イーシュファルトは巨大な岩塊――浮遊大陸の上に建てられた王国だ。
巨大も巨大。なにせ直径十キロもある。
その中央に王族が住まうイーシュファルト城があり、それをぐるりと囲むような形で城下町が形成されている。
浮遊大陸自体はなんてことのない土地だが、地下深くに埋め込まれた巨大浮遊石と、それに施された術式によって大陸が丸ごと浮いているという寸法だ。
これら全てが、国の始祖・シルヴェリオ=イーシュファルトと契約した悪魔王ヴァル=アールの絶大な力によるものだ。
もちろん、国としての規模はこれだけではなく、浮遊大陸の真下にあるアルジェントの町を始め、更なる広大な土地が領土となっているが、今やレオンハルトの施した忘却魔法によって、地上の人たちは自分たちがイーシュファルトの民だったことさえ覚えていないらしい。
アルに勧められたとおり城下町を歩いて観察したが、五百年という年月は伊達ではなかったようで、建物という建物全てが倒壊し、あるいは廃墟と化していた。
当然のことながら、町には人っ子一人いなかった。
昨日と同じ格好――裸足にネグリジェ姿のわたしは、途方に暮れて、水の枯れた噴水の縁に座り込んだ。
そこに白いトーガを着たイケメン形態の悪魔王ヴァル=アール――アルが現れる。
手を貸そうとばかりに、アルがわたしに向かって右手を差し伸べた。
仕方なくその右手を取ろうとして、手がスカっとすり抜ける。
「あぁ、ごめんごめん。実体じゃなく思念体モードなんだった。ずっとこの姿でいたからすっかり忘れていたよ」
「……わざとじゃなきゃいいわよ」
「ふむ。だいぶ参っているようだね、エリン」
わたしは噴水に腰かけたまま、ため息をついた。
「そりゃあね。どうしたらいいんだか途方に暮れちゃってるわよ」
「ボクにできることはあるかい?」
「そうね。生き返れる生き返れないに関わらず、国中の人たちの石化を解いてあげてほしいかな。駄目だったとしても、ちゃんと埋葬してあげたいもの」
アルがうなずく。
「分かった。で、対価はどうする?」
「はぁ!?」
わたしは立ちあがると、至近距離からアルの顔を覗き込んだ。
何がおかしいのか、アルはその顔に薄っすらと微笑を浮かべている。
瞬間的に怒りが湧いたわたしは、アルの首元を掴んで揺すぶった。
「あんたそれ、本気で言っているの? 国の守護者が国民の石化を解くのに対価を必要とするですって?」
アルが苦笑いを浮かべながら答える。
「思念体につかみかかるなんて普通できることじゃないんだけど。凄いな、エリン。……まぁいいや。昨日言ったろ? ボクが初代国王・シルヴェリオと結んだ契約は国土と王統の維持だ。国民を集め従わせるのは王の役割であってボクの仕事ではない。つまり、国民を生き返らせるのはキミの問題であってボクの問題ではない。オーケー?」
「ならわたしが自分でやるわよ!! あんたなんかに頼ったわたしが馬鹿だったわ!!」
威勢よく啖呵を切ったわたしは、ちょうど落ちていた枝を拾うと、傍にあった巨大石に向かって魔法を唱えた。
「グラビタス インテルヴァリ(重力遮断)!」
だが、石はピクリとも動かない。
魔力は正常に放出されている。これで動かないわけがない。
アルがそんなわたしの様子をしげしげと眺めている。
「何で! どうして!!」
「理由は簡単。レオンハルトの施した魔法は人間をただ石にするだけの魔法じゃないから」
「どういうこと!?」
体内の魔法器官を全開で動かす。
これで動かなければ、わたしにはどうすることもできない。
全身から汗を拭き出しながら、わたしはアルを見た。
「おいおい、蒼天のグリモワールに載っている魔法だよ? 普通の魔法のわけないじゃないか。世の中には数多の石化の魔法があるけれど、これは見せしめの魔法なんだ。逆らった相手を永遠に晒し続けることが目的の、墓標化の魔法なんだ。だから重量がトン越えになってる。魔法を使ったって、人間が動かせるレベルを越えているよ。仮に動かせたとして、ボクにしか解除できないけどね」
「そんな! そんなことって!!」
わたしは力尽き、その場に崩れ落ちた。
魔法を通じて感じたのだ。
レオンハルトがイーシュファルトに施した魔法は、圧倒的な憎しみに満ちていた。
自分が王になる道を閉ざした国に対して、存在することすら許さないという、全否定の感情が込められた魔法だった。
「レオンハルト……!!」
わたしは地面に座り込んだまま、怒りと悔しさに、両の拳を地面に叩きつけた。
王国イチの美少女と言われ、あがめられたところで、自分を慕う民を救うことすらできないのだ。なんて弱いのか、わたしは!
