夕方の微妙な時間帯では、高校近くの激安イタリアンチェーン店は空いていた。カウンター席に並んで座ると和泉はメニュー表を開いた。
「油井先輩は何食べる?」
「ドリアとドリンクバー」
「だけ? ちゃんと食べなきゃ大きくなれないよ」
「お前みたいにデカくなりすぎても困るからな」
本当にうるさい。小遣い日前で厳しいんだよ。それに俺は家に帰ったらちゃんと夕飯を食べる。
注文を済ませ、俺はスクールバッグから英単語帳を、和泉は数学のワークを取り出す。
「で、どっか分かんないところあるのか?」
「うーん……これかなぁ」
和泉はワークをぱらぱらと捲り、とある一問を指差した。どれどれ、たまには先輩らしいところを見せてやろうじゃないか。
「……」
なんだこれ。応用の応用の応用? 本当に一年生向けの問題かと疑い、思わずワークの表紙を確認してしまった。一年生向けだった。
「どう? 分かる?」
「えーと……」
「まさか分かんないの? 受験生なのに」
「う、うるさい。気が散るから静かにしてろよ」
特進クラスが頭のいい奴らの集まりだとは知っていたけれど、一年の時点でこんなにハイレベルだとは思っていなかった。
でもやっぱり解けませんなんてダサいことは言いたくない。俺だって模試では第一志望の中堅大学がB判定だったから、特別出来が悪いわけではないはずだ。必死に公式を思い出し、途中式を細かく書き込み、辛うじて答えを導き出した。
「で、できた……」
「わーすごい、お疲れ様! でも途中の式間違ってるよ」
「えっ」
「最終的に答えが合ってるのが不思議だけど」
「……お前、分かんないんじゃなかったのかよ」
「そうだっけ」
肩を竦めてとぼける様子に、またからかわれたんだと気づいた。こいつ、俺を試したな……!
「なんだよ、せっかく教えてやろうと思ったのに!」
「あはは、気持ちだけ受け取っておくよ。特に困ってないしね」
頭良い自慢かよ、ムカつく。がんばって損した。
「いい復習になったんじゃない?」
「お前が言うな」
こいつの相手をしていても時間がもったいない。自分の勉強に集中しよう。
俺が英単語帳を開くと、和泉は思ったより邪魔をしてこないで自分のワークに取りかかっていた。横目で盗み見た手元は全く悩まずにさらさらと問題を解き続けている。やっぱり俺の助けなんかいらなかったんじゃないか。
しばらく勉強を進め、疲れを感じ始めた頃にペンを置いて大きく伸びをした。
「あー……疲れた……」
「油井先輩、終わりにする?」
「そうだな」
気づけば一時間ほど経っていた。あまり長居するのも迷惑だ、そろそろ出ないと。
ファミレスでは周りの物音や話し声で集中できないんじゃないかと思っていたが、適度な環境音のおかげで寧ろいつもより捗った。たまにはこういうのもありだ。
「じゃあさ、帰る前にこれだけやらない?」
そう言いながら、和泉はメニュー立てからキッズメニューを手に取った。裏面にカラフルな間違い探しが載っている。
「子ども向けだろ」
「いやいや、これが意外と難しいんだよ。どっちが多く見つけられるか競争しよ」
「お前さぁ、俺のこと馬鹿にするのもいい加減に……」
「はい、スタート」
やるとは言っていないのに勝手に始められた。
まあでも、子ども向けの間違い探しをやりたがるなんて、こいつもちょっとは可愛げがあるんだな。仕方ない、ここは年上らしく付き合ってやるか。
間違い探しには、デフォルメされたキャラクターがレストランで食事をしているシーンが描かれていた。こんなの余裕だろ、と思いながら左右のイラストを見比べてみる。
……あれ、ないな。おかしいな。
「あ、一個見つけた」
「えっ、どこだよ」
「これこれ」
和泉が示したのは、キャラクターの背景に積み重ねられた皿の部分だった。よく見ると右のイラストは一枚少ない。難しすぎるだろ!
