次の日から学園では芸術科目が始まった。アンリは演劇を選んでいたため、絵画を選んだミンスと別れて集会室へ向かった。

 集会室は普通の教室よりも広く、机なども置かれていない殺風景な部屋だ。そんな集会室には徐々に演劇を選択したストライプ柄のネクタイを巻いた学生が集まってくる。

 舞台を選んだ学生の八割は女学生で、その中にはクイニーやミンス、ザックと接触を図ろうとしていた学生もいるようで、普段クイニー達と行動を共にしているアンリの姿を一目見ると友好的、とは見えない視線を向けながらコソコソと喋っている。
 そんななんとも言えない空間でアンリは一人、端っこの誰も居ないスペースに立っている。

 授業が始まるまで、まだ時間あるが特に今の時間に出来る事もない。アンリが時々周囲を眺めながら手持ち無沙汰に過ごしていると、向かい側の壁に寄り掛かるように立っていた男と目が合う。すぐにアンリは目を逸らしたが、男は一直線にアンリの元へやって来た。

 これまでクイニー達以外の男が接触を図ってきた事を思い返すと、あまり良い印象が無い。だからこそ、間に入ってくれるクイニーやミンス、ザックが居ない時はあまり男と関わりを持ちたくない。
 そんなアンリの心情を知りもしない男は正面に立つと丁寧に声を掛ける。

「初めまして。今、お一人ですか?」

 男の質問に、見ればアンリが一人で居ることくらい分かるだろうと、悪態をつきたい気持ちを抑え、静かに頷く。

「私も一人なので、お話の相手になってくれませんか?この空間に一人で居るのは、居たたまれなくって…」
「構いませんが…。貴方は…?」
「申し遅れました。三年のキューバ・オーガスと申します。キューバと呼んでください」
「先輩だったんですか」
「と言うことは貴方は二年生ですか。お名前をお伺いしても?」
「アンリ・オーリンです…」
「まさか、あの?オーリン伯爵の」
「えぇ、まぁ。…私を知っているのですか?」
「えぇもちろん。この学園に通う者なら貴方の名前を知らない人はいないと思いますよ。何かと有名ですから」
「そうですか…」

 学園に入学するまで社交界に出る事の無かったアンリは何かと有名で、様々な噂が立っていたと聞いたことがある。だがまさか初対面の上級生ですら、アンリの名を知っているとは思わなかった。

 だがひとまずキューバから悪い雰囲気は感じない。
 キューバは人参色の長髪で、後ろで髪を一つに束ねている。そしてクイニーよりも背が高く、アンリが見上げないと目を合わせることは出来ない。

「ここで出会ったのも何かの縁でしょうし、これからよろしくお願いしますね」
「こちらこそ…」

 別に他に知り合いが居るわけでも無いし、キューバを拒絶する理由も特に見つからない。人見知りや警戒心からアンリが冷たい態度を取ってもキューバは気にしていないのか、アンリの側を離れない。そしてキューバは話す事が好きらしく、アンリが黙っていると何かと話題を振ってくるため、無言の沈黙が続くことは無かった。

 しばらくして現れた先生は白髪交じりの女で、どこか怖そうな印象だ。先生が集会室に入ってきた途端、それまで友人と喋っていた上級生と思われる学生は一気に静かになった。

 そう言えば前に一度、集会室前の廊下を通り掛かった時に怒鳴り声が聞こえてきた事があった。もしかしたらこの先生の怒鳴り声だったのかもしれない。
 そんな風に思うとアンリの気持ちは一気に萎んでくる。出来る事なら極力、怒られること無く穏便に過ごしたい。

 先生はこの場に集まった学生を学年ごとに座らせると集まった学生の顔を四年生から順にざっと見ていく。そして視線が二年生に移りアンリに視線を向けた瞬間、先生の目の色が変わって見えた気がしたが、おそらく気のせいだろう。

