このままでは心臓がもたない。
そう判断した俺は、翌朝から電車の時間をずらした。だいぶ早く着いてしまうがしょうがない。
自販機の飲み物を買わなくてもいいようにステンレスボトルを持参して、帰りが被らないように放課後の居残り勉強もやめた。
――別に会おうと思えば会えるだろ。
和泉にそう言ったことを思い出す。同じ高校に通っていても、クラスも学年も違えば案外会う機会はない。つまり、会おうとしなければ会えないってことだ。
俺は結局、告白の返事を保留にしたままだ。直接顔を見て話せる自信がないし、和泉も返事の催促をしてこない。あまり待たせるものでもないと思うけれど、自分の気持ちがはっきりするまで時間が欲しかった。
そんな日々がしばらく続いたある朝のこと。
「いってきます!」
いってらっしゃい、という母の返事を聞く暇もなく、玄関から飛び出した。
このところ、和泉のことばかり考えていて勉強に集中できていなかった。このままではまずいと思い、ゆうべ遅くまで過去問を解いていたら盛大に寝坊してしまったのだ。
次の電車に乗り遅れたら遅刻確定だ。朝日の眩しさに目を細めながら、駅まで全力疾走する。改札を通ってホームの階段を駆け上がった直後、高校の方面行きの電車が到着した。良かった、ギリギリセーフ!
一番近くのドアから乗車し、やっと一息つく。空いている手すりを探して周囲を見回した時、俺の視界は車内の端の方にいる集団を捉えた。
輪の中心で数人の女子に囲まれている、一際目立つ男――和泉だ。少し前まで俺はこの電車で和泉と一緒に登校していた。
俺が時間をずらしてからも、和泉は同じ電車に乗り続けていたのか。急行電車ではなく、わざわざ時間のかかる各駅停車に。……俺に会うために。
和泉は俺に気づいていないようで、女子たちと何か話している。会話の内容までは聞こえない。
楽しそうに笑っている様子を見ているうちに、胸の奥にもやもやしたものが生まれた。
……なんだよ、あいつ。俺がいなくても楽しそうじゃん。
和泉は俺と会えなくて寂しがっているかもしれないと、ほんの少しだけ思っていた。でも、それは俺の勘違いだった。
もしかしたら……あの告白は気の迷いだったとか、やっぱり女の子の方が良くなったとかかもしれない。
「……」
心臓がきゅっと苦しくなる。
今までとは違った意味で和泉の顔を見たくなくて、俺はそっと背を向けた。
毎日がとても静かになった。
ここしばらく和泉とは距離を置いていたけれど、あれ以来更に意図的に避けている。
告白されてからだいぶ日が経ってしまった。
和泉は俺の返事を待つと言っていた。でもいつまでとは言っていない。保留にし続けるのは不誠実だが、いっそ忘れられた方がいいかもしれないとも思う。それに、待たせすぎたせいで、すでに俺への気持ちが冷めてしまった可能性もある。
このまま卒業すれば、俺たちの関係は終わる。
時間が経つほどに冬は一歩、また一歩と近づいていた。
太陽の位置が低くなり、寒空が広がる昼休み。
「あー……やっちまった……」
弁当を取り出そうとしたところで、ステンレスボトルを忘れたことに気づいた。たぶんリビングのダイニングテーブルに置きっぱなしだ。
「油井、どうかした?」
「うーん……ちょっと飲み物買ってくる」
少し迷いながらも友達に声をかけ、財布を手に席を立つ。
飲み物を買いに行くだけなのに、やけに緊張して足取りが重かった。もしも和泉と会ってしまったらどうしよう。俺はうまく話せるんだろうか。……いや、そもそも話しかけてもらえるんだろうか。
気を張りながら来た時に限って、自販機コーナーには誰もいなかった。安心したような、がっかりしたような複雑な気持ちだった。
空は薄曇りで日の光が届かず、冷たい風が吹き抜けてぶるりと身震いする。
よし、今日はあったかいココアにしよう。
財布を開いたところで、二人の女子が自販機の前にやってきた。
「ほら、ジュース奢るから元気出して!」
「うん……」