「こんなん子どもには無理だろ……」
「だから言ったでしょ。ほら、先輩もがんばって。俺は二個目も見つけたから」
「待てよ、早い!」
負けじと睨むようにイラストを凝視する。これは……印刷の擦れか。これも違う、ここにもない……。
「あっ、あった!」
やっと見つけた! 指差しながら顔を上げると、和泉は手で口元を押さえて噴き出した。
「……何で笑った?」
「ふふっ……だって油井先輩、めちゃくちゃ真剣だし、めちゃくちゃ嬉しそうだし」
「わ、悪いかよ」
確かにちょっとムキになってしまった。笑われると恥ずかしくなり、頬の熱を感じる。
「悪くないよ。かわいーじゃん」
「それ褒めてないだろ」
男が男にかわいいと言われても全く嬉しくない。ていうかおちょくられているだけにしか思えない。
最終的に、十個ある間違いのうち、それぞれが五個ずつ見つけた。引き分けだ。
「あーあ、俺が勝ったら奢ってもらおうと思ったのに」
「個別会計って言っただろ」
残念そうな口振りだったが、和泉は俺を見ながらにやにやと笑っていた。なんなんだ、その笑みは。
和泉も電車通学をしているらしく、駅まで二人で歩いた。ホームには発車前の急行電車が停まっていた。
「あれ、乗らないの?」
「俺んち各駅停車しか停まらないんだよ」
この路線には急行電車と各駅停車の二種類がある。
俺の最寄りはここから二つ目、住宅街の中にある小さな駅で、急行電車は通過してしまう。たまに乗り間違えそうになったり、待ち時間が発生したりするのが難点だ。
「俺は電車待つから、和泉は先に帰れよ」
「あー……実は俺も各駅停車なんだよね」
「え……そうなんだ……」
ということは電車まで一緒かよ。げんなりする。
ホームのベンチに腰を下ろすと、和泉は自販機で飲み物を買ってから俺の隣に腰かけた。
「油井先輩、今日はありがとね。これ、お礼」
言いながら、和泉はスポーツドリンクのペットボトルを差し出してきた。
「変な気遣うなよ、お前らしくない。俺何もしてないし」
「いいから受け取ってよ。この前先輩の飲み物盗っちゃったしね」
「……じゃあ、ありがとう」
礼儀知らずなんだか義理堅いんだか、よく分からない奴だ。でもこういうところがあるからこそ、こいつのことを心の底からは憎みきれないんだと思う。
受け取ったペットボトルの蓋を開け、一口飲む。
「次は友達と勉強しろよ」
「えー、また一緒にやろうよ」
「もういいって……」
俺が役に立たないことはもう分かっただろ。和泉はしょっちゅう人に囲まれているんだから、他にもっと適役がいるはずだ。
「お前、何で俺に絡むんだよ」
「だって、油井先輩面白いんだもん」
「はあ? どこが?」
「俺の言うことにいちいち反応するところ」
やっぱり馬鹿にしてるだけかよ。眉間に皺を寄せると、和泉は長い脚を組んだ。
「油井先輩っていつも本気っていうか、全力っていうか……がんばりすぎじゃない?」
「がんばるのは普通のことだろ」
俺には特別な才能も秀でた能力もない。だからこそ人並みに努力をすることは当然だ。まあ、熱くなりすぎたり、そのせいで周りが見えなくなったりすることもあるんだけど。
和泉の視線は俺から外れ、どこか遠くを眺めるように目が細められた。
「でもさ、がんばるのって疲れない?」
「程度によるだろ」
「ふーん……」
和泉は一旦口を閉じ、俯きがちに続けて言った。
「俺、何かに本気になったことないんだよね」
「……? どういう意味だよ」
「そのまんまの意味。俺って生まれつき器用でさ、勉強もスポーツも、がんばらなくてもそれなりにできちゃうんだよ」
「嫌味か?」