「まず、様々な選択肢がある中で演劇を選んだみなさんは、その責任を持つように。やる気が無いようなら教室から出ていってもらって結構です。良いですね?」

 声の通る先生のそんなセリフに身が震える。
 そして先生の話が一区切り付くと、上級生は声を揃えて「「はい!」」と答える。

「左から返事が聞こえない。二年生、聞こえているなら返事をしなさい!」

 先生からの指摘に、アンリを初めとした二年生は慌てて返事をする。

「まず二人一組でペアを作りなさい。二年生は必ず上級生と組むように」
「「はい!」」

 その声に合わせて座っていた学生はそれぞれ立ち上がり、ペアを作り始める。アンリも習って立ち上がるが、この空間に顔と名前を知っている上級生なんて一人しかいない。そしてその男も誰とペアを作るわけでも無く、アンリの方へ歩いてくる。

「アンリちゃんもペア、決まってないよね?」
「はい、まだ」
「じゃあ私と組もうか」
「えっと、お願いします」

 周囲もほとんどペアが決まってくると、先生は手を叩き学生の会話や物音などの騒音を一瞬にして静かにして見せた。

「ペアが決まったら、それぞれ発声練習をしなさい。二年生はペアの上級生に教えてもらうこと。二年生が出来なかったらペアである上級生の責任ですからね」
「「はい!」」

 密集していた学生達はペアごとに集会室中に散らばる。上級生同士のペアはすぐに発声練習を始めるが、二年生のいるペアは上級生からプリントを見せられながら発声練習について教わっている。アンリもキューバがサッチェルバッグから取り出したプリントを覗いてみるが…。

「じゃあアンリちゃん、発声練習はこのプリント通りなんだけど。どう教えたら良いんだろ」
「私、この発声練習なら分かります」
「え、本当?」
「はい、既に覚えているので説明してもらわなくて大丈夫です」
「そうなの?でも発声練習なんて、いつの間に?」
「あ、えっと…」

 キューバの持っていたプリントにはなんと中学生の頃、演劇部で毎日のように繰り返し行なっていた発声練習と全く同じ内容のモノが書かれていたのだ。だがそんな事を目の前で首を傾げるキューバに馬鹿正直に言うわけにもいかないし、ここは上手く誤魔化すしかない。

「偶然、本当に偶然目にする機会があって…。それを覚えていたと言いますか…」
「へー、アンリちゃんは記憶力が良いんだね。じゃあ私から教えることが無いなら、早速交互にやってみようか」

 アンリとキューバは1メートルほどの距離を開けて向かい合うと、アンリは足を肩幅に開いて太ももの内側と足の裏を意識するように立つ。確か重心を足に集めると良いんだっけ。
 そしてキューバから順に発声練習が始まった。

「あ、え、い、う、え、お、あ、お」

 プリントを見ただけで半信半疑でいたが、キューバの発声を聞けばやはり前に基礎として教わった発声練習と同じモノだ。これならアンリにも出来る。

「かっ、けっ、きっ、くっ、けっ、こっ、かっ、こっ」

 アンリとキューバは順番に発声していき、アンリがハ行の発声をしている時だった。丁度、見回っていた先生がアンリ達の側を通り掛かったかと思えば立ち止まった先生は「貴方…」と低い声を漏らした。
 その声に何か間違っていただろうかと不安になって発声の途中にも関わらず黙り込んでしまう。すると予想外にも先生は惜しそうに「なんで止めてしまうの」と言う。

「私の発声の仕方が間違っていたのかと…」
「間違っているなんて、とんでもない。貴方の発声の仕方は素晴らしいわ。しっかりと腹式呼吸が出来ているようだし、姿勢も整っている。貴方は二年生だったかしら」
「はい、そうです」
「二年生でそこまで整った発声を出来る人はなかなか居ないわ。上級生ですら、出来ていない人の方が多いのだから」
「そう、なんですか」
「さぁ、発声練習の続きをしなさい」
「はい」

 いきなり褒められたことに戸惑いながらも中断していた発声を再開させると先生は満足そうな表情を浮かべ、他のペアの様子を見に行く。
 ワ行まで発声を終えると正面に立つキューバはアンリに向かってどこか興奮したかのような声を出す。

「アンリちゃん、すごいよ!あの先生があんな風に素直に褒めている姿って初めて見た」
「そうなんですか?」
「去年一年間も先生の元で授業を受けてきたけど…、うん、初めて」

