蒼天のグリモワール 〜最強のプリンセス・エリン〜

 真昼間だというのに部屋が暗い。
 カーテンを閉めているのだろうか。
  
 不安を感じながら部屋に入ったわたしを、濃い酒の香りが包み込んだ。
 思わずしかめ(つら)になる。
 だが、これだけ酒の臭いがするにも関わらず、部屋に酒瓶(さかびん)(たぐい)が転がっていない。
 例の老メイドが片づけたのだろうか。
 数歩進んで、わたしはあまりの光景にその場に立ちすくんだ。

「嘘でしょ……」

 その人物は、豪奢(ごうしゃ)なレッドベルベットのソファにふんぞり返っていた。
 見た目は三十路(みそじ)、体重は二百キロ強といったところで、なんと上半身裸で真っ白な大人用オムツを履き、首にはアヒル柄の小さなスタイをかけていた。
 頭にはしっかり、ふりふりレースの乳児用帽子(ボンネット)をかぶっている。
 完全に赤ちゃんの格好だ。

 さらに信じられないことに、右手に持った哺乳(ほにゅう)びんから酒の臭いがしている。
 酒は哺乳びんの中に入れていたのだ。
 かろうじて口を開いたわたしは、嫌悪感を必死におさえつつ尋ねた。

「あなたが……ドミトリさん?」
「いかにも、僕がドミトリ=ドーファン。栄誉あるドミトリ家の長男だ。そんなところにつっ立ってないでもっと近くに寄れ、さ、早く」

 勇気を出して数歩進む。
 さっきまでいたはずのアルの気配がない。
 嘘でしょ? 一人でこの怪物を相手にしろと?

「おぉぉぉぉ、なんと美しい! ここまで美しい女はそうはいまい。うんうん、いいぞいいぞ。なんなら倍額払ってやってもいい。ではプレイを再開しようじゃないか、ママ!」
「ま、ママ!? プレイ? って何を?」
「赤ちゃんプレイに決まっているじゃないか。店から聞いていないのか? 五人もママを呼んだのに皆この段になると逃げやがった。高い金を払っているというのに! お前は付き合ってくれるんだよな? 替えのオムツはそこに置いてあるから。じゃ、さっそく力むぞ?」

 り、力む?

 ドミトリがさっさと、テーブルに置いてあった赤ちゃん用乳首を口に含むと、ソファにゴロンと横になった。
 それを見たわたしの肌が、一瞬で総毛立つ。

 嘘でしょ? こいつ、そんな特殊な趣味を持っていたっていうの? しかもそれにつきあえと? お姉さんがたとの交渉が成立しなかったわけだわ。
 ドミトリの顔が力みで真っ赤になる。

「うーん」
「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああ!!!!」

 恐怖のあまり絶叫したわたしの目が、ふと部屋の隅に置いてある書棚をとらえた。 
 医学書や天文学、経営学、美術書に魔術書と、貴重な書籍が綺麗に並べられている。
 趣味が多岐(たき)に渡っているが、全て高等な専門書だ。
 一瞬で我にかえると、慌てて近寄った。

「リングレイの超高等魔術の書ですって!? こっちはアーサークラインの魔法次元理論。全て本物だわ。なんでこんなものがここに……」
「おまえ、リングレイやアーサークラインを知っているのか? 最近の娼婦は学があるんだな。実に面白い」

 わたしの反応で素に戻ったドミトリが、赤ちゃんの格好のまま隣に立つと、慣れた様子で蔵書(ぞうしょ)を漁り始めた。
 なんてシュールな……。

「お前の専門は魔法か? ならこれなんかどうだ? サウダーバダンの超次元魔法大系だ。名前くらいは聞いたことがあるだろう? えっと……ほらこの辺り、『次元転移術の考察の章』なんかはかなり読み応えがあるぞ。おすすめだ」

 いかにも古書といった感じの真っ黒な装丁(そうてい)の本をパラパラっとめくったドミトリが、言ったとおりのページを開いてわたしに差し出した。
 その様子は、ちゃんと書を読み込んだ者の動きだ。
 試しに数ページ繰ってみたが、失われた故国・イーシュファルトの王立図書館で読んだものそのままだ。

「これ、本物だわ……。あなた、これ、理解できているの?」
「何を当たり前なことを。本は飾るためにあるんじゃない。学ぶためにあるんだ。でも残念ながら、学んだから使えるというわけではないというのもまた事実だ。理論体系こそ理解できたが、僕には実践(じっせん)はできなかった。魔法の才能がなかったんだろう」