「違うよ、何やってもつまんないなーって思ってた。だから油井先輩みたいな人は新鮮なんだ」
和泉の茶色い髪に、傾きかけた夕陽が透ける。ぽつりぽつりと話す表情は逆光で見えなかった。
「あ、もうすぐ電車来るみたいだよ」
電車の到着を告げるアナウンスが流れ、和泉は立ち上がった。俺も後に続く。
各駅停車に乗り込み、ドア横に立った。和泉は何か考え込んでいるような顔で窓の外を眺めていた。いつもとは違った様子に声をかけていいのか分からない。
珍しく嫌味もからかいもないまま、俺は二つ目の駅で電車を降りた。
「じゃーね、油井先輩」
「……ん」
閉まるドアの向こう側で、和泉は小さく手を振った。俺も軽く手を挙げて応える。電車が動いて和泉の姿が見えなくなるまで、何となくその場で見送った。
そういえば、あいつも各駅停車の駅らしいけど、今までに電車内で会ったことはない。最寄り駅、どこなんだろう。
……なんてことを思った矢先に、朝の電車で和泉に出くわしてしまった。
「油井先輩、おはよー」
満員電車の中でもよく目立つ和泉は、ひらひらと手を振りながら笑顔を向けてきた。近くにいる女子高生が見惚れている。くれぐれも顔の良さに騙されないでほしい。
「お前、もしかして乗る時間変えた?」
「うん、今日は一本遅いんだよ。でも先輩に会えたからラッキー」
俺にとってはアンラッキーである。
空いていた吊り革に掴まると、和泉はわざわざ俺の隣に移動してきた。
「俺、吊り革苦手なんだよね。頭ぶつかるから」
「自虐風自慢やめろ」
確かに吊り革の高さと顔の位置がほぼ同じだ。俺には無縁の悩みだろう。
和泉はこちらを見下ろし、突然俺の頭頂部を指でぐりぐりと押した。
「油井先輩、つむじの形きれいだね」
「やめろ、嬉しくねえよ!」
またもや背が高い自慢か? 手を振り払うと和泉は声を上げて笑った。
「先輩ってほんと、面白い」
「……」
何をやってもつまらないと話していたことを不意に思い出し、何とも言えない気持ちになった。この「面白い」はどういう意図なんだ。
「明日も一緒に行こうね」
「俺は一人で行きたいんだけど」
「まあまあ、減るもんじゃないし」
俺の一人時間は確実に減ってるけどな。
結局、電車を降りてからも二人で歩く羽目になった。もうすぐ正門に着くというところで、一人の女子が和泉に声をかけた。
「和泉くん、教室行こ」
どうやら和泉の同級生らしい。彼女の視線がちらちらと向けられ、俺は空気を読んだ。
「じゃーな。俺明日は車両変えるから」
「えー、ひどいなぁ」
不満げな声を上げる和泉に背を向け、自分の教室へ足を運ぶ。
そうだ、あいつ彼女でも作ればいいのにな。そうすれば俺に絡む必要もなくなるだろうし、毎日もっと楽しく過ごせそうなのに。
そんな出来事があった数日後のことだった。
「和泉くんが好きです。私と付き合ってください」
昼休み、自販機コーナーに行こうとしたら、廊下の柱の陰から聞こえた声。思わず足を止め、息を潜める。
和泉くんって……あの和泉だよな。
あんなに軽薄な奴でも、あのルックスならさぞかしモテるだろうとは思っていた。けれど告白シーンに鉢合わせするとは……偶然とはいえ人の秘密を覗いているようで、勝手に気まずくなってしまう。
ここを通らないと自販機までたどり着けないけど、やっぱり盗み聞きはやめた方がいいよな。一日くらい飲み物がなくても問題ない。それに、あいつに彼女ができれば俺にもやっと平穏が訪れるはずだ。
もと来た道を戻ろうとしたら、「ありがとー」と間延びした声が聞こえた。和泉の声だ。
「でも俺、今はフリーでいたいんだよね。誰かと付き合っても飽きちゃいそうだし」