 その後もペアであるキューバと壁を使った発声や簡単なストレッチを続ける事になったが、どれも過去に経験済みのモノばかりでアンリは難なくこなすことが出来た。

 みっちりと基礎練が行われた後、先生の集合の声に再び学生達が一カ所に集まると、二年生の大半は息切れをしている。
 きっと体力も無く運動音痴だと自負していた頃の暗璃なら彼らと同じように、もしくはそれ以上に体力を消耗し疲れていただろう。だが、この世界に来て屋敷や学園といった広い敷地内を毎日のように歩き回り、階段だけでも一日でかなり上り下りしている。きっとそういう事の積み重ねで体力がある程度身についたのだろう。

 先生は四年生、三年生、二年生の順で一列に並ばせると台本と共にプリントを一枚渡していく。ようやく二年生の番になり、アンリも台本とプリントを受け取った。

「貴方、お名前は?」
「アンリ・オーリンです」
「オーリンさん、よろしくね」

 先生が何に対して「よろしく」と言ったのか分からないままプリントに目を移すと【主役 姫】と書かれている。
 何のことだか分からないまま、キューバの元へ向かいキューバのプリントを覗き込むとプリントには【王子】と書かれている。
 
 アンリの視線に気がついてか、キューバはアンリのプリントを覗き込む。そしてアンリの持つプリントに書かれた【主役 姫】の文字を目にするとキューバは目を見開き、口まで間抜けに開けている。

「先輩、これってどういう意味なんですか?」
「…」
「先輩?」
「…あぁ、このプリントはそれぞれが担当する配役や仕事が書かれているんだ」
「配役?え、でも私のこれ、主役って…」
「人数の少ない男子学生ならまだしも、二年生の女学生が主役に選ばれているのは初めて見た。大抵の二年生は裏方になる事がほとんどだし、配役に選ばれてもセリフが二言あるか無いかの役だから」
「じゃあ先生が渡し間違えたんでしょうか…」
「分からない。とりあえず先生がこの後、話してくれるんじゃ無いかな」

 アンリとキューバが混乱する中、全員に台本とプリントを渡し終えた先生は「はい、静かに」とその場を静かにさせる。

「では今配った配役で今回の舞台は進めていきます。主役の姫役は二年、アンリ・オーリン、準主役の平民役は四年、カリマー・ウッド、そして王子役に三年、キューバ・オーガス。今呼ばれた者は前に来なさい」

 そう言われると何が何だか分からないまま、キューバと共に前に立つ。アンリとキューバともう一人の男。カリマー・ウッドと呼ばれていた男はブラウンの髪で、どこか物静かそうな雰囲気の人だ。
 そして名前の呼ばれなかった学生達の方に視線を向けると主に上級生の女学生がアンリを睨んでいる。

「この三人が今回のメインパーソナリティです。いいですね?」

 その声に返事をする人はほとんどいない。逆に手を上げて疑問を投げかけようとする女学生が数人。先生がそのうちの一人を指名すると、指された女学生はその場で声を上げる。

「準主役のお二人に文句はありません。ですがなぜ主役の姫役が二年生なのですか」

 真っ直ぐ突き刺すように吐き出された疑問にその場にいた女学生のほとんどが強く頷く。確かにアンリにも彼女達の言いたいことは分かる。アンリだってなぜいきなり主役に選ばれたのか、この場に立っているのか理解出来ていないのだから。

「それは彼女が上級生でも出来ていない基礎を、完璧にこなせているからです」
「…基礎とは発声練習のことですか?」
「そうです。確かに貴方はこれまで立派に主役を務めてくれました」
「じゃあ、また私でも…」
「貴方はまだ基礎がなっていない」
「基礎と言っても、たかが発声練習ですよね?舞台で主役をこなせるかは別問題です」

