時が過ぎるのはあっという間で、十一月下旬。受験に向けて勉強の総仕上げをする時期だ。
今日は放課後に図書室でしばらく勉強してから下校した。頬を刺すような木枯らしが吹く中、駅までの道のりを一人で歩く。
通学路上には俺と同じ制服の高校生の姿が他にもあった。しかし面識のない顔ばかりだ。たぶん特進クラスの奴らなんだろう。特進は七時間目まで授業があるから、一般クラスより帰りが遅いのだ。
もしかしたら和泉もこの時間に帰るのかもしれない。待っててやっても良かったかな、なんて考えながら駅に到着すると、ちょうど急行電車がホームに入ってきたところだった。
各駅停車は七分後だ。仕方ない、待つか。
ホームのベンチに座って英単語帳を開く。苦手な単語の意味を何度も頭の中で復唱していると、ふと視界の端に見覚えのある姿が見えた。顔を上げれば、少し離れたところで和泉が急行電車に乗り込もうとしていた。
「和泉!」
慌てて駆け寄って呼び止めると、和泉は驚いた顔をした。
「これ急行だぞ。よく見ろよ」
「あ……あー、うん……」
和泉は気の抜けた返事をした。ドアが閉まり、ゆっくりと動き出した電車を見送る。
そのままホームに並んで立ち、次の各駅停車を待つ。
「油井先輩、今日は遅いね」
「図書室で勉強してた。もうすぐ受験本番だしな」
「そっか……毎日がんばってるもんね」
和泉は俺の手にあった英単語帳に目を向けた。ボロボロの表紙を見られるのは何となく恥ずかしくて、俺は英単語帳をバッグにしまった。
「もうすぐ卒業……だよね」
「そうだな。あと四ヶ月か」
卒業式は三月初旬にある。実質あと三ヶ月半ほどで、俺の高校生活は終わりだ。そう思うとほんの少し寂しさを感じる。
「色々あったけど楽しかったな。早く受験が終わってくれればいいんだけど」
「……」
「和泉、俺が合格したらちゃんと祝えよな」
「……やだ」
「何でだよ!」
冗談交じりにツッコミを入れながら和泉の顔を見上げる。しかし俺の予想に反して、和泉は無表情だった。
「やだよ。祝ってなんかあげない」
「……な、なんで」
いつものからかいと違うことはすぐに分かった。形の良い眉が顰められ、眉間に皺が寄る。
「だって、卒業しちゃったら会えなくなるじゃん。そんなの全然嬉しくない」
「そ、それは……しょうがないだろ」
「油井先輩に会えないのは嫌だ」
「和泉……」
和泉は普段の生意気な態度とは別人のように、心底寂しげだった。こういう後輩らしさを見せられると可愛く見えてくる。ただ、慕ってもらえるのは悪い気はしないけれど、卒業をずらすことはできない。年の差は埋められないのだ。
「別に会おうと思えば会えるだろ。ほら、たまには飯食いに行くとか」
個別会計でな、と付け加えたが、和泉はにこりともせずにため息をついた。
「会おうと思えば会える、ね……。油井先輩、どうして俺が毎朝同じ電車に乗ってたか分かる?」
「え? そりゃ、同じ方向だからだろ」
突然話題が変わって戸惑ったが、とりあえずそう答える。
間もなく電車が到着するとアナウンスが流れた。それにかき消されそうなほど小さな声で、和泉は言った。
「俺、さっき急行乗ろうとしてたでしょ。あれ、間違えてなかったんだよ」
「え……ああ、寄り道するつもりだったとか?」
もしそうだったら引き止めて悪かったと思う。しかし和泉は感情の読めない表情のまま首を横に振った。
「違う。俺の家の最寄り駅、ほんとは急行が停まるんだ」
「は……? でもお前、毎朝各駅停車に乗ってただろ」
「そう、嘘ついてたからね」
「な、何でそんな嘘を……」
ホームに電車が滑り込んでくる。冷たい木枯らしが吹き、和泉の茶髪を揺らす。
「俺、油井先輩が好き。好きだからちょっとでも一緒にいたかった」
「……えっ……」
好き……好きってなんだ? 和泉が、俺を好き……?