……は? なんだその言い草は。
女子が言葉を返す前に、和泉は半笑いで続ける。
「だからさ、もっといい人いるんじゃない?」
「……そ、そっか。そうだよね……」
しばらくの沈黙の後、ごめんね、と呟く震えた声と、ぱたぱたと走り去る音が聞こえた。
俺は無意識のうちに拳を握っていた。
「……おい、和泉」
柱の陰から姿を見せると、和泉の目が丸くなった。
「あれ、油井先輩。もしかして聞いてた? 趣味わるーい」
「お前いい加減にしろよ。なんなんだよ、さっきの言い方は」
「え……なにが?」
和泉は不思議そうに首を傾げた。悪気はないってことか。なおのこと悪質だ。
「あんなに適当に断ったら失礼だろ」
「……油井先輩には関係ないじゃん。まさかあの子のこと好きだったとか?」
「そうじゃねえよ、お前の態度が許せないだけだ」
怒鳴りつけたくなったが、たぶんそれでは伝わらない。努めて冷静に、和泉をまっすぐに見据えながら口を開く。
「あの子は真剣だっただろ。お前は軽く考えてるんだろうけど、言われた方はずっと覚えてるんだぞ」
「……」
「自分の言葉にはちゃんと責任持てよ」
「……」
和泉は俺をじっと見つめ返している。その口が何かを紡ごうとして、しかし何も言わずにまた閉じた。
「そっ、それだけだから。じゃーな」
説教くさいことを言いすぎたかもしれない。途端に恥ずかしくなり、俺は早足で教室に戻った。和泉は呼び止めも追いかけもしてこなかったけれど、背中に注がれる視線は角を曲がるまで感じられた。
「おはよ、油井先輩」
「お、おう」
翌朝。また電車で和泉に鉢合わせした。昨日の今日で気まずくなり、つい目を逸らす。和泉はいつも通り、ひらひらと手を振りながら俺に近づいてきた。
「油井先輩、昨日はごめんね」
「俺は別に……ていうか謝る相手違うだろ」
「あの子にもちゃんと謝ったよ。俺って結構無神経だったみたい」
やっと気づいたのかよ。今までよく怒られてこなかったものだ。顔の良さと人懐っこさで許されていたのかもしれない。
「ねえ先輩、俺がまた変なこと言ってたら止めてくれる?」
「お前な……まず変なことを言うなよ」
「あは、確かに」
和泉はどこか嬉しそうな笑みを浮かべている。こいつ、本当に分かってるのか? でも少しは意識が変わったみたいだ。
次の駅が近づいて電車が減速した時、いきなり頭をぽんぽんと撫でられた。驚いて身体を仰け反らせる。
「な、なんだよ」
「なんだろうね」
意味が分からん。奇行も程々にしてほしい。
それからというもの、毎朝電車で和泉に会うのが当たり前になった。
「油井先輩、おはよー。今日も会えたね」
「またかよ」
こんなやり取りが朝の定番だ。
「ねー先輩、昨日の配信見た?」
「途中までな」
「もったいないなー、最後が面白かったのに」
「しょうがないだろ、受験生は忙しいんだよ」
「あ、じゃあこの動画知ってる? 作業用BGMにちょうどいいんだって。これなら油井先輩でも勉強に集中できるかも」
「俺『でも』ってなんだよ」
和泉は相変わらず俺のことをからかったり弄ったりするけれど、それ以外の雑談も増えた。
電車を降りた流れで正門まで一緒に行くようになり、いつの間にか同じペースで歩くようにもなっていた。
最初はただムカつく奴だと思っていたけれど、最近はそうでもない。
もし本気で会いたくなければ車両を変えたり時間をずらしたりすればいい。でもそうしなかったのは、俺もあいつと過ごす時間が嫌ではなくなっていたからだと思う。
「油井先輩は何食べる?」
「ドリアとドリンクバー」