アルは、そんなわたしの前にひざまずくと、薄っすらと微笑みながら言った。
「エリン……。ボクと契約するかい?」
「……何ですって!?」
ほんの三十センチの距離で笑うアルのイケメン顔を見たわたしの心に、怒りがこみ上げる。
悪魔の契約だ。さすが悪魔だわ。精神が弱ったわたしに契約を持ちかけるその卑劣さ。
「何のつもり? アル!」
「何のつもりも何も、ボクと契約すればその程度のこと、ちょちょいのちょいだよ。何せボクは悪魔王だからね。絶大な力を手に入れられるよ? ……まぁでも実際問題、写本に対抗するにはそれしかないと思うけどね。……どう?」
アルが再びわたしに問いかける。
怒りが最高潮に達したわたしは、アルの涼やかな笑顔に向かって吐き捨てた。
「答えはNOよ。舐めるな、悪魔王!!」
わたしは無人の街中で、悪魔王ヴァル=アールを全身全霊の怒りを込めて睨みつけたのだった。
◇◆◇◆◇
その夜。わたしは約五百年ぶりに自室に入った。
感覚的には昨日ぶりなんだけどね。
足の裏が泥で汚れているが、身体はそれなりにさっぱりしていた。
もちろん、城内の水道は壊れて出ない。
そもそもが浮遊大陸はただの岩盤なので、街の維持に必要な水は地上のアルジェント湖から吸い上げている。
そこのシステムが壊れているのだから、もうどうしようもない。
ところが、驚いたことに庭園の噴水だけは出た。
おそらくは、ここの庭園を気に入ってるアルが、これだけは動くようにしていたんでしょ。
悪魔の考えることとなんてよく分からないけど、魔法で温かくして、ありがたく露天風呂として活用させてもらったわ。
伝説の王国の姫が噴水を露天風呂にするだなんて、前代未聞だけどね。
自室に入ってみると、これが実にひどかった。
全体的に埃っぽいし、色あせたカーテンは触っただけでほぐれて床に落ち、絨毯は歩いた足のかたちに毛が抜け、ベッドは手を置いただけで台ごと粉々になった。
あれだけ豪華だったわたしの部屋は、五百年という圧倒的な年月によって、見る影もなくボロボロになっていた。
仕方なく、わたしは部屋備えつけの、水の出ない大理石の風呂で縮こまって寝た。
これだけはさすがに崩れていなかったからだ。
もちろん、布団なんてないから寝心地は最悪だが、贅沢は言っていられない。
雨風を直接浴びないだけマシだ。
そうしてわたしは、硬い寝床の感覚に不満を垂らしながらも、海老のように丸くなって寝たのであった。
巨大も巨大。なにせ直径十キロもある。
その中央に王族が住まうイーシュファルト城があり、それをぐるりと囲むような形で城下町が形成されている。
浮遊大陸自体はなんてことのない土地だが、地下深くに埋め込まれた巨大浮遊石と、それに施された術式によって大陸が丸ごと浮いているという寸法だ。
これら全てが、国の始祖・シルヴェリオ=イーシュファルトと契約した悪魔王ヴァル=アールの絶大な力によるものだ。
もちろん、国としての規模はこれだけではなく、浮遊大陸の真下にあるアルジェントの町を始め、更なる広大な土地が領土となっているが、今やレオンハルトの施した忘却魔法によって、地上の人たちは自分たちがイーシュファルトの民だったことさえ覚えていないらしい。
アルに勧められたとおり城下町を歩いて観察したが、五百年という年月は伊達ではなかったようで、建物という建物全てが倒壊し、あるいは廃墟と化していた。
当然のことながら、町には人っ子一人いなかった。
昨日と同じ格好――裸足にネグリジェ姿のわたしは、途方に暮れて、水の枯れた噴水の縁に座り込んだ。
そこに白いトーガを着たイケメン形態の悪魔王ヴァル=アール――アルが現れる。
手を貸そうとばかりに、アルがわたしに向かって右手を差し伸べた。
仕方なくその右手を取ろうとして、手がスカっとすり抜ける。
「あぁ、ごめんごめん。実体じゃなく思念体モードなんだった。ずっとこの姿でいたからすっかり忘れていたよ」
「……わざとじゃなきゃいいわよ」
「ふむ。だいぶ参っているようだね、エリン」
わたしは噴水に腰かけたまま、ため息をついた。
「そりゃあね。どうしたらいいんだか途方に暮れちゃってるわよ」
「ボクにできることはあるかい?」
「そうね。生き返れる生き返れないに関わらず、国中の人たちの石化を解いてあげてほしいかな。駄目だったとしても、ちゃんと埋葬してあげたいもの」
アルがうなずく。
「分かった。で、対価はどうする?」
「はぁ!?」
わたしは立ちあがると、至近距離からアルの顔を覗き込んだ。
何がおかしいのか、アルはその顔に薄っすらと微笑を浮かべている。
瞬間的に怒りが湧いたわたしは、アルの首元を掴んで揺すぶった。
