤解だよ。
これを渡したかっただけなんだ」
男は鞄の中から何かを取り出した。
「あ・・・」
「え?俺の傘・・・」
「あれ、君がカミキ君?」
3人ともしばし固まった。状況に頭が追いつかない。
最初に言葉を発したのは男だった。
「息子がこの傘を借りてきたんだけど、貸してくれたおにいちゃんがすごく哀しそうな顔をしてたから、絶対返してあげてほしいと頼まれて・・・」
「息子って・・・ゆうくん?」
「ええ、ゆうの父親です」
「なに、話が見えない。
お前、傘壊れたって・・・」
「あぁ、えっと・・・」
僕はバツが悪い思いで神木さんに事実を伝え、その後の話をゆうくんのお父さんから聞いた。
事の顛末は――傘を持ち主に返すという、ゆうくんとの約束を果たそうとしたお父さんだったが、「あのバス停からバスに乗ったおにーちゃん」が、僕ではないかと目星をつけたものの決め手がなく、自分も途中までバスに乗って、傘に書かれていた『カミキ』という名前を確認できるものがないかと、近くまで寄ってみたりしたがそれも見つからず。
僕をバスで見かけなくなったので、なんとか夏休みに入る前に返そうと、やむを得ず学校近くで張り込んでいたのだという。
「まさかそんなに怖い思いをさせてるなんて思わなくて、申し訳なかったね」
「いえ・・・」
「改めて、傘をありがとう」
ゆうくんがいれば、もっと手っ取り早く傘を返せただろう。
ごまかす事だってできるだろうに、こんなに苦労してまで息子との約束を守ろうとしたお父さんも本当に優しいと、今となっては思う。
そもそも、傘を渡す時の迷いをゆうくんに悟られてしまった、心の狭い僕の失態だった。
そして、真相が明らかになって冷静さを取り戻した僕は、もっと重要な事に気付いて打ちのめされた。
進展なんかするわけなかった。