「だけ? ちゃんと食べなきゃ大きくなれないよ」
「お前みたいにデカくなりすぎても困るからな」
本当にうるさい。小遣い日前で厳しいんだよ。それに俺は家に帰ったらちゃんと夕飯を食べる。
注文を済ませ、俺はスクールバッグから英単語帳を、和泉は数学のワークを取り出す。
「で、どっか分かんないところあるのか?」
「うーん……これかなぁ」
和泉はワークをぱらぱらと捲り、とある一問を指差した。どれどれ、たまには先輩らしいところを見せてやろうじゃないか。
「……」
なんだこれ。応用の応用の応用? 本当に一年生向けの問題かと疑い、思わずワークの表紙を確認してしまった。一年生向けだった。
「どう? 分かる?」
「えーと……」
「まさか分かんないの? 受験生なのに」
「う、うるさい。気が散るから静かにしてろよ」
特進クラスが頭のいい奴らの集まりだとは知っていたけれど、一年の時点でこんなにハイレベルだとは思っていなかった。
でもやっぱり解けませんなんてダサいことは言いたくない。俺だって模試では第一志望の中堅大学がB判定だったから、特別出来が悪いわけではないはずだ。必死に公式を思い出し、途中式を細かく書き込み、辛うじて答えを導き出した。
「で、できた……」
「わーすごい、お疲れ様! でも途中の式間違ってるよ」
「えっ」
「最終的に答えが合ってるのが不思議だけど」
「……お前、分かんないんじゃなかったのかよ」
「そうだっけ」
肩を竦めてとぼける様子に、またからかわれたんだと気づいた。こいつ、俺を試したな……!
「なんだよ、せっかく教えてやろうと思ったのに!」
「あはは、気持ちだけ受け取っておくよ。特に困ってないしね」
頭良い自慢かよ、ムカつく。がんばって損した。
「いい復習になったんじゃない?」
「お前が言うな」
こいつの相手をしていても時間がもったいない。自分の勉強に集中しよう。
俺が英単語帳を開くと、和泉は思ったより邪魔をしてこないで自分のワークに取りかかっていた。横目で盗み見た手元は全く悩まずにさらさらと問題を解き続けている。やっぱり俺の助けなんかいらなかったんじゃないか。
しばらく勉強を進め、疲れを感じ始めた頃にペンを置いて大きく伸びをした。
「あー……疲れた……」
「油井先輩、終わりにする?」
「そうだな」
気づけば一時間ほど経っていた。あまり長居するのも迷惑だ、そろそろ出ないと。
ファミレスでは周りの物音や話し声で集中できないんじゃないかと思っていたが、適度な環境音のおかげで寧ろいつもより捗った。たまにはこういうのもありだ。
「じゃあさ、帰る前にこれだけやらない?」
そう言いながら、和泉はメニュー立てからキッズメニューを手に取った。裏面にカラフルな間違い探しが載っている。
「子ども向けだろ」
「いやいや、これが意外と難しいんだよ。どっちが多く見つけられるか競争しよ」
「お前さぁ、俺のこと馬鹿にするのもいい加減に……」
「はい、スタート」
やるとは言っていないのに勝手に始められた。
まあでも、子ども向けの間違い探しをやりたがるなんて、こいつもちょっとは可愛げがあるんだな。仕方ない、ここは年上らしく付き合ってやるか。
間違い探しには、デフォルメされたキャラクターがレストランで食事をしているシーンが描かれていた。こんなの余裕だろ、と思いながら左右のイラストを見比べてみる。
……あれ、ないな。おかしいな。
「あ、一個見つけた」
「えっ、どこだよ」
「これこれ」
和泉が示したのは、キャラクターの背景に積み重ねられた皿の部分だった。よく見ると右のイラストは一枚少ない。難しすぎるだろ!