一人は涙を拭いていた。き、気まずい……。さっさと教室に戻ろう。
「それで、なんて言われたの?」
「好きな人いるから付き合えない、ごめんって……」
どうやら失恋したばかりらしい。急いで百円玉を投入する。
「和泉くん、ずっとその人が好きだって言ってた」
突然聞こえた名前に、ボタンを押そうとした指が止まる。こっそり顔を見てみれば、泣いている彼女は電車内で和泉を囲んでいたうちの一人だった。
「その人って誰?」
「わかんない……でも、本気なんだって」
耳元で鼓動の音が大きく鳴り、女子たちの声をかき消す。
震える指でなんとかボタンを押す。間違えて野菜ジュースを押してしまったけれど、今はどうでも良かった。
和泉の好きな人。ずっと、本気で好きな人。それって……。
心臓を掴まれたように苦しくなった。冬の寒さを忘れるくらい顔が熱い。
和泉はまだ俺を待ってくれているんだ。それなら、いつまでも逃げてばかりいられない。ちゃんと話さないと。
その日の放課後、駅のホームで何本も電車を見送った。オレンジ色の夕焼けがだんだん紫色に変わるにつれて、空気の冷たさも増していく。マフラーに口元を埋めながらホームの時計を見上げると、時計の針は七時間目の授業の終わりを指していた。あと少ししたら、特進クラスの生徒たちが駅に着くはずだ。
たった小一時間待っただけでも指先は冷え、かさかさに乾燥していた。何週間も俺を待った和泉は、一体どんな気持ちだったんだろう。会ったらまず何を言おうか……。落ち着かないまま、ホームの階段を見つめる。
しばらく待ち続けていると、階段を上ってくる人波の中に学生の姿が混ざり始めた。緊張感が高まっていき、胸の前でぎゅっと拳を握る。そうして、辺りがだいぶ暗くなってきたところで――。
「い、和泉!」
呼びかけると、足元を見ていた目線が俺を向いた。首の動きに合わせて長めの茶髪がさらりと揺れる。
俺を視界に捉えた和泉は、目を見開いた。そしてすぐこちらに駆け寄ってくる。
「油井先輩、どうして……」
「……ひ、久しぶり」
心臓は馬鹿みたいに暴れている。肩にかけたスクールバッグの紐を無意識に強く握っていた。
「え、と……い、一緒に帰ろう」
「……俺と? いいの?」
小さく頷くと、和泉の顔が嬉しそうに綻んだ。
次の電車が来るまであと七分。久しぶりに二人で座ったベンチはひんやりとしていた。
「油井先輩、どのくらい待ったの? 寒かったでしょ」
「そんな大した時間じゃないし、大丈夫だから」
「でも鼻の頭赤くなってるよ」
顔の中心を指差され、気恥ずかしくなって俯く。誤魔化しても無駄みたいだ。
「待っててくれてありがと」
「……」
礼を言うのは……むしろ謝らないといけないのは俺の方だ。ごくりと唾を飲み込み、意を決して口を開いた。
「待たせてごめん、和泉」
「……!」
「早く返事しなきゃって思ってたんだけど、どうすればいいか分かんなくて、ずっと先延ばしにしてて……ごめん」
口の中はからからに渇いていた。俺をまっすぐ見つめる和泉の瞳は、蛍光灯に照らされて輝いている。俺は口元のマフラーを少し引っ張り、鼻まで上げた。
「俺、お前のことすげー嫌な奴だと思ってた。クソ生意気だってムカついて……。でもやっぱり、俺一人じゃ張り合いがなくてつまんないんだよ」
「俺がいると、楽しい?」
「……ていうよりは……いないと、寂しい」
ずっと自分の気持ちが分からなかったけれど、今にしてみれば、和泉のいない毎日に静けさを感じていた時点で答えは出ていたのだと思う。
和泉が乗っていない電車も、一人で歩く通学路も、誰もいない自販機コーナーも、心に隙間風が吹いたみたいに寂しかったのだ。
「和泉は俺がいなくても、友達と楽しそうにしてるから大丈夫かもしれないけど」
「そんなわけないでしょ。友達といる時の楽しさと、先輩と会った時の嬉しさは全然違うよ」
……和泉も、寂しかったんだろうか。切なげに細められた瞳から目が逸らせない。