 勢いの収まらない女学生に先生はキッパリと断る。

「この際です、みなさんにも申し上げておきましょう。舞台において、いえ、舞台で無くとも、何をするにも基礎が出来ていない人が何かをこなすのは難しい話です。確かに基礎と言っても腹式呼吸は慣れていないと難しいモノです。でも逆に難しいと言われている腹式呼吸を当たり前の様に使っていたこの子は、どこかで相当な練習をしてきたはずです。先程、貴方は学年を気にする発言をされていましたが、今まで二年生の女学生が主だった配役に選ばれなかったのは、言い方は悪いですが二年生の時に見込みが見られなかったからです」
「じゃあ私達には才能が無かった、と言うのですか?」
「そういうわけではありません。当時の貴方たちは上級生に比べて目立つ部分が無かったのです。それでも貴方だって学年が上がると共に技術力が上がり主役に選ばれるようになった、それは事実です。ですが私が配役を選ぶ際に重視しているのは年齢では無く、技術面と努力面です。今、貴方が悔しいと思うのなら、次選ばれるように努力し、今以上の技術を身に付ける事です。この回答で貴方たちの疑問は解決出来ましたか?」
「はい…」

 質問していた女学生や彼女に共感していた女学生もどこか不満げで悔しそうな表情を浮かべながらも黙り込んだ。
 先生はこれ以上、質問が出てこない事を再び確認すると授業を終わりの方向性に持って行く。

「今日はこれにて終わりにします。次回から本格的に練習が始まるので動きやすい服装に事前に着替えておいてください。そして配役に選ばれた人は台本をしっかり読み込んでくること。配役に入っていない人も最低でも一回は台本を読んでおくように。では、解散」

 授業が終わると先生に疑問を投げかけた女学生を中心に不満げな顔を浮かべていた女学生は揃って足早に集会室を後にする。他の学生もそれぞれ友人同士でお喋りをしながら出ていく。アンリもそんな学生達に続いて教室を出ようとするが、背後から先生に声を掛けられる。

「オーリンさん、少しよろしいですか」
「はい」
「ウッドさんとオーガスさんは帰ってもらって構いませんよ」
「分かりました。じゃあアンリちゃん、またね」
「お疲れ様です」

 キューバはアンリに手を振り、カリマーは軽く会釈すると集会室を出ていく。周囲を見るといつの間にか他の学生は居なくなり、アンリと先生の二人だけだ。
 向き合った先生は先程までとは違い、どこか申し訳なさそうな表情だ。

「ごめんなさい、いきなり主役なんて大役を任せてしまって。上級生、怖かったでしょう」
「いえ、大丈夫です」

 上級生から向けられる視線が怖くなかったと言えば嘘だ。だがこの一年、クイニー達と共に過ごしていれば、それを羨む女学生からああ言う視線を向けられる事は日常茶飯事だったし、それ以前からもああいう睨まれるような視線は何度も向けられてきた。今更気にするモノじゃ無いと、ひとまず受け止めている。

「でも本当に私で良いんですか?」
「えぇ、私は貴方にぜひお願いしたいの」
「でも配役を基礎練の様子から決めるモノなんですか?オーディションとか、しないんですか?」

 演劇部に所属していたとき、配役を決めるには事前にアンケートを取った上で必ずオーディションが行なわれた。アンケートでは希望する配役を書いたり、裏方、つまり音響や照明、衣装や大道具などの仕事に自ら回りたいと志願する人はオーディションを辞退した。
 音響チーフまで務めた暗璃はもちろん一度もオーディションを受けたことは無い。だから元演劇部と大口を叩いても、実際は配役に就いた事も無ければ、ステージに立ったことすら無いのだ。

「もちろんオーディションをするという手もあるわ。でもオーディションをすると、少しでも自分をよく見せるために彼女達は自分を偽るでしょう?そうでなくて、私は普段の一人一人を大切にしたいと思っているの」
「でも私、ステージに立った事なんて一度も無くて、やり切れるのか不安なんです」
「過去の経験は重要じゃないわ。それに私だってしっかりサポートするつもりでいる。なにも貴方一人に全て任せようなんて思っていないわ。それでも貴方が余程しんどくなったら、その時は相談に来なさい」
「はい…」

 舞台初心者がやり切れるのかと不安になるアンリの肩に先生は手を添え、アンリの名をゆっくりと呼ぶ。

「オーリンさん、これだけは覚えておいて。貴方の役は貴方だけのモノよ。貴方が作り上げたモノは誰にも真似なんて出来ない、貴方だけの財産になるわ」
「先生…、ありがとうございます。私、頑張ってみます」
「長話になってしまったわね。また次の授業の時に会いましょう」
「はい、失礼します」