「こんなん子どもには無理だろ……」
「だから言ったでしょ。ほら、先輩もがんばって。俺は二個目も見つけたから」
「待てよ、早い!」
負けじと睨むようにイラストを凝視する。これは……印刷の擦れか。これも違う、ここにもない……。
「あっ、あった!」
やっと見つけた! 指差しながら顔を上げると、和泉は手で口元を押さえて噴き出した。
「……何で笑った?」
「ふふっ……だって油井先輩、めちゃくちゃ真剣だし、めちゃくちゃ嬉しそうだし」
「わ、悪いかよ」
確かにちょっとムキになってしまった。笑われると恥ずかしくなり、頬の熱を感じる。
「悪くないよ。かわいーじゃん」
「それ褒めてないだろ」
男が男にかわいいと言われても全く嬉しくない。ていうかおちょくられているだけにしか思えない。
最終的に、十個ある間違いのうち、それぞれが五個ずつ見つけた。引き分けだ。
「あーあ、俺が勝ったら奢ってもらおうと思ったのに」
「個別会計って言っただろ」
残念そうな口振りだったが、和泉は俺を見ながらにやにやと笑っていた。なんなんだ、その笑みは。
和泉も電車通学をしているらしく、駅まで二人で歩いた。ホームには発車前の急行電車が停まっていた。
「あれ、乗らないの?」
「俺んち各駅停車しか停まらないんだよ」
この路線には急行電車と各駅停車の二種類がある。
俺の最寄りはここから二つ目、住宅街の中にある小さな駅で、急行電車は通過してしまう。たまに乗り間違えそうになったり、待ち時間が発生したりするのが難点だ。
「俺は電車待つから、和泉は先に帰れよ」
「あー……実は俺も各駅停車なんだよね」
「え……そうなんだ……」
ということは電車まで一緒かよ。げんなりする。
ホームのベンチに腰を下ろすと、和泉は自販機で飲み物を買ってから俺の隣に腰かけた。
「油井先輩、今日はありがとね。これ、お礼」
言いながら、和泉はスポーツドリンクのペットボトルを差し出してきた。
「変な気遣うなよ、お前らしくない。俺何もしてないし」
「いいから受け取ってよ。この前先輩の飲み物盗っちゃったしね」
「……じゃあ、ありがとう」
礼儀知らずなんだか義理堅いんだか、よく分からない奴だ。でもこういうところがあるからこそ、こいつのことを心の底からは憎みきれないんだと思う。
受け取ったペットボトルの蓋を開け、一口飲む。
「次は友達と勉強しろよ」
「えー、また一緒にやろうよ」
「もういいって……」
俺が役に立たないことはもう分かっただろ。和泉はしょっちゅう人に囲まれているんだから、他にもっと適役がいるはずだ。
「お前、何で俺に絡むんだよ」
「だって、油井先輩面白いんだもん」
「はあ? どこが?」
「俺の言うことにいちいち反応するところ」
やっぱり馬鹿にしてるだけかよ。眉間に皺を寄せると、和泉は長い脚を組んだ。
「油井先輩っていつも本気っていうか、全力っていうか……がんばりすぎじゃない?」
「がんばるのは普通のことだろ」
俺には特別な才能も秀でた能力もない。だからこそ人並みに努力をすることは当然だ。まあ、熱くなりすぎたり、そのせいで周りが見えなくなったりすることもあるんだけど。
和泉の視線は俺から外れ、どこか遠くを眺めるように目が細められた。
「でもさ、がんばるのって疲れない?」
「程度によるだろ」
「ふーん……」
和泉は一旦口を閉じ、俯きがちに続けて言った。
「俺、何かに本気になったことないんだよね」
「……? どういう意味だよ」
「そのまんまの意味。俺って生まれつき器用でさ、勉強もスポーツも、がんばらなくてもそれなりにできちゃうんだよ」