ホームに各駅停車の車両が到着した。ドアが開き、乗客が降りてくる。俺たちは立ち上がらなかった。
「あのさ、俺……俺は、和泉のこと……」
発車ベルが鳴り響き、声が聞こえなくなる。俺は和泉の腕を引き、内緒話をするように顔を近づけた。
「俺も、好き」
それだけ告げて腕と顔を離せば、和泉の頬も真っ赤になっていた。俺の頬の熱が移ったのかもしれない。
「待ってて良かったよ」
幸せそうに、和泉が笑う。俺はもう照れくささのあまり逃げ出したい気分だったけれど、そうはしなかった。
だって、今日からはずっと和泉と一緒に帰りたかったから。
肌寒さの中に春の気配を感じられる三月初旬。教室棟から正門へ歩く俺のブレザーには、赤い胸花がつけられていた。
「油井先輩」
正門の前には和泉が立っていた。ひらりと手を振られ、俺も振り返す。
「卒業おめでとう」
「祝わないんじゃなかったのかよ」
「うーん、心境の変化?」
なんだそりゃ。でもちょっと分かる気もする。心境も、俺たちの関係性も、この数ヶ月で大きく変わったからだ。
「やっぱり寂しいけどね。俺のこと置いていっちゃうんだーって」
「置いてくわけじゃねえよ」
軽く握った拳で和泉の胸を小突く。和泉の手が俺の手に触れ、指が絡む。繋いだ手にはきゅっと力が込められた。
「浮気しちゃ嫌だからね」
「絶対しねえし、俺なんか需要もないだろ」
「俺にはあるよ」
「……ほんと、物好きな奴」
「そんな物好きな俺が好きなんでしょ」
「……」
否定はしない。口でこいつを言い負かすのは無理そうだ。
手を繋いだまま、並んで駅まで歩き出す。名残惜しくてつい歩みがゆっくりになる。
通学路の途中にあったケーキ屋は先月からシャッターが閉まったままだ。その隣のパン屋の入口には開店祝いの花が飾られている。季節も景色も移ろいゆくもので、和泉が卒業する頃にはまた違った風景になっているんだろう。
「ねー油井先輩、俺考えたんだけどさ」
「ん?」
隣を歩く和泉の顔を見上げる。その表情は明るかった。
「高校卒業したら家を出ようと思ってるんだよね」
「へー、一人暮らしか?」
「ううん、二人暮らし」
二人暮らしってことは、ルームシェアか。……誰とだよ。友達?
何となく面白くなくて眉を寄せると、和泉は自身と俺の顔を順番に指差した。
「俺と、油井先輩。一緒に住めばもっと一緒にいられるんじゃない?」
「えっ……!?」
顔がぼっと熱くなる。それって、つまり……ど、同棲……?
「……か、考えとく」
「えー、そこは『いいよ』って即答してよ」
和泉は不満そうに唇を尖らせた。
「大事なことは時間かけて考えたいんだよ」
「意外と優柔不断だよねー……告白の返事も何週間も待たされたしさ」
「う……い、今更蒸し返すなよ」
俺は一生この話を擦られるんだろうか。
まだブーブー文句を言っている和泉から顔を背ける。
「つーかお前、料理とかできんの?」
「どうだろ? やったことないけど、俺器用だから、やればできるんじゃないかな」
「お前ってほんとさぁ……」
この性格でよく今まで嫌われなかったな。
それにしても、二人暮らしか。
朝起きたらこいつがいて、一緒に食事をして、同じ時間に家を出て。先に帰った方が出迎えて、寝る時にも隣にいて……そんな生活を思い浮かべてみる。喧嘩もいっぱいするだろうけど、きっとそれ以上に楽しくて幸せなはずだ。
緩みそうになる口元を隠すために、俺はそっぽを向いたまま言った。
「……料理の練習しとけよ。俺もするから」
遠回しな返事は、イエスの代わりにほかならなかった。
俺の意図を察した和泉はにこにこと笑いながら、繋いだ手を大きく振った。
「ふふ、待ち遠しいね」
「お前が言い出したんだから、留年するなよ」
「しないよ。先輩と違って頭良いから」
「俺だって留年したことねえよ」
駅に着くまであと少し。和泉は今日もわざわざ各駅停車で帰るんだろう。
今の俺たちは、電車を降りる相手の背中を見送っている。でもきっと近い将来、同じ駅で降りる日が来る――そう思うと、ひとりでに心が躍った。
