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「お待ちしていました。さぁどうぞ」
「ありがとう」

 観覧を終えると大講堂を出て、校門前でクイニーやミンス、ザックと別れた。フレッドと共にオーリン家の馬車である黒塗りの馬車に向かうとルイが笑顔で馬車の扉を開けてくれる。

 ルイは、フレッドが執事を辞めて爵位を継いだ事をきっかけに雇われることになった御者だ。なんと屋敷の厨房で働くルエのお兄さんでもある。
 ルエとルイの性格は対照的で、ルエが物静かで落ち着いているにも関わらず、ルイはとにかく元気で自由奔放。二人を見ているとルイよりルエの方がお兄さんなのでは、と疑いたくなる。

 ルイの「動きますよ-」という声と共に馬車は屋敷に向けて走り出すが、アンリの正面に座るフレッドはどこか上の空だ。疲れているだけなのかもしれないが、一人で何かを思案している様にも見える。

「フレッド」
「…ん?ごめん、どうしたの?」
「さっきからどこか上の空みたいだけど、疲れちゃった?」
「ううん、大丈夫。元気だよ」
「まだ学園にも入学したばかりだし、環境が変わってクイニー達と一緒に過ごす事にも慣れてないから余計に大変だよね。それなのに午前中の授業が終わってから、私がフレッドの事を拘束しちゃったし…」
「そんな事無いよ。僕も午前の授業が終わったらアンリの所に行こうと思ってたし」
「ほんと?それなら良いんだけど…」

 フレッドが爵位を継ぐことを決意した事でアンリとフレッドの間には主従関係が無くなった。それからしばらく経って変化したことが三つある。
 一つはアンリのことをアンリ様からアンリと呼ぶようになったこと。もう一つは一人称が私から僕に変わったこと。そしてもう一つ、他の人に対しては敬語を使うフレッドもアンリには敬語を使わずにフランクに話してくれる様になった。

「なによりミンスさんは僕が会話に入りやすい空気を作ってくれるし、レジスさんだってアンリがいない時は気に掛けてくれてる。だから大丈夫」
「そっか。でも問題はクイニーか…」
「僕もだけど、ソアラさんは今まで僕をアンリの執事として見ていたでしょう?そんな僕が実は伯爵家出身で爵位を継いだ。ソアラさんからしてみれば、いきなり立場が変わって、どう接するのが正解なのか分からないんじゃ無いかな。でも普段の彼を見ていれば、悪い人じゃ無いって分かるよ」

 馬車が屋敷に到着するとフレッドが先に降りて、アンリに手を差し出す。その手を掴みアンリもゆっくり馬車を降りる。
 いつもならこのままルイに感謝を告げて屋敷に入るのだが、今日はルイがいきなり「あっ!」と大声を出して叫ぶモノだから、アンリとフレッドは驚いて固まる。

「どうしたんです、ルイさん」
「ほんとだよ、急に大声出すなんて」
「驚かせてごめんなさい。伝言を頼まれていたのをすっかり忘れていて、思わず叫んでしまいました」
「伝言?」
「はい、オーリン伯爵からお二人に。お二人が帰宅したら揃って書斎に来るようにと」
「お父様が?なんだろう」
「さぁ、僕にも見当が付かない。とりあえずルイさん、ありがとうございます」

 アンリとフレッドは屋敷に入ると、そのままの足で二階に上がる。お父様とお母様が共有して使う書斎の扉をノックすると、すぐに扉の向こうから「どうぞ」と返事が返ってくる。扉を開けて中に入るとお父様はデスクに座り、お母様は窓際の椅子に座り紅茶を飲んでいる。

「ちゃんと二人揃って来てくれたな」
「どうかしたの?」
「実は二人にお願いがあってな。大した事では無いんだが、再来週にソアラ家で開催される舞踏会に二人で行ってきて欲しいんだ」
「ソアラ家って事は、クイニーの家でやる舞踏会?」
「あぁそうだ」
「本当はね、お母さんとお父様で参加する予定だったの。だけど外せない用事が入ってしまって」
「そういうわけでソアラ伯爵には参加の辞退を申し出たんだが、それならご令嬢達だけでも参加しないかと言われてしまってな」
「私は構わないけれど、フレッドはどう?」