 怖い人だと第一印象を抱いていた先生はこうして実際に話を聞いてみると、本当は怖いだけの人では無かった。どちらかと言うと、学生達のために無理に怖い先生を演じている様で、言葉の一つ一つには先生からのメッセージが込められているようにアンリは感じた。
 だからこそ、そんな先生と話しているうちに不安もありながら頑張ってみたいと思えたのも事実だ。

 台本やプリントをサッチェルバッグに入れて廊下に出ると壁際にミンスが立っている。それまで真顔だった表情も、アンリを視界に入れると一気に花が咲いたような満面の笑顔が咲く。
 ミンスは動物に例えるなら犬だ。そして見えない犬耳や尻尾が勢いよく振られるミンスの笑顔はアンリにとっての癒しだ。ミンスが笑っていれば、どんなに落ち込む事があっても立ち直れそうだ。

「アンリちゃん、お疲れ様!」
「ミンスくんもお疲れ様。迎えに来てくれたの?」
「うん!僕達の授業はすぐに終わったから」
「クイニーとザックくんは?」
「二人は先にクラブの部屋に行ってるよ。ここに二人を連れてきたら何かと騒ぎになりそうだったから」
「あぁ確かに」

 演劇を選んだ学生の中にはクイニーやミンス、ザックのファンである女学生が多くいた。人とお話しするのが好きなミンスは特にストレスにならないらしいが、クイニーは自分たちに纏わり付いてくる女学生を毛嫌いしているし、ザックは彼女らに囲まれる時間を無駄だと思っていると以前言っていた。確かにそんな二人を一緒に連れてくれば騒ぎになるだけで無く、主にクイニーの機嫌を損ねるのは目に見えている。

「それにしてもアンリちゃんだけ出てくるのが遅かったけど、何かあった?」
「先生とお話をしていたの」
「先生と?もしかして何かあったの?」
「実は次の舞台の主役に選ばれちゃって」
「えっ、本当!?すごいよ、アンリちゃん!」

 すっかりテンションの上がってしまったミンスは別館へと向かう道中、まるで自分の事のように喜びずっと興奮している。

 三階建ての建物である別館は本館の上階フロアと同じようにワーキングクラスへの立ち入りが禁止されている場所であり、別館はいわゆるクラブ棟だ。一つのクラブに対して活動部屋として別館の部屋が与えられる。本館とは違った趣で、外観や廊下だけを見ればどこかの貴族のお屋敷と言われても区別が付かないだろう。
 アンリ達は一年生の頃、周囲から見れば不純な理由でクラブを作ったがそれ以降、授業間の空き時間や放課後なんかに利用している。

 三階まで登るとpremium roomと刻印のされた重厚感漂う木製の二枚扉が見える。この扉の先がアンリ達に与えられた部屋だ。鍵が開いていることを確認し、扉を押す。

 扉の向こうは初見ではクラブのために用意された部屋だとは思わないだろう。部屋の真ん中にはソファーやカウチ、一人用の肘掛け椅子がローテーブルを囲むように並ぶ。他にも飴の入ったカゴが置かれているダイニングテーブルやシェルフ、暖炉まで設置されていて、隣の部屋にはベッドまで完備されている。

 この部屋を使い始めた頃から既に家具は置かれていたが生活感が無かった。それに比べ今では、シェルフにはそれぞれが持ち込んだ本が並ぶ。ローテーブルには時々、クイニーやザックが焼き菓子を持参する事もあるが、大抵はオーリン家やシェパード家の屋敷の厨房で作られた焼き菓子が並ぶ。この通り、すっかりこの部屋はアンリ達の部屋になっていた。

 クイニーは肘掛け椅子、ザックはカウチに座ってそれぞれ本を読んでいたが、アンリ達が部屋に入るとクイニーは間髪入れずに声を上げる。

「おい、ミンス。声がデカいぞ」
「もぉいきなり何?」
「ミンスには悪いが、今回はクイニーの言うことが正しい。扉が閉まっているというのに、ミンスの騒いでいる声がここまで聞こえてきた」