「嫌味か?」
「違うよ、何やってもつまんないなーって思ってた。だから油井先輩みたいな人は新鮮なんだ」
和泉の茶色い髪に、傾きかけた夕陽が透ける。ぽつりぽつりと話す表情は逆光で見えなかった。
「あ、もうすぐ電車来るみたいだよ」
電車の到着を告げるアナウンスが流れ、和泉は立ち上がった。俺も後に続く。
各駅停車に乗り込み、ドア横に立った。和泉は何か考え込んでいるような顔で窓の外を眺めていた。いつもとは違った様子に声をかけていいのか分からない。
珍しく嫌味もからかいもないまま、俺は二つ目の駅で電車を降りた。
「じゃーね、油井先輩」
「……ん」
閉まるドアの向こう側で、和泉は小さく手を振った。俺も軽く手を挙げて応える。電車が動いて和泉の姿が見えなくなるまで、何となくその場で見送った。
そういえば、あいつも各駅停車の駅らしいけど、今までに電車内で会ったことはない。最寄り駅、どこなんだろう。
……なんてことを思った矢先に、朝の電車で和泉に出くわしてしまった。
「油井先輩、おはよー」
満員電車の中でもよく目立つ和泉は、ひらひらと手を振りながら笑顔を向けてきた。近くにいる女子高生が見惚れている。くれぐれも顔の良さに騙されないでほしい。
「お前、もしかして乗る時間変えた?」
「うん、今日は一本遅いんだよ。でも先輩に会えたからラッキー」
俺にとってはアンラッキーである。
空いていた吊り革に掴まると、和泉はわざわざ俺の隣に移動してきた。
「俺、吊り革苦手なんだよね。頭ぶつかるから」
「自虐風自慢やめろ」
確かに吊り革の高さと顔の位置がほぼ同じだ。俺には無縁の悩みだろう。
和泉はこちらを見下ろし、突然俺の頭頂部を指でぐりぐりと押した。
「油井先輩、つむじの形きれいだね」
「やめろ、嬉しくねえよ!」
またもや背が高い自慢か? 手を振り払うと和泉は声を上げて笑った。
「先輩ってほんと、面白い」
「……」
何をやってもつまらないと話していたことを不意に思い出し、何とも言えない気持ちになった。この「面白い」はどういう意図なんだ。
「明日も一緒に行こうね」
「俺は一人で行きたいんだけど」
「まあまあ、減るもんじゃないし」
俺の一人時間は確実に減ってるけどな。
結局、電車を降りてからも二人で歩く羽目になった。もうすぐ正門に着くというところで、一人の女子が和泉に声をかけた。
「和泉くん、教室行こ」
どうやら和泉の同級生らしい。彼女の視線がちらちらと向けられ、俺は空気を読んだ。
「じゃーな。俺明日は車両変えるから」
「えー、ひどいなぁ」
不満げな声を上げる和泉に背を向け、自分の教室へ足を運ぶ。
そうだ、あいつ彼女でも作ればいいのにな。そうすれば俺に絡む必要もなくなるだろうし、毎日もっと楽しく過ごせそうなのに。
そんな出来事があった数日後のことだった。
「和泉くんが好きです。私と付き合ってください」
昼休み、自販機コーナーに行こうとしたら、廊下の柱の陰から聞こえた声。思わず足を止め、息を潜める。
和泉くんって……あの和泉だよな。
あんなに軽薄な奴でも、あのルックスならさぞかしモテるだろうとは思っていた。けれど告白シーンに鉢合わせするとは……偶然とはいえ人の秘密を覗いているようで、勝手に気まずくなってしまう。
ここを通らないと自販機までたどり着けないけど、やっぱり盗み聞きはやめた方がいいよな。一日くらい飲み物がなくても問題ない。それに、あいつに彼女ができれば俺にもやっと平穏が訪れるはずだ。
もと来た道を戻ろうとしたら、「ありがとー」と間延びした声が聞こえた。和泉の声だ。