そう判断した俺は、翌朝から電車の時間をずらした。だいぶ早く着いてしまうがしょうがない。
自販機の飲み物を買わなくてもいいようにステンレスボトルを持参して、帰りが被らないように放課後の居残り勉強もやめた。
――別に会おうと思えば会えるだろ。
和泉にそう言ったことを思い出す。同じ高校に通っていても、クラスも学年も違えば案外会う機会はない。つまり、会おうとしなければ会えないってことだ。
俺は結局、告白の返事を保留にしたままだ。直接顔を見て話せる自信がないし、和泉も返事の催促をしてこない。あまり待たせるものでもないと思うけれど、自分の気持ちがはっきりするまで時間が欲しかった。
そんな日々がしばらく続いたある朝のこと。
「いってきます!」
いってらっしゃい、という母の返事を聞く暇もなく、玄関から飛び出した。
このところ、和泉のことばかり考えていて勉強に集中できていなかった。このままではまずいと思い、ゆうべ遅くまで過去問を解いていたら盛大に寝坊してしまったのだ。
次の電車に乗り遅れたら遅刻確定だ。朝日の眩しさに目を細めながら、駅まで全力疾走する。改札を通ってホームの階段を駆け上がった直後、高校の方面行きの電車が到着した。良かった、ギリギリセーフ!
一番近くのドアから乗車し、やっと一息つく。空いている手すりを探して周囲を見回した時、俺の視界は車内の端の方にいる集団を捉えた。
輪の中心で数人の女子に囲まれている、一際目立つ男――和泉だ。少し前まで俺はこの電車で和泉と一緒に登校していた。
俺が時間をずらしてからも、和泉は同じ電車に乗り続けていたのか。急行電車ではなく、わざわざ時間のかかる各駅停車に。……俺に会うために。
和泉は俺に気づいていないようで、女子たちと何か話している。会話の内容までは聞こえない。
楽しそうに笑っている様子を見ているうちに、胸の奥にもやもやしたものが生まれた。
……なんだよ、あいつ。俺がいなくても楽しそうじゃん。
和泉は俺と会えなくて寂しがっているかもしれないと、ほんの少しだけ思っていた。でも、それは俺の勘違いだった。
もしかしたら……あの告白は気の迷いだったとか、やっぱり女の子の方が良くなったとかかもしれない。
「……」
心臓がきゅっと苦しくなる。
今までとは違った意味で和泉の顔を見たくなくて、俺はそっと背を向けた。
毎日がとても静かになった。
ここしばらく和泉とは距離を置いていたけれど、あれ以来更に意図的に避けている。
告白されてからだいぶ日が経ってしまった。
和泉は俺の返事を待つと言っていた。でもいつまでとは言っていない。保留にし続けるのは不誠実だが、いっそ忘れられた方がいいかもしれないとも思う。それに、待たせすぎたせいで、すでに俺への気持ちが冷めてしまった可能性もある。
このまま卒業すれば、俺たちの関係は終わる。
時間が経つほどに冬は一歩、また一歩と近づいていた。
太陽の位置が低くなり、寒空が広がる昼休み。
「あー……やっちまった……」
弁当を取り出そうとしたところで、ステンレスボトルを忘れたことに気づいた。たぶんリビングのダイニングテーブルに置きっぱなしだ。
「油井、どうかした?」
「うーん……ちょっと飲み物買ってくる」
少し迷いながらも友達に声をかけ、財布を手に席を立つ。
飲み物を買いに行くだけなのに、やけに緊張して足取りが重かった。もしも和泉と会ってしまったらどうしよう。俺はうまく話せるんだろうか。……いや、そもそも話しかけてもらえるんだろうか。
気を張りながら来た時に限って、自販機コーナーには誰もいなかった。安心したような、がっかりしたような複雑な気持ちだった。
空は薄曇りで日の光が届かず、冷たい風が吹き抜けてぶるりと身震いする。
よし、今日はあったかいココアにしよう。
財布を開いたところで、二人の女子が自販機の前にやってきた。
「ほら、ジュース奢るから元気出して!」
「うん……」
一人は涙を拭いていた。き、気まずい……。さっさと教室に戻ろう。