 ミンスは別館に入っても、興奮冷めやらぬ様子だった。だがこの部屋は扉を閉めてしまえば遮音性のおかげで余程の事が無ければ部屋の外の音は聞こえないはずだ。それでも部屋の中までミンスの声が聞こえていたとなると、確かに今回はクイニーに声が大きいと言われても文句は言えないだろう。

「もぉザックまで」
「私はただ事実を言っているだけだ」
「だってだって、アンリちゃんがすごいんだもん」

 勢いのままミンスはアンリが主役に選ばれた件を話してしまいそうで、アンリは扉を閉めることを忘れて慌ててミンスを追いかけ肩を叩くと、振り返ったミンスに思いっきり首を振る。

「どうして?二人に言っちゃダメなの?」
「だって上手くいくとは限らないし…」
「アンリちゃん、そんなマイナスに考えないで、凄い事なんだからもっと自信持って良いんだよ」

 アンリとミンスの会話が何を意図しているのか理解できないクイニーとザックは、再びアンリに良くない事が起きたのではと疑い始める。ザックは黒縁眼鏡の奥の瞳に心配の色を浮かべ、クイニーの表情には心配半分「またか」という呆れのようなモノも含まれている気がする。

「また何かされたのか?今度は誰だ?」
「やっぱり仕方の無い事とはいえ、アンリ様を一人にするのは良くなかったか」

 見当違いをするクイニーとザックに声を上げてミンスは笑い出す。

「はは、違うよ二人とも。アンリちゃんだって、いつでも悪い人に狙われてるわけじゃ無いよ」
「じゃあ何をコソコソ話してるんだよ」
「アンリちゃんが主役に選ばれたんだって。あっ…」
「「え?」」

 勢いのまま言われてしまった。ミンスは呑気に「言っちゃった〜」と言っているし、クイニーとザックにおいては思考が追いついていない様子だ。

「は?アンリが主役?」
「アンリ様も今日が授業初日だよな。そんなすぐに決まるモノなのか?」
「さぁ、僕も詳しくは分からない」
「なんだよ、分からねぇのかよ」
「だってアンリちゃんから主役に選ばれたって教えてもらったらテンション上がっちゃって、詳しく聞いてる暇が無かったって言うか…」
「要はろくに話も聞かずに、勝手に盛り上がってたって事だな」
「あはは、そういうこと〜。っていう事でアンリちゃん、詳しく教えて欲しいな」
「隠そうとしてたけど、バレちゃったもんね。えっと…」

 ミンスと並んでソファーに腰掛けると、授業の一連の流れを話した。発声練習で褒められたこと、そこからいきなり主役に選ばれたこと。上級生に反対されても先生が守ってくれたこと。

「へぇ、基礎練の様子でアンリを気に入ったのか」
「にしてもずいぶんと珍しい配役の決め方をするんだな」
「でもすごいね。初日に褒められるなんて」
「先輩が言うには、その先生が人を褒めてるところを見た事が無いんだって」
「先輩?」
「あぁえっと、三年生の先輩なんだけど、授業が始まる前に先輩から声を掛けてもらったの」
「ふーん」

 そこまで言い切るとミンスはアンリの手を取る。

「アンリちゃんって本当にすごいね!」
「前から思っていたが、アンリ様って何かと隠れた才能を持っているよな」
「あぁ、初めてポーカーをやった時も俺と良い勝負だったな」
「神経衰弱も強かったし、アンリちゃんが時々作ってきてくれるお菓子も美味しいよね」
「そうだな、それにダンスも上手かった」
「あの、みんな…。褒めてくれるのは嬉しいけど、恥ずかしいよ」

 大切な友人に褒められるのは嬉しいが、それと同時にどんな表情で彼らの褒め言葉を受け止めれば良いのか分からないし、改めて伝えられると照れくさい。

「あ、アンリちゃんが照れてる~」
「もぉ、揶揄わないでよ」
「だって可愛いんだもん」

 そんなやり取りが続き、ようやくその場が落ち着いて来た頃、不意に時計を視界に入れると迎えの馬車が到着する時間だ。まだまだ話し足りないが、三人に帰る時間になってしまった事を告げソファーを立ち上がりサッチェルバッグを手に持つと、開けっ放しになっていた扉まで歩く。

