・・・痛て・・・痛い・・・痛いな。
俺は朝から我慢している。右足の負傷を人に気付かれないよう、何事もないように涼しい顔で歩いている。あからさまに自分の不自由をアピールして、周囲に気を使わせるような事はしたくない。あくまで自然に、普段どおりに振る舞っている。

そして俺は、目下学食の空席を求めている。今日に限って弁当がない。母さんは誰かの法事とかで昨日から田舎に行き、昼飯代を置いていった。

通常であれば、人の隙間を縫って席を確保する事などわけないのだが、お盆を持ちながらの「すまし歩き」は絶望的に難しい。ほんの数メートル先のあのポツンと空いてる席まで、わかめスープを人の頭にぶちまけずに運ぶ自信が、今の俺にはない。

あぁ、選択を誤った。こんなことなら、焼きそばパンじゃなくて売れ残りのレーズンパンでもいいから、購買で買って中庭ででも食べるんだった。
「あの」
すぐ斜め後ろから声がした。
「僕もう行くんで、ここどうぞ」
まさかと思って振り向くと、その声の主は俺を見上げて席を立った。
学年章からして1年だ。
「ありがとう」
1年男子は軽く頭を下げ、すぐに立ち去っていった。英雄か、いやその風貌には天使というほうが似合うか?
ありがとう、俺はこの恩を忘れないぞ。



学食に入ってきたその姿に「あ」と思った。そしてしばらく見ていてわかった。
(やっぱり足痛いんだ)
なぜならこの人は、今朝登校途中で側溝に落ちたからだ。

バス停のある大通りから学校へ続く、歩道のない狭い道。僕の前方40メートルくらい先をおばあちゃんが歩いていて、風に飛んた帽子を拾おうと路上にしゃがみ込んだ。向こうから走ってくる車におばあちゃんは気付かない。
するとすごいスピードで自転車が僕を追い越していき、乗っていた人が自転車を降りざまにおばあちゃんと帽子を抱えて、間一髪道路脇に避けた。
ドラマかと思った。
その直後、助けた人は右足だけ側溝に落ちていた。おそらくうちの学校の生徒であろう恩人に、おばあちゃんは何度もお礼を言い、その人は片足落ちたまま、「気をつけてね」とおばあちゃんを見送っていた。
マンガかと思った。

おばあちゃんが去った後も、その人はしばらくじっとしていた。
(まさか捻挫して歩けないんじゃ・・・)
いつの間にか立ち止まってしまっていた僕は、手を貸さねばと思った。が、その人は急に立ち上がり、何事もなかったように倒れた自転車を起こし、正門へ向かっていった。
(大丈夫だったみたいだ)

と思ったのだが、彼の今の様子を見るに、相当痛いに違いない。近くで見ると、右足を庇って微妙にバランス悪い歩き方だし、あの汗はおそらく、暑いからじゃなくて脂汗だ。
そんなにやせ我慢しなくても、友達に席を取ってもらうとか、いくらでも方法あるだろうに。
とりあえず食べ終わった事だし、ここは僕が譲るのが早いかと、声をかけた。
振り向いた時――それがまともに顔を見た最初だったが、彼は一瞬崇めるような目で僕を見た。
よっぽど嬉しかったんだろう、というかよっぽど辛かったんだろう。

高校に入学して三週間経って習慣にしたのは、帰りのバスは一つ前の停留所から乗ることだ。
そこまでして座りたいのかと思われるかもしれないが、終点まで40分乗る身として、多少姑息な手段に出ても、確実に席を獲得したい。それに、約15分歩くという犠牲も払っている。

そうして今日も座れたのだが、乗降口に近い一人用の席しかなかった。後から乗ってくる学生達の視線が若干痛いが、そこは敢えての鈍感力を貫く。

学校最寄りのバス停に着き、僕の一つ前の空席に座ったのは、あの『落ちた人』だった。今日はやたら縁があるな。
もう自転車を漕げないくらい足が痛いのだろう、座れて何よりだ。

学生達が乗り込んで5、6名が立っている状況。まあこれくらいなら、さほど気まずい思いをせずに寝ていられる。
そう思って目を閉じかけた時、最後に杖をついたおじいちゃんが乗ってきた。
『落ちた人』は即座に立ち上がり、おじいちゃんは会釈をしながらそこへ座った。

そこだけ見ればよくある親切だけど、この人は今、自身の怪我を差し置いて他人に献身している。
そしてそれを知るのは、おそらく僕だけだ。何この人、仏なの?

僕はやむにやまれず立ち上がり、すぐ横にいる『落ちた人』を半ば強制的に座らせた。彼は驚いたように僕を見上げている。
「あれ、学食の・・・?」
「はあ」
「俺今、座りたそうだった?」
「・・・いえ、僕が立ちたかったんで」
「そうか・・・
ありがとう、じゃあ遠慮なく。
1年だよな、名前は?」
「佐々倉です」
「佐々倉か、俺は2年の神木。
今日は助かった、キミがいい人でよかったよ」
『いい人』はあなたでしょ、いやもはやその域を超えている。

2つ目の停留所で、神木さんは降りていった。
「この借りは必ず返す、何かあれば言って」
彼は最後まで、足の怪我を感じさせなかった。