 ドミトリは部屋の反対側にある大きなワードローブを開くと、わたしのことを全く気にせず、その場で赤ちゃん装備を脱ぎ捨てた。
 一瞬慌てたが、取り出した服を見た感じだと、どうやらスーツに着替えるらしい。

「どうだ? 面白かろう?」

 さっきまで暗かった部屋がいきなり明るくなった。
 さっさと着替え終わったドミトリが、部屋のカーテンを開けたのだ。
 肥満体型ではあるが仕立ての良い上品なスーツがよく似合っていて、先ほどまでの赤ちゃんと同一人物とはとても思えないくらい理知的に見える。

「お前、名前は?」
「エリン。エリン=イーシュファルト」
「さっきその本を、本物だと言ったよな。ということは、少なくともお前はその本を読んだことがあるということだ。だがその本は世界でせいぜい百冊もないとんでもなく貴重な本で、読むどころか見ることさえ普通は困難だ」
「……そうね」

 顎に右手を当て、一瞬考え込むようなポーズをとったドミトリは、やがてゆっくりと話を続けた。
 
「僕は昔、世界の王国について書かれた本を読んだことがあるんだが、かつて西の方にとても進んだ文明を持った超大国があったらしい。天空に浮かぶ王国・イーシュファルト。遙か五百年の昔、一夜にして消え失せたこの伝説の王国には、とんでもなく美しい姫がいたという。名前は確か……エリン。……偶然かな?」
「まさか同一人物だとでも? 五百年も前の人物なのに? それはちょっと、妄想が過ぎるんじゃない?」

 ドミトリがスーツの胸ポケットから取り出した丸メガネをかけた。
 メガネのレンズ越しに探るような視線が飛んでくる。

「僕は完全に否定される材料が出るまでは、全ての可能性を否定しない。どんな荒唐無稽(こうとうむけい)な話にしてもだ。それにお前、格好こそ娼婦だが、目に人並み外れた知性が感じられる。目的はなんだ? 僕は父に(うと)まれているから、僕を誘拐して身代金を取ろうとしているのなら無駄だぞ」
「驚いたわ。さっきまでの赤ちゃんとまるで別人だわ。どちらが本物のあなたかしら」
 
 さっきまでの真面目な表情が一転し、ドミトリはブっとふき出した。
 よほどツボにハマったのか、笑いすぎてゲホゲホ咳までしている。
 
「いやいや、いつもいつもあの格好だと思われちゃ困る。普段の僕はドーファン海運の副社長だ。今日は休みなんだよ。久々の休日を趣味に費やすくらいいいだろう?」
「ずいぶんと特殊な趣味をお持ちだこと」
「まぁそれは同意する。なかなか理解してもらえないがしかたない。あぁ、ちなみに古美術商から買った古書はここにはないよ」 

 渡された本――サウダーバダンの超次元魔法大系――を読むフリをしながら目的の本がないかさりげなくチェックしていたわたしの動きが止まる。
 なぜバレた!?

 持っていた本を本棚に戻したわたしは、ポーカーフェイスを装いながらドミトリの方に振り返った。

「……古書? なぜわたしがそんなものを欲しがっていると思ったの?」
「実に単純な推理さ。君が胸元に下げているそのペンダントは古代神を(まつ)ったもので、まさに先日来た古美術商の身につけていたものだ。そんな特殊なものが二個もあるとは思えない。ならば君のそれは、古美術商から買ったか貰ったか奪ったかしたものだ。そんな人物が娼婦のフリをしてまで今ここに来る理由は? 当然、あの古美術商がらみに決まっている」

 完全に見透かされている。
 赤ちゃんプレイする人と同じ人とは思えないほど頭がいい。
 これをだまし切るのは至難(しなん)(わざ)ね。しょうがない、正直に言って協力をあおぐか……。

「あなた、見た目のわりに頭が切れるのね。正解。わたしはロジエさんがこの屋敷に売った本を探しているの。一般人が管理するには危険な本が混ざっているのよ。それと、このペンダントはちゃんと当人から了承を得て借りたものよ? 奪ってはいないわ」
「あの中に危険な本が? ……ふむ。いいだろう。ついてきたまえ」
「信じてくれるの?」
「伝説のエリン姫は並外れた美少女でありながら、とても聡明だったと書かれていた。そんな伝説の姫が五百年を経て蘇ったのだとしたら……。実に面白いじゃないか。もっとも、ただの(かた)りの可能性も捨ててはいないがね。さ、行こう!」

 スーツ姿のドミトリは、意外とヤンチャそうな顔でニヤっと笑った。