和泉は俺から目を逸らさず、いつになく真剣な顔をしている。その瞳に射抜かれて身動きが取れない。
「最初は面白い人だなって思ってただけだった。でも、俺のこと、初めて真剣に怒ってくれたのが油井先輩だったんだよ。あの時、先輩が好きだって気づいた」
「な、なに言って……」
「ずっと何にも本気になれなかったけど、今は違う。本気で油井先輩が好きだよ」
この言い方は、どう考えても先輩後輩としての「好き」ではない。つまり、和泉は俺のことを、恋愛対象として……。
「……っ」
驚きと動揺で声が出ず、俺は目の前の電車に飛び乗った。背後でドアが閉まる。和泉は乗ってこなかった。
ドアに背中を預けてずるずるとしゃがみ込む。心臓がばくばくと音を立てている。顔がやたらと熱いのは、車内のエアコンのせいではなかった。
翌朝、緊張しながら乗った電車内には、和泉の姿は見当たらなかった。内心ほっとする。どんな顔をして会えばいいのか分からなかったのだ。
あれからずっと、頭の中で和泉の声が響いている。返事もせずに逃げ帰ってしまったけれど、そもそもどう返事をしたらいいのかも分からない。
俺にとっての和泉は、生意気な後輩だ。時々デリカシーに欠けることを言われてイラッとするけれど、根は悪い奴じゃないし、話していて楽しいとも思う。でもそういう意味で好きなのかと問われると……。
こんなことを一晩ほとんど眠れずに考え続け、結局答えは出ないままだった。
ドア横の手すりに掴まりながら、スマホの検索画面を開く。検索履歴には「告白 返事の仕方」「告白された 好きか分からない」などなど、恥ずかしくて死にそうな単語が並んでいる。人に見られる前に消しておこう。
カーブに差し掛かり、電車が大きく揺れた。足がもつれてバランスを崩しかける。
「うわっ」
近くのサラリーマンにぶつかりそうになった時、背中に誰かの腕が回って身体を引き寄せられた。
「大丈夫?」
「あ……」
俺を支えていたのは和泉だった。今朝も同じ車両にいたのか。急に近くなった距離と腕の力強さ、触れた背中から伝わる体温に、鼓動がどっと速くなる。反射的に和泉の身体を押し返した。
「だ、大丈夫、だから」
「そっか。……なんか元気ない?」
「別に」
顔を覗き込まれ、慌てて背ける。和泉からは昨日の真剣さは消えていた。
「今日の夕方めちゃくちゃ寒いらしいよ。俺寒いの嫌い」
「……そうなんだ」
「油井先輩は夏と冬どっちが好き? 俺の予想は夏!」
「……」
こいつ、どうしてこんなに平常運転なんだ。俺の方がおかしいのかと疑いたくなる。それともあれは夢だったとか……いや、そんなはずない。あの時の和泉の表情は目に焼きついている。
「油井先輩って夏が似合うよね。麦わら帽子被って虫取ってそうっていうか、子どもっぽいっていうか……」
また失礼なことを言っている口が不意に動きを止めた。和泉の目はある一点――俺の手元に向けられている。
俺も釣られて視線を落とせば、スマホの画面に検索履歴が表示されたままだった。
「っ!」
慌ててスマホを背後に隠す。み、見られた……!