「あんたそれ、本気で言っているの? 国の守護者が国民の石化を解くのに対価を必要とするですって?」
アルが苦笑いを浮かべながら答える。
「思念体につかみかかるなんて普通できることじゃないんだけど。凄いな、エリン。……まぁいいや。昨日言ったろ? ボクが初代国王・シルヴェリオと結んだ契約は国土と王統の維持だ。国民を集め従わせるのは王の役割であってボクの仕事ではない。つまり、国民を生き返らせるのはキミの問題であってボクの問題ではない。オーケー?」
「ならわたしが自分でやるわよ!! あんたなんかに頼ったわたしが馬鹿だったわ!!」
威勢よく啖呵を切ったわたしは、ちょうど落ちていた枝を拾うと、傍にあった巨大石に向かって魔法を唱えた。
「グラビタス インテルヴァリ(重力遮断)!」
だが、石はピクリとも動かない。
魔力は正常に放出されている。これで動かないわけがない。
アルがそんなわたしの様子をしげしげと眺めている。
「何で! どうして!!」
「理由は簡単。レオンハルトの施した魔法は人間をただ石にするだけの魔法じゃないから」
「どういうこと!?」
体内の魔法器官を全開で動かす。
これで動かなければ、わたしにはどうすることもできない。
全身から汗を拭き出しながら、わたしはアルを見た。
「おいおい、蒼天のグリモワールに載っている魔法だよ? 普通の魔法のわけないじゃないか。世の中には数多の石化の魔法があるけれど、これは見せしめの魔法なんだ。逆らった相手を永遠に晒し続けることが目的の、墓標化の魔法なんだ。だから重量がトン越えになってる。魔法を使ったって、人間が動かせるレベルを越えているよ。仮に動かせたとして、ボクにしか解除できないけどね」
「そんな! そんなことって!!」
わたしは力尽き、その場に崩れ落ちた。
魔法を通じて感じたのだ。
レオンハルトがイーシュファルトに施した魔法は、圧倒的な憎しみに満ちていた。
自分が王になる道を閉ざした国に対して、存在することすら許さないという、全否定の感情が込められた魔法だった。
「レオンハルト……!!」
わたしは地面に座り込んだまま、怒りと悔しさに、両の拳を地面に叩きつけた。
王国イチの美少女と言われ、あがめられたところで、自分を慕う民を救うことすらできないのだ。なんて弱いのか、わたしは!
アルは、そんなわたしの前にひざまずくと、薄っすらと微笑みながら言った。
「エリン……。ボクと契約するかい?」
「……何ですって!?」
ほんの三十センチの距離で笑うアルのイケメン顔を見たわたしの心に、怒りがこみ上げる。
悪魔の契約だ。さすが悪魔だわ。精神が弱ったわたしに契約を持ちかけるその卑劣さ。
「何のつもり? アル!」
「何のつもりも何も、ボクと契約すればその程度のこと、ちょちょいのちょいだよ。何せボクは悪魔王だからね。絶大な力を手に入れられるよ? ……まぁでも実際問題、写本に対抗するにはそれしかないと思うけどね。……どう?」
アルが再びわたしに問いかける。
怒りが最高潮に達したわたしは、アルの涼やかな笑顔に向かって吐き捨てた。
「答えはNOよ。舐めるな、悪魔王!!」
わたしは無人の街中で、悪魔王ヴァル=アールを全身全霊の怒りを込めて睨みつけたのだった。
◇◆◇◆◇
その夜。わたしは約五百年ぶりに自室に入った。
感覚的には昨日ぶりなんだけどね。
足の裏が泥で汚れているが、身体はそれなりにさっぱりしていた。
もちろん、城内の水道は壊れて出ない。
そもそもが浮遊大陸はただの岩盤なので、街の維持に必要な水は地上のアルジェント湖から吸い上げている。
そこのシステムが壊れているのだから、もうどうしようもない。
ところが、驚いたことに庭園の噴水だけは出た。
おそらくは、ここの庭園を気に入ってるアルが、これだけは動くようにしていたんでしょ。
悪魔の考えることとなんてよく分からないけど、魔法で温かくして、ありがたく露天風呂として活用させてもらったわ。
伝説の王国の姫が噴水を露天風呂にするだなんて、前代未聞だけどね。
自室に入ってみると、これが実にひどかった。
全体的に埃っぽいし、色あせたカーテンは触っただけでほぐれて床に落ち、絨毯は歩いた足のかたちに毛が抜け、ベッドは手を置いただけで台ごと粉々になった。
あれだけ豪華だったわたしの部屋は、五百年という圧倒的な年月によって、見る影もなくボロボロになっていた。
仕方なく、わたしは部屋備えつけの、水の出ない大理石の風呂で縮こまって寝た。
これだけはさすがに崩れていなかったからだ。
もちろん、布団なんてないから寝心地は最悪だが、贅沢は言っていられない。
雨風を直接浴びないだけマシだ。
そうしてわたしは、硬い寝床の感覚に不満を垂らしながらも、海老のように丸くなって寝たのであった。