 ソアラ家で行われる舞踏会と言うことは必ずクイニーと顔を合わせることになるだろう。おまけにフレッドは執事として社交界に出る事はあっても、伯爵になって社交界に参加するのは初めてだ。もしかしたらフレッドは今回の舞踏会の参加は断るかもと思い隣に視線を送ると、フレッドは予想に反してすぐに頷く。

「アンリが行くのなら僕も参加します」
「そうか、じゃあソアラ伯爵にはその方向で話をしておくよ」
「お父様と話していたのだけど、二人ともダンスの練習はどうする?」
「私、またフレッドと一緒に練習したい」
「これから先生を探してお願いしても良いのよ?フレッドも学園に通い始めて忙しいでしょうし」
「いえ、僕は大丈夫です。それにアンリに教えていると自分の確認にもなるので」
「そう?貴方がそう言うのならお願いするわ。アンリのこと、よろしくね」
「はい」

 アンリとフレッドは書斎を後にすると、そのままの足で練習部屋に向かう。この部屋に入るのは去年の舞踏会以降だ。

 本来、ご令嬢は一年の間に何度も舞踏会や社交の場に参加するのだが、アンリは初めての舞踏会以降そういった場に参加していない。タイミングが合わなかったというのも事実だが、お母様やお父様に招待状が引っ切りなしに届いても、去年の舞踏会で社交界デビューしたばかりで、ほとんど交流の広げていないアンリに招待状を送る家は滅多に無い。とは言いつつも、人見知りであるアンリにとっては好都合だった。

「懐かしいね」
「あの時のアンリはまだこの世界に来たばかりで、何をするにしても初々しい反応だったよね」
「だって私の居た世界と言葉通りの別世界なんだもん」
「そう考えるとアンリも慣れてきたよね」

 今になってみると沢木暗璃として過ごしていたのが遠い記憶のようで、時々この世界で生まれて育ったかの様な感覚に陥る事もある。おかげで最近はあの頃のトラウマを夢で見ることも無くなった。

「思えばこの一年、本当に色々な事があったね」
「でも私、きっとこの世界に来てフレッドに会えていなかったら、こんな風に笑って過ごせていなかったと思う」
「そんな事無いよ。アンリはどこだったとしても、やっていける。僕が居なくてもね」
「ううん、フレッドが居てくれないと私はダメだよ」
「ありがとう、アンリ。じゃあ過去を思い返すのも良いけど、そろそろダンスの練習をしよっか」
「前の舞踏会で踊ったダンスは一通り覚えているけれど、今回は違う曲も踊れた方が良いのかな」
「おそらく今回は招待客として参加するから、少なくともあと一曲か二曲は踊れるようにした方が良いと思う」
「そうだよね。うーん、再来週までに間に合うのかな」

 去年、ダンスの練習期間として与えられた猶予は一週間。運動音痴と自負し、その上ダンス未経験だったアンリはひたすら踊って踊って体に染みこませた。それに比べたら今回は舞踏会まで二週間あるし、ダンスもある程度慣れている。だからといって、数曲も覚えられるのだろうか。
 そんなアンリの不安を汲み取ったかのようにフレッドは励ます様に声を出す。

「大丈夫、アンリにはダンスの才能があるから」
「さすがにそれは盛りすぎだよ」
「本心なんだけど…、まぁいいや。とりあえずダンスの感覚を取り戻すために前に踊った曲を踊ってみようか。いきなり音楽を流しても大丈夫?」
「うん、大丈夫だと思う」
「分かった、ちょっと待ってて」

 フレッドはグランドピアノ横に置かれた蓄音機のもとへ向かい、手早くセットをして音楽を流した。そしてアンリの元へフレッドが戻ってくると、二人は自然と手を取り、もう片方の手をお互いの腰の位置に添えると曲に合わせて踊り始める。

 鏡に映るアンリは一年ぶりに踊るにも関わらず、体は一年前の必死になって練習した日々を覚えているようで堂々と自然に踊っている。自分で言うのは可笑しい話だが、かなり様になっていると思う。

