何かがおかしい。お喋りが好きなアンリが今日はずっと静かにしている。今朝、学園に向かう馬車の中では今朝食べたナゲットがおいしかったと幸せそうな表情を見せていたというのに。
帰りの馬車の中やダンスの練習をしている時でさえ、自ら声を発することが無ければ、声を掛けても「うん」「そうだね」と端的に答えるだけだ。
今日、アンリはフレッドよりも早く授業が終わる日だった。そんな日はいつも決まってアンリは別館にいる。それにもかかわらずフレッドが今日最後の授業を終え、教室を出るとアンリは一人、廊下でフレッドを待っていた。そんなアンリにクラブに行かなくても良いのかと聞いてみても「今日はもういいや、帰ろう」と微笑みを浮かべることもせずに淡々と答えるだけだった。
あんなにもあの空間を大切にしているアンリが別館に赴こうとしないなんて、何かあったに違いない。そう思いつつも、アンリが自ら心の内を話してくれる気配はない。
フレッドは爵位を継ぎ学園に通い始めても、アンリのために出来る事は今まで通り続けている。と言っても元から大した事はしていなかったし、今では紅茶を淹れたり、朝に部屋まで迎えに行ったり、夜は寝るギリギリまでアンリの部屋で会話をし「おやすみ」と眠気に包まれたアンリに声を掛けるくらいだ。
そして何も聞けないまま夕食や入浴を済ませ、いつも通りアンリの部屋の一人用の肘掛け椅子に向かい合って座っている。
「…ねぇ、お水持ってきてくれない?」
「うん、分かった。すぐ戻るね」
水が欲しいと言われ、足早に給湯室まで向かう。給湯室で透明のグラスに水を注ぎ、アンリの部屋に戻ると、アンリの瞳から一筋の雫が静かにこぼれ落ちる。本人は気がついていないのか、ボーッと壁紙を見つめたままだ。
「アンリ…?」
「…」
アンリの名を呼んでも、自分の世界に入り込んでいるのかフレッドの存在に気がついていない。ゆっくりとアンリの元に近づき、ローテーブルの上に持っていたグラスを置くと、アンリと視線を合わせるように膝を折り、再びアンリの名を呼ぶ。
「アンリ、大丈夫?」
「…フレッド?いつ戻ってきたの?」
「今だけど…。それより、大丈夫なの?」
「何が?」
「目元、触ってみて」
アンリは言われるまま素直に白くて細い腕をゆっくりと動かすと、指先が目元に触れる。するとようやく涙が流れていた事に気がついたようで、目を見張った後、弱々しく笑う。
「あはは…、疲れちゃったのかな」
「何があったの?」
「ううん、何も無いよ」
そう答えるアンリの口元は微かに震えている。明らかな嘘。本当にアンリは嘘をつくのが下手だ。
「アンリが何かを悩んでいるのなら、僕はアンリの話を聞きたい。話を聞いて僕が解決出来るかは分からないけど、一緒に悩む事は出来るよ。…って、これ前にアンリが僕に言ってくれた言葉だよ」
「でも…」
「そのまま一人で抱えてどうにかなるって言うなら良いけど、今のアンリは違うでしょう?…本当は僕、アンリが自分から話してくれるまで大人しく待とうって思ったけど、このまま放置しておいたらアンリは何も話さないままずっと一人で抱え続けるんじゃない?」
フレッドがそう言うと、アンリの瞳からようやく我慢していた涙が溢れ出す。
「我慢せずに泣いて良いんだよ。他には誰も居ないから」
「私…、どうすれば良いのか分からないよ」
そうしてアンリは言葉に詰まりながらも演劇の授業での様子を話してくれた。いきなり主役に選ばれた事で上級生の女学生から恨まれ、それをきっかけに同級生の女学生もアンリを遠ざけ上級生の味方につくようになったこと。先生や男子学生が居ないタイミングを見計らってアンリに聞こえるように直接、心ない言葉を掛けられていること。