全身の血液が沸騰したみたいに、身体中が熱くなっていく。
「先輩、今のって……」
「ひ、人のスマホ見るなよ!」
何の言い訳も思いつかなかった。
和泉はにやにやと笑いながら、俺の耳元に顔を寄せた。
「待ってるね」
「……っ!!」
他の人には聞こえない小さな声は、俺の鼓膜をしっかりと震わせた。
それから電車を降りるまで会話はなく……というか俺は和泉の顔を見ることもできず、ただ俯いてスニーカーの爪先を見つめていた。今までは二人で歩いていた通学路も、今日は一人で早足で歩いた。
あいつはただの後輩。そう思っているのに、増えた心拍数はなかなか治まらなかった。
今日は放課後に図書室でしばらく勉強してから下校した。頬を刺すような木枯らしが吹く中、駅までの道のりを一人で歩く。
通学路上には俺と同じ制服の高校生の姿が他にもあった。しかし面識のない顔ばかりだ。たぶん特進クラスの奴らなんだろう。特進は七時間目まで授業があるから、一般クラスより帰りが遅いのだ。
もしかしたら和泉もこの時間に帰るのかもしれない。待っててやっても良かったかな、なんて考えながら駅に到着すると、ちょうど急行電車がホームに入ってきたところだった。
各駅停車は七分後だ。仕方ない、待つか。
ホームのベンチに座って英単語帳を開く。苦手な単語の意味を何度も頭の中で復唱していると、ふと視界の端に見覚えのある姿が見えた。顔を上げれば、少し離れたところで和泉が急行電車に乗り込もうとしていた。
「和泉!」
慌てて駆け寄って呼び止めると、和泉は驚いた顔をした。
「これ急行だぞ。よく見ろよ」
「あ……あー、うん……」
和泉は気の抜けた返事をした。ドアが閉まり、ゆっくりと動き出した電車を見送る。
そのままホームに並んで立ち、次の各駅停車を待つ。
「油井先輩、今日は遅いね」
「図書室で勉強してた。もうすぐ受験本番だしな」
「そっか……毎日がんばってるもんね」
和泉は俺の手にあった英単語帳に目を向けた。ボロボロの表紙を見られるのは何となく恥ずかしくて、俺は英単語帳をバッグにしまった。
「もうすぐ卒業……だよね」
「そうだな。あと四ヶ月か」
卒業式は三月初旬にある。実質あと三ヶ月半ほどで、俺の高校生活は終わりだ。そう思うとほんの少し寂しさを感じる。
「色々あったけど楽しかったな。早く受験が終わってくれればいいんだけど」
「……」
「和泉、俺が合格したらちゃんと祝えよな」
「……やだ」
「何でだよ!」
冗談交じりにツッコミを入れながら和泉の顔を見上げる。しかし俺の予想に反して、和泉は無表情だった。
「やだよ。祝ってなんかあげない」
「……な、なんで」
いつものからかいと違うことはすぐに分かった。形の良い眉が顰められ、眉間に皺が寄る。
「だって、卒業しちゃったら会えなくなるじゃん。そんなの全然嬉しくない」
「そ、それは……しょうがないだろ」
「油井先輩に会えないのは嫌だ」
「和泉……」
和泉は普段の生意気な態度とは別人のように、心底寂しげだった。こういう後輩らしさを見せられると可愛く見えてくる。ただ、慕ってもらえるのは悪い気はしないけれど、卒業をずらすことはできない。年の差は埋められないのだ。
「別に会おうと思えば会えるだろ。ほら、たまには飯食いに行くとか」
個別会計でな、と付け加えたが、和泉はにこりともせずにため息をついた。
「会おうと思えば会える、ね……。油井先輩、どうして俺が毎朝同じ電車に乗ってたか分かる?」
「え? そりゃ、同じ方向だからだろ」
突然話題が変わって戸惑ったが、とりあえずそう答える。
間もなく電車が到着するとアナウンスが流れた。それにかき消されそうなほど小さな声で、和泉は言った。
「俺、さっき急行乗ろうとしてたでしょ。あれ、間違えてなかったんだよ」
「え……ああ、寄り道するつもりだったとか?」
もしそうだったら引き止めて悪かったと思う。しかし和泉は感情の読めない表情のまま首を横に振った。
「違う。俺の家の最寄り駅、ほんとは急行が停まるんだ」
「は……? でもお前、毎朝各駅停車に乗ってただろ」
「そう、嘘ついてたからね」
「な、何でそんな嘘を……」
ホームに電車が滑り込んでくる。冷たい木枯らしが吹き、和泉の茶髪を揺らす。
「俺、油井先輩が好き。好きだからちょっとでも一緒にいたかった」
「……えっ……」
好き……好きってなんだ? 和泉が、俺を好き……?