「あ、フレッド」

 アンリが扉の前まで歩いて行くと、タイミング良くフレッドが顔を出した。

「迎えに来たよ。帰ろう」
「うん。じゃあみんな、またね」

 クイニー達の方へ向き直り手を振ると、クイニーとザックは軽く手を上げ、ミンスは勢いよく手を振る。アンリはそんな彼らに見送られながらフレッドと共に階段を降りた。

 別館を出ても校門まではかなりの距離がある。それでもフレッドと並んで歩いていると、そんな道のりですら苦にならない。二人の間に漂う無言の時間でさえ、不思議と心地良いのだ。

「おめでとう」
「え?何が?」
「主役、選ばれたんでしょう?」
「聞いていたの?」
「うん、アンリが経緯を話している辺りから」
「それなら部屋の中に入ってくれば良かったのに」
「四人で話し込んでいたみたいだし、途中で僕が入ったら邪魔になるかと思って」
「私が言っても説得力が無いかもしれないけど、フレッドは気にしすぎだよ。フレッドだって今はクラブのメンバーなんだから、堂々と入ってきて良いんだよ?」

 アンリが主役に選ばれた経緯を話している辺りから話を聞いていたと言うことは、授業が本来終了する時間よりも早くに終わったのだろう。そして空いていた扉の向こうからアンリ達が話し込んでいる声を聞き、邪魔をするわけにいかないとフレッドはドアの陰に隠れていたという事だろう。
 だが今の彼はアンリ達と対等の立場だ。何も遠慮する必要はない。普段、無駄な事まで気にしがちなアンリに言われても何の説得力は無いだろうが、もっとフレッドは自分優先で過ごして良いと思う。

「ありがとう。でも今は僕の話は良いんだよ。それより主役ってどんな役なの?」
「台本をまだ読んでないから詳しくは分からないんだけど、姫役らしいよ」
「その舞台って僕達も見られるんだよね?」
「うん、今回の舞台は学祭で上演するんだって」
「そっか、じゃあ楽しみにしてるよ」
「他のみんなも見に来てくれるかな」
「そりゃあアンリが主役って言ったらみんな喜んで見に行くよ。それに学祭での上演って事はきっと旦那様や奥様も見に来られるんじゃないかな」
「うぅ、そう考えると一気に緊張する」
「って事は今年の学祭はみんな出席だね」
「あ、確かに。去年はみんな揃って、サボっちゃったからね」

 アンリ達は去年の学祭は揃って休んでいた。必ず出席しないといけないわけでも無いし、参加するイベントも無ければ模擬店を出す訳でもない。何よりそういう場に赴いても、あの三人はいつもの如く女学生達に押し寄せられ、楽しむどころか疲れてしまうだろうという事で欠席した。だからこそ、アンリ達は学祭が実際にどんなモノなのか、誰一人として知らない。

「これからは忙しくなるね」
「舞台の練習はもちろんだけど、その前に舞踏会が待ってるからね」
「僕はアンリを応援するし、出来るだけ力になりたいと思ってるけど、あまり無理して体調を崩さないでね?」
「ありがとう、フレッド」

 校門を出て馬車の元に着くとルイは「お疲れ様でーす!」と声を掛けてきて相変わらず元気だ。クイニーだったらルイの態度にキレるのが目に見えているが、アンリとフレッドは特に身分の差を重要視していないし、ありのまま接してくれた方が嬉しいと思っている。

 いつもと同じ道を馬車は走り、屋敷まで向かう。
 初めは見慣れなかった景色も一年以上見続ければ自然と慣れてくるものだ。きっと今になって日本の住宅街や駅前の景色を見たら、逆に違和感が拭えないだろう。