「それで、教室を出ようとした時に…女の子の一人にうざって耳元で囁かれて…。その言い方が、前の世界で暮らしていたとき、妹が私を見下す時のそれと似てて、色々と思い出してすごく苦しくて…」
「そっか…、辛かったね…」
「別にさ、私は無理に仲良くなりたいとは思ってないし…、女の子に嫌われたって良いの…。でも…、それでも悪口を言われるのは…」
「うん…、そうだよね。悪口、しかも八つ当たりでそんな事を言われるってしんどいよね…」
フレッドが共感するように言うと、アンリは堰を切ったように声を上げて泣き出した。ポケットに入れていたハンカチを渡すけれど、ほとんど意味は無い。
そして泣きながら小さな声で、それでも叫ぶようにアンリは一言。
「私って、そんなに悪い事をしてきたのかな…」
と、言った。そんな悲痛な叫びを聞いていると胸が苦しくて、フレッドまで顔が歪んでしまう。
そんなアンリにフレッドはひたすら声を掛ける。
「そんな事無いよ。アンリは何も悪くない」
「だって私、どこに行ってもいつもこうなる…」
「それは…、きっと周りの人はアンリが羨ましいんだよ」
「…私が?」
「そう。自分の持っていないモノをたくさん持っているのが羨ましくて、イジっちゃうんだよ。…でもだからってご令嬢達がやっている事は正しくない。どんなに羨ましくても、妬ましく思っても、人を傷付けるのは間違ってる。だからアンリが悪いわけじゃないんだよ」
「本当に私、悪くない…?」
アンリは潤んだ瞳でフレッドを見つめる。そんなアンリに少しでも気持ちを伝えたくて、大袈裟に見えるほど大きく頷く。
「うん、絶対に悪くない」
「フレッドは…私の味方?」
「もちろん。僕もそうだし、ソアラさんもミンスさんも、レジスさんだってアンリの事を大切に思っている味方。それに旦那様や奥様、ルエさんにルイさん、ジーヤさんにディルベーネさんにシーズさん、メイドもみんなアンリの味方だよ」
「そっか…。今の…、今の私には味方が居てくれるんだね…」
アンリはそう呟くと泣き崩れてしまう。フレッドは咄嗟にアンリを抱きしめると、小さな震える背中をひたすら撫でる。
「大丈夫、大丈夫だよ。アンリは一人じゃない」
ただひたすら「大丈夫」「一人じゃない」とフレッドが言い続けると、少しずつ涙も落ち着いて来たみたいだ。
その後もアンリを抱きしめていると次第に呼吸が落ち着き始め、スースーと規則的な呼吸に変わる。
「アンリ?…もしかして寝た?」
静かに呼びかけてみても、一向に返事は返ってこない。きっと泣き疲れて眠ってしまったのだろう。
これだけ涙を溜めていたということは今日一日、ずっと泣くのを我慢していたのだろうか。夕食で奥様や旦那様と一緒になっても、アンリが気丈に振る舞っていたため、勘の鋭い奥様ですらアンリの異変に気がつくことは無かった。
だがこんな事になるのなら、自ら話してくれるのを待っていないで帰りの馬車でも、ダンスの練習をしている時にでも声を掛ければよかった。
アンリにこれ以上傷ついて欲しくない、アンリをどんなモノからも守りたいと思うのに、結局知らないうちに辛い目に遭わせてしまった。これじゃあ爵位を継ぎ、学園に通うと決意した意味が無い。
アンリはフレッドが自分の将来や家族の事で悩み無断で屋敷を空けた時、帰宅したフレッドに爵位を継いでこそ出来る事があると涙を流しながら言ってくれた。そしてその言葉に導かれるように爵位を継ぎ、アンリと共に学園へ通う事にした。
そうすればアンリの事をこれまで以上に守れるかもしれない。アンリの力になれるかもしれないと、甘い考えをしていた。だが実際はアンリを守れていない。