「それで、なんて言われたの?」
「好きな人いるから付き合えない、ごめんって……」
どうやら失恋したばかりらしい。急いで百円玉を投入する。
「和泉くん、ずっとその人が好きだって言ってた」
突然聞こえた名前に、ボタンを押そうとした指が止まる。こっそり顔を見てみれば、泣いている彼女は電車内で和泉を囲んでいたうちの一人だった。
「その人って誰?」
「わかんない……でも、本気なんだって」
耳元で鼓動の音が大きく鳴り、女子たちの声をかき消す。
震える指でなんとかボタンを押す。間違えて野菜ジュースを押してしまったけれど、今はどうでも良かった。
和泉の好きな人。ずっと、本気で好きな人。それって……。
心臓を掴まれたように苦しくなった。冬の寒さを忘れるくらい顔が熱い。
和泉はまだ俺を待ってくれているんだ。それなら、いつまでも逃げてばかりいられない。ちゃんと話さないと。
その日の放課後、駅のホームで何本も電車を見送った。オレンジ色の夕焼けがだんだん紫色に変わるにつれて、空気の冷たさも増していく。マフラーに口元を埋めながらホームの時計を見上げると、時計の針は七時間目の授業の終わりを指していた。あと少ししたら、特進クラスの生徒たちが駅に着くはずだ。
たった小一時間待っただけでも指先は冷え、かさかさに乾燥していた。何週間も俺を待った和泉は、一体どんな気持ちだったんだろう。会ったらまず何を言おうか……。落ち着かないまま、ホームの階段を見つめる。
しばらく待ち続けていると、階段を上ってくる人波の中に学生の姿が混ざり始めた。緊張感が高まっていき、胸の前でぎゅっと拳を握る。そうして、辺りがだいぶ暗くなってきたところで――。
「い、和泉!」
呼びかけると、足元を見ていた目線が俺を向いた。首の動きに合わせて長めの茶髪がさらりと揺れる。
俺を視界に捉えた和泉は、目を見開いた。そしてすぐこちらに駆け寄ってくる。
「油井先輩、どうして……」
「……ひ、久しぶり」
心臓は馬鹿みたいに暴れている。肩にかけたスクールバッグの紐を無意識に強く握っていた。
「え、と……い、一緒に帰ろう」
「……俺と? いいの?」
小さく頷くと、和泉の顔が嬉しそうに綻んだ。
次の電車が来るまであと七分。久しぶりに二人で座ったベンチはひんやりとしていた。
「油井先輩、どのくらい待ったの? 寒かったでしょ」
「そんな大した時間じゃないし、大丈夫だから」
「でも鼻の頭赤くなってるよ」
顔の中心を指差され、気恥ずかしくなって俯く。誤魔化しても無駄みたいだ。
「待っててくれてありがと」
「……」
礼を言うのは……むしろ謝らないといけないのは俺の方だ。ごくりと唾を飲み込み、意を決して口を開いた。
「待たせてごめん、和泉」
「……!」
「早く返事しなきゃって思ってたんだけど、どうすればいいか分かんなくて、ずっと先延ばしにしてて……ごめん」
口の中はからからに渇いていた。俺をまっすぐ見つめる和泉の瞳は、蛍光灯に照らされて輝いている。俺は口元のマフラーを少し引っ張り、鼻まで上げた。
「俺、お前のことすげー嫌な奴だと思ってた。クソ生意気だってムカついて……。でもやっぱり、俺一人じゃ張り合いがなくてつまんないんだよ」
「俺がいると、楽しい?」
「……ていうよりは……いないと、寂しい」
ずっと自分の気持ちが分からなかったけれど、今にしてみれば、和泉のいない毎日に静けさを感じていた時点で答えは出ていたのだと思う。
和泉が乗っていない電車も、一人で歩く通学路も、誰もいない自販機コーナーも、心に隙間風が吹いたみたいに寂しかったのだ。
「和泉は俺がいなくても、友達と楽しそうにしてるから大丈夫かもしれないけど」
「そんなわけないでしょ。友達といる時の楽しさと、先輩と会った時の嬉しさは全然違うよ」
……和泉も、寂しかったんだろうか。切なげに細められた瞳から目が逸らせない。
ホームに各駅停車の車両が到着した。ドアが開き、乗客が降りてくる。俺たちは立ち上がらなかった。