「でも俺、今はフリーでいたいんだよね。誰かと付き合っても飽きちゃいそうだし」
……は? なんだその言い草は。
女子が言葉を返す前に、和泉は半笑いで続ける。
「だからさ、もっといい人いるんじゃない?」
「……そ、そっか。そうだよね……」
しばらくの沈黙の後、ごめんね、と呟く震えた声と、ぱたぱたと走り去る音が聞こえた。
俺は無意識のうちに拳を握っていた。
「……おい、和泉」
柱の陰から姿を見せると、和泉の目が丸くなった。
「あれ、油井先輩。もしかして聞いてた? 趣味わるーい」
「お前いい加減にしろよ。なんなんだよ、さっきの言い方は」
「え……なにが?」
和泉は不思議そうに首を傾げた。悪気はないってことか。なおのこと悪質だ。
「あんなに適当に断ったら失礼だろ」
「……油井先輩には関係ないじゃん。まさかあの子のこと好きだったとか?」
「そうじゃねえよ、お前の態度が許せないだけだ」
怒鳴りつけたくなったが、たぶんそれでは伝わらない。努めて冷静に、和泉をまっすぐに見据えながら口を開く。
「あの子は真剣だっただろ。お前は軽く考えてるんだろうけど、言われた方はずっと覚えてるんだぞ」
「……」
「自分の言葉にはちゃんと責任持てよ」
「……」
和泉は俺をじっと見つめ返している。その口が何かを紡ごうとして、しかし何も言わずにまた閉じた。
「そっ、それだけだから。じゃーな」
説教くさいことを言いすぎたかもしれない。途端に恥ずかしくなり、俺は早足で教室に戻った。和泉は呼び止めも追いかけもしてこなかったけれど、背中に注がれる視線は角を曲がるまで感じられた。
「おはよ、油井先輩」
「お、おう」
翌朝。また電車で和泉に鉢合わせした。昨日の今日で気まずくなり、つい目を逸らす。和泉はいつも通り、ひらひらと手を振りながら俺に近づいてきた。
「油井先輩、昨日はごめんね」
「俺は別に……ていうか謝る相手違うだろ」
「あの子にもちゃんと謝ったよ。俺って結構無神経だったみたい」
やっと気づいたのかよ。今までよく怒られてこなかったものだ。顔の良さと人懐っこさで許されていたのかもしれない。
「ねえ先輩、俺がまた変なこと言ってたら止めてくれる?」
「お前な……まず変なことを言うなよ」
「あは、確かに」
和泉はどこか嬉しそうな笑みを浮かべている。こいつ、本当に分かってるのか? でも少しは意識が変わったみたいだ。
次の駅が近づいて電車が減速した時、いきなり頭をぽんぽんと撫でられた。驚いて身体を仰け反らせる。
「な、なんだよ」
「なんだろうね」
意味が分からん。奇行も程々にしてほしい。
それからというもの、毎朝電車で和泉に会うのが当たり前になった。
「油井先輩、おはよー。今日も会えたね」
「またかよ」
こんなやり取りが朝の定番だ。
「ねー先輩、昨日の配信見た?」
「途中までな」
「もったいないなー、最後が面白かったのに」
「しょうがないだろ、受験生は忙しいんだよ」
「あ、じゃあこの動画知ってる? 作業用BGMにちょうどいいんだって。これなら油井先輩でも勉強に集中できるかも」
「俺『でも』ってなんだよ」
和泉は相変わらず俺のことをからかったり弄ったりするけれど、それ以外の雑談も増えた。
電車を降りた流れで正門まで一緒に行くようになり、いつの間にか同じペースで歩くようにもなっていた。
最初はただムカつく奴だと思っていたけれど、最近はそうでもない。
もし本気で会いたくなければ車両を変えたり時間をずらしたりすればいい。でもそうしなかったのは、俺もあいつと過ごす時間が嫌ではなくなっていたからだと思う。