和泉は俺から目を逸らさず、いつになく真剣な顔をしている。その瞳に射抜かれて身動きが取れない。
「最初は面白い人だなって思ってただけだった。でも、俺のこと、初めて真剣に怒ってくれたのが油井先輩だったんだよ。あの時、先輩が好きだって気づいた」
「な、なに言って……」
「ずっと何にも本気になれなかったけど、今は違う。本気で油井先輩が好きだよ」
この言い方は、どう考えても先輩後輩としての「好き」ではない。つまり、和泉は俺のことを、恋愛対象として……。
「……っ」
驚きと動揺で声が出ず、俺は目の前の電車に飛び乗った。背後でドアが閉まる。和泉は乗ってこなかった。
ドアに背中を預けてずるずるとしゃがみ込む。心臓がばくばくと音を立てている。顔がやたらと熱いのは、車内のエアコンのせいではなかった。
翌朝、緊張しながら乗った電車内には、和泉の姿は見当たらなかった。内心ほっとする。どんな顔をして会えばいいのか分からなかったのだ。
あれからずっと、頭の中で和泉の声が響いている。返事もせずに逃げ帰ってしまったけれど、そもそもどう返事をしたらいいのかも分からない。
俺にとっての和泉は、生意気な後輩だ。時々デリカシーに欠けることを言われてイラッとするけれど、根は悪い奴じゃないし、話していて楽しいとも思う。でもそういう意味で好きなのかと問われると……。
こんなことを一晩ほとんど眠れずに考え続け、結局答えは出ないままだった。
ドア横の手すりに掴まりながら、スマホの検索画面を開く。検索履歴には「告白 返事の仕方」「告白された 好きか分からない」などなど、恥ずかしくて死にそうな単語が並んでいる。人に見られる前に消しておこう。
カーブに差し掛かり、電車が大きく揺れた。足がもつれてバランスを崩しかける。
「うわっ」
近くのサラリーマンにぶつかりそうになった時、背中に誰かの腕が回って身体を引き寄せられた。
「大丈夫?」
「あ……」
俺を支えていたのは和泉だった。今朝も同じ車両にいたのか。急に近くなった距離と腕の力強さ、触れた背中から伝わる体温に、鼓動がどっと速くなる。反射的に和泉の身体を押し返した。
「だ、大丈夫、だから」
「そっか。……なんか元気ない?」
「別に」
顔を覗き込まれ、慌てて背ける。和泉からは昨日の真剣さは消えていた。
「今日の夕方めちゃくちゃ寒いらしいよ。俺寒いの嫌い」
「……そうなんだ」
「油井先輩は夏と冬どっちが好き? 俺の予想は夏!」
「……」
こいつ、どうしてこんなに平常運転なんだ。俺の方がおかしいのかと疑いたくなる。それともあれは夢だったとか……いや、そんなはずない。あの時の和泉の表情は目に焼きついている。
「油井先輩って夏が似合うよね。麦わら帽子被って虫取ってそうっていうか、子どもっぽいっていうか……」
また失礼なことを言っている口が不意に動きを止めた。和泉の目はある一点――俺の手元に向けられている。
俺も釣られて視線を落とせば、スマホの画面に検索履歴が表示されたままだった。
「っ!」
慌ててスマホを背後に隠す。み、見られた……!
全身の血液が沸騰したみたいに、身体中が熱くなっていく。
「先輩、今のって……」
「ひ、人のスマホ見るなよ!」
何の言い訳も思いつかなかった。
和泉はにやにやと笑いながら、俺の耳元に顔を寄せた。
「待ってるね」
「……っ!!」
他の人には聞こえない小さな声は、俺の鼓膜をしっかりと震わせた。
それから電車を降りるまで会話はなく……というか俺は和泉の顔を見ることもできず、ただ俯いてスニーカーの爪先を見つめていた。今までは二人で歩いていた通学路も、今日は一人で早足で歩いた。
あいつはただの後輩。そう思っているのに、増えた心拍数はなかなか治まらなかった。