「あのさ、俺……俺は、和泉のこと……」
発車ベルが鳴り響き、声が聞こえなくなる。俺は和泉の腕を引き、内緒話をするように顔を近づけた。
「俺も、好き」
それだけ告げて腕と顔を離せば、和泉の頬も真っ赤になっていた。俺の頬の熱が移ったのかもしれない。
「待ってて良かったよ」
幸せそうに、和泉が笑う。俺はもう照れくささのあまり逃げ出したい気分だったけれど、そうはしなかった。
だって、今日からはずっと和泉と一緒に帰りたかったから。
肌寒さの中に春の気配を感じられる三月初旬。教室棟から正門へ歩く俺のブレザーには、赤い胸花がつけられていた。
「油井先輩」
正門の前には和泉が立っていた。ひらりと手を振られ、俺も振り返す。
「卒業おめでとう」
「祝わないんじゃなかったのかよ」
「うーん、心境の変化?」
なんだそりゃ。でもちょっと分かる気もする。心境も、俺たちの関係性も、この数ヶ月で大きく変わったからだ。
「やっぱり寂しいけどね。俺のこと置いていっちゃうんだーって」
「置いてくわけじゃねえよ」
軽く握った拳で和泉の胸を小突く。和泉の手が俺の手に触れ、指が絡む。繋いだ手にはきゅっと力が込められた。
「浮気しちゃ嫌だからね」
「絶対しねえし、俺なんか需要もないだろ」
「俺にはあるよ」
「……ほんと、物好きな奴」
「そんな物好きな俺が好きなんでしょ」
「……」
否定はしない。口でこいつを言い負かすのは無理そうだ。
手を繋いだまま、並んで駅まで歩き出す。名残惜しくてつい歩みがゆっくりになる。
通学路の途中にあったケーキ屋は先月からシャッターが閉まったままだ。その隣のパン屋の入口には開店祝いの花が飾られている。季節も景色も移ろいゆくもので、和泉が卒業する頃にはまた違った風景になっているんだろう。
「ねー油井先輩、俺考えたんだけどさ」
「ん?」
隣を歩く和泉の顔を見上げる。その表情は明るかった。
「高校卒業したら家を出ようと思ってるんだよね」
「へー、一人暮らしか?」
「ううん、二人暮らし」
二人暮らしってことは、ルームシェアか。……誰とだよ。友達?
何となく面白くなくて眉を寄せると、和泉は自身と俺の顔を順番に指差した。
「俺と、油井先輩。一緒に住めばもっと一緒にいられるんじゃない?」
「えっ……!?」
顔がぼっと熱くなる。それって、つまり……ど、同棲……?
「……か、考えとく」
「えー、そこは『いいよ』って即答してよ」
和泉は不満そうに唇を尖らせた。
「大事なことは時間かけて考えたいんだよ」
「意外と優柔不断だよねー……告白の返事も何週間も待たされたしさ」
「う……い、今更蒸し返すなよ」
俺は一生この話を擦られるんだろうか。
まだブーブー文句を言っている和泉から顔を背ける。
「つーかお前、料理とかできんの?」
「どうだろ? やったことないけど、俺器用だから、やればできるんじゃないかな」
「お前ってほんとさぁ……」
この性格でよく今まで嫌われなかったな。
それにしても、二人暮らしか。
朝起きたらこいつがいて、一緒に食事をして、同じ時間に家を出て。先に帰った方が出迎えて、寝る時にも隣にいて……そんな生活を思い浮かべてみる。喧嘩もいっぱいするだろうけど、きっとそれ以上に楽しくて幸せなはずだ。
緩みそうになる口元を隠すために、俺はそっぽを向いたまま言った。
「……料理の練習しとけよ。俺もするから」
遠回しな返事は、イエスの代わりにほかならなかった。
俺の意図を察した和泉はにこにこと笑いながら、繋いだ手を大きく振った。
「ふふ、待ち遠しいね」
「お前が言い出したんだから、留年するなよ」
「しないよ。先輩と違って頭良いから」
「俺だって留年したことねえよ」
駅に着くまであと少し。和泉は今日もわざわざ各駅停車で帰るんだろう。
今の俺たちは、電車を降りる相手の背中を見送っている。でもきっと近い将来、同じ駅で降りる日が来る――そう思うと、ひとりでに心が躍った。