どうすれば良い?どうすればこれ以上アンリが泣かなくて済む?何を捨てたとしても、アンリだけにはいつだって笑っていて欲しい。
帰りの馬車の中やダンスの練習をしている時でさえ、自ら声を発することが無ければ、声を掛けても「うん」「そうだね」と端的に答えるだけだ。
今日、アンリはフレッドよりも早く授業が終わる日だった。そんな日はいつも決まってアンリは別館にいる。それにもかかわらずフレッドが今日最後の授業を終え、教室を出るとアンリは一人、廊下でフレッドを待っていた。そんなアンリにクラブに行かなくても良いのかと聞いてみても「今日はもういいや、帰ろう」と微笑みを浮かべることもせずに淡々と答えるだけだった。
あんなにもあの空間を大切にしているアンリが別館に赴こうとしないなんて、何かあったに違いない。そう思いつつも、アンリが自ら心の内を話してくれる気配はない。
フレッドは爵位を継ぎ学園に通い始めても、アンリのために出来る事は今まで通り続けている。と言っても元から大した事はしていなかったし、今では紅茶を淹れたり、朝に部屋まで迎えに行ったり、夜は寝るギリギリまでアンリの部屋で会話をし「おやすみ」と眠気に包まれたアンリに声を掛けるくらいだ。
そして何も聞けないまま夕食や入浴を済ませ、いつも通りアンリの部屋の一人用の肘掛け椅子に向かい合って座っている。
「…ねぇ、お水持ってきてくれない?」
「うん、分かった。すぐ戻るね」
水が欲しいと言われ、足早に給湯室まで向かう。給湯室で透明のグラスに水を注ぎ、アンリの部屋に戻ると、アンリの瞳から一筋の雫が静かにこぼれ落ちる。本人は気がついていないのか、ボーッと壁紙を見つめたままだ。
「アンリ…?」
「…」
アンリの名を呼んでも、自分の世界に入り込んでいるのかフレッドの存在に気がついていない。ゆっくりとアンリの元に近づき、ローテーブルの上に持っていたグラスを置くと、アンリと視線を合わせるように膝を折り、再びアンリの名を呼ぶ。
「アンリ、大丈夫?」
「…フレッド?いつ戻ってきたの?」
「今だけど…。それより、大丈夫なの?」
「何が?」
「目元、触ってみて」
アンリは言われるまま素直に白くて細い腕をゆっくりと動かすと、指先が目元に触れる。するとようやく涙が流れていた事に気がついたようで、目を見張った後、弱々しく笑う。
「あはは…、疲れちゃったのかな」
「何があったの?」
「ううん、何も無いよ」
そう答えるアンリの口元は微かに震えている。明らかな嘘。本当にアンリは嘘をつくのが下手だ。
「アンリが何かを悩んでいるのなら、僕はアンリの話を聞きたい。話を聞いて僕が解決出来るかは分からないけど、一緒に悩む事は出来るよ。…って、これ前にアンリが僕に言ってくれた言葉だよ」
「でも…」
「そのまま一人で抱えてどうにかなるって言うなら良いけど、今のアンリは違うでしょう?…本当は僕、アンリが自分から話してくれるまで大人しく待とうって思ったけど、このまま放置しておいたらアンリは何も話さないままずっと一人で抱え続けるんじゃない?」
フレッドがそう言うと、アンリの瞳からようやく我慢していた涙が溢れ出す。
「我慢せずに泣いて良いんだよ。他には誰も居ないから」
「私…、どうすれば良いのか分からないよ」
そうしてアンリは言葉に詰まりながらも演劇の授業での様子を話してくれた。いきなり主役に選ばれた事で上級生の女学生から恨まれ、それをきっかけに同級生の女学生もアンリを遠ざけ上級生の味方につくようになったこと。先生や男子学生が居ないタイミングを見計らってアンリに聞こえるように直接、心ない言葉を掛けられていること。