 屋敷に着くとフレッドは急ぎの用事があるらしく、それが終わり次第ダンスの練習をする事になった。アンリはそれまでの時間、食堂の奥にある扉から厨房に入る。

 厨房には二人のコックコートを着た男が居る。厨房に入ってきたアンリを笑顔で迎え入れてくれたベテラン感漂う男がシーズ。そしてふんわりとしたマッシュに前髪がギリギリ目に掛かる髪型の男の子がルエだ。ルエはアンリと同じか、年下に見えるが、実際はアンリより三歳年上だという。

 ルエは丁度、成形したパン生地を発酵させるタイミングで時間に余裕があるらしく、パントリーに入ると丸椅子を二つ、厨房まで運んでくる。そしてすっかり定位置になった場所に椅子を置き、ルエとアンリは並んで丸椅子に腰掛けると、シーズが湯気の上る紅茶の入ったカップを二つ、並べてくれる。

 最近は暇な時間が出来るとアンリは大抵ここに来て、ルエとお話しする。ルエは元々人見知りが激しかったため、アンリから話題を振る事がほとんどだったが、ともに時間を過ごすうちに徐々に心を開いてくれたのか、最近はよくルエからも話題を振ってくれる様になった。

「兄はお二人に迷惑を掛けていませんか?」
「ルイのこと?大丈夫だよ」
「本当ですか?それなら良いんですけど」

 ルイが元気で自由奔放な事もあって、弟であるルエはルイがアンリやフレッドに失礼な態度を取っていないか心配なようだ。

「でも本当にルイって元気だよね。まるで太陽みたい」
「元気すぎて時に迷惑ですけど」
「そうかな?」
「きっとアンリ様の前ではセーブしてるんだと思いますよ。アレでも」
「やっぱり実の弟であるルエの前になると違うの?」
「全然違います。十倍はうるさいです」
「十倍…」
「毎晩ようやく眠気が来たかなって頃に部屋にやって来て、騒ぎ出すんです。本当に迷惑です」

 普段より口数の増えたルエは昨晩の事を思い起こしているのか苦い顔をすると溜息を一つ落とす。

「でもなんだかんだ言って、兄弟仲が良いよね」
「そう、ですか?」
「うん、でもたまにルエの方がお兄さんなんじゃないかって思うよ」
「あれだけ騒がしい兄がいれば、弟は静かに育ちますよ」
「そういうモノなのかな」
「どちらにせよ、兄にはもう少し落ち着いて欲しいですけどね」

 ルエと話しているとあっという間に時間は過ぎる。

「アンリ、お待たせ」

 用事を終えたらしいフレッドが厨房に顔を出す。ルエもそろそろパンの発酵が終わるらしく、この場をお開きにすると厨房を出てフレッドと共に二階に上がり、真っ直ぐに練習部屋に向かった。

 一時間ほど続けてダンスの練習をすると仕事を終えたお父様とお母様が帰宅した。そしてすぐ夕食になり、アンリはお母様とお父様に次の舞台の主役に選ばれたことを話した。すると両親は想像以上に喜び、アンリを褒めると公演当日の学祭には必ず舞台を見に来ると約束してくれた。
 やはり舞台の主役なんて恥ずかしいし、初舞台で上手く務められるのかも分からない。不安が拭えたわけじゃ無いが、やると決めた以上は出来る限りのことをしたいし、せっかくの機会だ。両親にも見に来て欲しい。

 沢木暗璃として演劇部に所属していたとき、公演当日の暗璃の定位置は観客席の最後尾にある音響席だった。舞台からは一番遠い位置だったが、どんな公演も客席が真っ暗になったタイミングを見計らって暗璃が音楽を流し、そして舞台の幕が上がる。舞台中も効果音を流したり、舞台の雰囲気に似合う音楽を流す。あの時の暗璃は舞台を裏で支える側だったが、充実感でいっぱいだった。
 だがお母さんは暗璃が一度も舞台上に立たずに裏方を担っている事を知ると「演劇部に入ったのに、役に選ばれないでどうするの」と怒って一度も公演を見に来ることは無かった。

 あの頃はどれだけ自分なりに頑張っても、その頑張りを見てくれる家族なんていなかった。でもだからこそ、アンリとなった世界で両親や友人に頑張りを素直に認めて貰えたり、喜んで貰えるのが本当に嬉しいのだ。