「ちゃんと踊れてるね」
「えへへ、ありがとう。それにしてもフレッドはダンス、やっぱり上手だよね」
「僕は幼い頃に練習してたから」
「あ、そっか」

 フレッドも屋敷の火事に遭う前は伯爵家の子息として貴族教育を受けていたのだと改めて思い知る。

 去年は舞踏会で社交界デビューするのだと告げられ、ダンスの練習に必死だった上に、この世界のことも何も知らなかった。だが実際はオーリン家が特殊なだけで、普通の貴族は幼い頃からダンスやポーカーの練習をするんだと聞いた。
 アンリはお母様にフレッドの過去を教えてもらうまで彼のことを何も知らなかったと気に病み、悔やんでいたが、よく考えてみれば彼が貴族家の出身であるというヒントは隠れていたのだ。

 アンリが一人で思案している間に音楽はあっという間に終わりを迎えた。

「じゃあ早速、新しい曲の練習に移ろっか」
「うん。あ、でも新しい曲のダンスって難しいの?」
「ううん、心配しなくて大丈夫。今のダンスと難易度は変わらないから」
「そうなの?それなら安心かな」
「ダンスの作りは基本的にどの曲も一緒なんだ。だから一曲でもダンスを覚えてしまえば、舞踏会で流れるような曲のダンスは大抵簡単に踊れるようになるよ」
「へー、そうなんだ。じゃあよろしくね、フレッド先生」
「じゃあとりあえず、前の練習みたいにカウントに合わせて足だけ動かしていこうか」
「真似すれば良いんだよね?」
「うん、いくよ。ワン、ツー、スリー。ワン、ツー、スリー…」

 フレッドは鏡の方に体を向けると、ゆっくりカウントしながら足のみを動かす。確かに時々動きが違うが、さっき踊った曲と似た動きが多い。おかげで去年の練習の時の様に遅れることは無く、ちゃんとフレッドの動きについていける。

 そして一度、踊り終えるとフレッドはアンリに向けて嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。

「すごいよ、アンリ。今回は一回目の練習でちゃんと僕の動きについてこられてた」
「ありがとう。確かにフレッドが言ったとおり、さっき踊ったダンスに似てる動きが多くて踊りやすかったよ」
「そっか、良かった。じゃあ前までの練習は一通り踊れるようになるのが目的だったけど、今回は踊りの質を上げる方向性でいこうか」
「質?」
「うん。とは言っても舞踏会の時のダンスはすごく良かったし文句の一つも無いんだけど。そうだなぁ、優雅に踊る練習って言うのかな。頑張って踊ってますって感じが出ないように、ダンス相手と息を合わせて踊る練習かな」
「じゃあ私、フレッドみたいに踊れるようになりたい」
「僕?」
「うん!フレッドはね、流れるように踊ってて、とってもカッコいいの」
 
 アンリが自慢げに言ってみせると、フレッドは照れたように目を逸らす。

「そう…、かな。あまり周りと変わらないと思うけど…」
「ううん、例えばクイニーは力強い感じで踊るし、ちょっとずつだけどみんな違うの。それにお母様がフレッドの踊りには他の人が気づかないようなちょっとした癖があるって言ってたの。それが私の踊りにも出てたんだって」
「奥様がそんな事を?」
「うん。それにね、私はフレッドのダンスが好きだよ。なんだか優しい感じがして」
「…ありがとう。アンリのそういう素直に気持ちを表せるところ、良い所だよね」
「えへへ、ありがとう」

 こうしてダンスの練習が本格的に始まった。去年の練習の時は不安とひたすら戦っていたが、今は純粋に練習が楽しい。そう思えるのは、時々ダンスを間違える事があってもフレッドが一つ一つ丁寧に教えてくれたり、出来る事が増えると褒めてくれるからだろう。

 よく叱られると育つ子と褒められると育つ子がいると言うが、アンリは明らかに後者だ。アンリの様なタイプの人間は、おそらく一回でも怒られたら、やる気を失うどころか、また怒られるかもしれないという恐怖から逃げ出してしまうだろう。
 そんなアンリが楽しくダンスに向き合えるのは、フレッドが丁寧に向き合ってくれるからだ。