「それで、教室を出ようとした時に…女の子の一人にうざって耳元で囁かれて…。その言い方が、前の世界で暮らしていたとき、妹が私を見下す時のそれと似てて、色々と思い出してすごく苦しくて…」
「そっか…、辛かったね…」
「別にさ、私は無理に仲良くなりたいとは思ってないし…、女の子に嫌われたって良いの…。でも…、それでも悪口を言われるのは…」
「うん…、そうだよね。悪口、しかも八つ当たりでそんな事を言われるってしんどいよね…」
フレッドが共感するように言うと、アンリは堰を切ったように声を上げて泣き出した。ポケットに入れていたハンカチを渡すけれど、ほとんど意味は無い。
そして泣きながら小さな声で、それでも叫ぶようにアンリは一言。
「私って、そんなに悪い事をしてきたのかな…」
と、言った。そんな悲痛な叫びを聞いていると胸が苦しくて、フレッドまで顔が歪んでしまう。
そんなアンリにフレッドはひたすら声を掛ける。
「そんな事無いよ。アンリは何も悪くない」
「だって私、どこに行ってもいつもこうなる…」
「それは…、きっと周りの人はアンリが羨ましいんだよ」
「…私が?」
「そう。自分の持っていないモノをたくさん持っているのが羨ましくて、イジっちゃうんだよ。…でもだからってご令嬢達がやっている事は正しくない。どんなに羨ましくても、妬ましく思っても、人を傷付けるのは間違ってる。だからアンリが悪いわけじゃないんだよ」
「本当に私、悪くない…?」
アンリは潤んだ瞳でフレッドを見つめる。そんなアンリに少しでも気持ちを伝えたくて、大袈裟に見えるほど大きく頷く。
「うん、絶対に悪くない」
「フレッドは…私の味方?」
「もちろん。僕もそうだし、ソアラさんもミンスさんも、レジスさんだってアンリの事を大切に思っている味方。それに旦那様や奥様、ルエさんにルイさん、ジーヤさんにディルベーネさんにシーズさん、メイドもみんなアンリの味方だよ」
「そっか…。今の…、今の私には味方が居てくれるんだね…」
アンリはそう呟くと泣き崩れてしまう。フレッドは咄嗟にアンリを抱きしめると、小さな震える背中をひたすら撫でる。
「大丈夫、大丈夫だよ。アンリは一人じゃない」
ただひたすら「大丈夫」「一人じゃない」とフレッドが言い続けると、少しずつ涙も落ち着いて来たみたいだ。
その後もアンリを抱きしめていると次第に呼吸が落ち着き始め、スースーと規則的な呼吸に変わる。
「アンリ?…もしかして寝た?」
静かに呼びかけてみても、一向に返事は返ってこない。きっと泣き疲れて眠ってしまったのだろう。
これだけ涙を溜めていたということは今日一日、ずっと泣くのを我慢していたのだろうか。夕食で奥様や旦那様と一緒になっても、アンリが気丈に振る舞っていたため、勘の鋭い奥様ですらアンリの異変に気がつくことは無かった。
だがこんな事になるのなら、自ら話してくれるのを待っていないで帰りの馬車でも、ダンスの練習をしている時にでも声を掛ければよかった。
アンリにこれ以上傷ついて欲しくない、アンリをどんなモノからも守りたいと思うのに、結局知らないうちに辛い目に遭わせてしまった。これじゃあ爵位を継ぎ、学園に通うと決意した意味が無い。
アンリはフレッドが自分の将来や家族の事で悩み無断で屋敷を空けた時、帰宅したフレッドに爵位を継いでこそ出来る事があると涙を流しながら言ってくれた。そしてその言葉に導かれるように爵位を継ぎ、アンリと共に学園へ通う事にした。
そうすればアンリの事をこれまで以上に守れるかもしれない。アンリの力になれるかもしれないと、甘い考えをしていた。だが実際はアンリを守れていない。
どうすれば良い?どうすればこれ以上アンリが泣かなくて済む?何を捨てたとしても、アンリだけにはいつだって笑っていて欲しい。

