***
アンリ達が笑い終え、それぞれ定位置に腰掛け紅茶を飲んでいると突如、扉をノックする音が響き渡る。
アンリが足早に扉の元へ向かい扉を引くと、そこに立つのはカリマーだ。
ただ、さっき大講堂で共に授業を受けた時と違って、今は眼鏡を掛け仕事モードだ。それでもカリマーの口調はいつもと変わらず柔らかい。
「アンリさん、先程ぶりですね」
「カリマー先輩、お疲れ様です。どうぞ、入って下さい」
カリマーは部屋の中に足を踏み入れると、それぞれ椅子に座っている彼らに声を掛ける。
「みなさんと直接お目にかかるのは初めてでしょうか。今回は看板の制作にご協力下さり、ありがとうございました」
「いえいえ、そんな」
「僕は生徒会としてサポートする立場でありながら結局最後まで顔を出すことが出来ず、申し訳ありません」
「いえ、会長。この中に一人、誰よりも熱中していた男が居るので、気にしないで下さい」
頭を下げるカリマーに声を掛けるのは、アンリと共に生徒会長であるカリマーの仕事の一端を見たザックだ。
「ありがとうございます。それで看板の方ですが、早速校門に取り付けたいと思います」
「でもこんな大きな看板をどうやって?」
ミンスが質問するとカリマーは困ったように眉を下げる。
「実は生徒会のメンバーにこちらに来るように言ってあるのですが、どうやらまだ前の仕事が終わらないみたいで。もうしばらくすれば到着すると思うのですが…」
「そういう事なら僕達で運んじゃおうよ」
勢いよくミンスが言えば、その場の全員が首を縦に振る。
「よろしいのですか?かなりの重さがありますし、校門まで距離もありますが…」
「どうせ、生徒会の人を待ったところで人の手で運ばないといけないんだ」
「ありがとうございます。ではお願い出来ますか?」
座っていたフレッドやクイニー、ミンスやザックは立ち上がると万が一にも汚さないようにとダイニングテーブルの上に移動させていた看板の元へ向かう。もちろんアンリも彼らと共に看板を運ぶつもりで手を伸ばすが、止められてしまう。
「僕達で運ぶから、アンリちゃんはここで待ってて?」
「え、でも…」
「この看板はかなりの重さがある。アンリじゃ運べねぇだろ」
「もし万が一、何かあったら困るし、アンリは待ってて?」
フレッドまでアンリに言い聞かせるように言う。
そしてそれぞれ看板を囲むように立つと、タイミングを合わせ看板を持ち上げると扉の方へ歩き出す。だが、カリマーを合わせ五人。長方形の看板を持つにはバランスが悪い。
アンリは何かを言われる前に空いていたスペースに入り込み、看板を持つ。
確かにズッシリとした重さがあるが、持っていられないほどでは無い。
「もぉ、アンリちゃんも頑固なんだから」
「良いの。それにみんなで持った方が少しは軽くなるでしょう?」
「こうなったアンリ様は意地でも一緒に来ると言うんだろうし、仕方ないな」
「アンリさん、辛くなったら遠慮せずに手を離して下さいね」
「はい、分かりました」
アンリ達は廊下へ出ると、階段を降りていく。一直線の廊下はペースさえ合わせてしまえば良いものの、階段はそれぞれ立つ場所によって看板が斜めになってしまうし、カーブもある。声を掛け合わないと角がぶつかってしまう。
「うぅ…、潰れる…」
「もうちょっとだから頑張って」
看板を持ち階段を降りようとすると横幅はギリギリで、カーブで曲がるときは冗談抜きで潰される。それがとてつもなく痛いのだ。しかも背後は壁で体を動かして避ける余裕も無い。
今思えば、このカラフルに色づいた看板がただの木の板だった時、生徒会の人達は同じような思いをしながら、わざわざ三階まで運んでくれたのだろう。そう思うと感謝しかない。
別館を出て校門へ歩いて行くが、看板を運ぶ集団はただでさえ目立つ。おまけに運んでいるメンバーがメンバーだ。さすがに声を掛けてくる学生は居ないものの、遠くに居る学生ですらアンリ達に視線を向けている。
「では、ゆっくり降ろしますよ。…はい、オッケーです。お疲れ様でした」
「んー、疲れたぁ」
ようやく校門前に到着しカリマーの声に合わせ看板を壁に立てかけるように下ろす。
普段重たい物を運ぶ事の無いアンリ達の体には、かなり応えた。それぞれ腕を伸ばしたり、腰を動かす。
そんなアンリ達と違い、カリマーは平気そうな素振りを見せるが、絶対にキツかっただろう。なんせ、体力はアンリより無いのだ。
「カリマー!…じゃなくて会長!」
離れた場所で明日の学祭に向けて模擬店の準備をしている学生達に指示を出していた眼鏡を掛け、髪を三つ編みのおさげにした女学生がカリマーを見つけると小走りでやって来る。確か生徒会の副会長を務めていると言っていた人だ。
「フルール、お疲れ様。他の生徒会は?」
「それがまだ集まっていないの」
「そうか」
「まさかカリ…、じゃなくて会長が看板を運んで来たの?」
「いいよ、カリマーで。そもそも会長と呼ばれるのはあまり好きじゃ無いと言っているだろう?」
「そうだった、ごめんね」
「それで看板は彼らが運ぶのを手伝ってくれたんだ」
その一声でようやくフルールはアンリ達の存在に気がついたらしい。カリマーのすぐ近くに居たクイニーやミンスを視界に入れると、少し照れたように頬を赤らめながら「ごめんなさい」と声を出す。
「私、全然気がつかなくて」
「目の前に居る俺らに気がつかないとか、普通あるか?」
「こら、クイニー」
カリマーから副会長であるフルールとは幼馴染であり、婚約者だと聞いていたし、カリマーがフルールをどれだけ好いて大切に想っているのかはカリマーの表情を見れば一目瞭然だ。
だがフルールも負けず劣らず、カリマーの事を好いているのだろう。実行委員会で前に立っていた時はただただ真面目な印象だったが、カリマーの前になるとお喋りになって笑顔がとても可愛らしい。
「みなさん、協力して下さりありがとうございます。みなさんの作って下さった看板、想像以上に素敵です!」
「ありがとうございます」
「デザインを考えていた時はなかなか配色まで決められなくて…。でも、みなさんにお任せして正解でした」
「もしかしてデザインを考えたのって…」
「はい、私です」
「そうだったんですか」
ミンスやザックと会話していたフルールと突如目が合う。フルールは眼鏡の奥の瞳を宝石のようにキラキラと輝かせると、アンリに駆け寄りいきなりアンリを抱きしめる。
「わぁ、可愛いですぅ!」
「えっ?えっと副会長さん…?」
「副会長じゃなくて、フルールと呼んでください」
「じゃあフルール先輩、これは…」
「ごめんなさい。貴方がものすごく可愛くて、抱きしめたい衝動を抑えられなかったんです。貴方のお名前は?」
身長がアンリの胸元辺りまでしかないフルールは上目遣いでアンリのブルーの瞳を見つめ、コクンと首を傾げる。
「えっと、アンリ・オーリンです」
「貴方がアンリちゃんだったんですか!」
「私を知っているんですか?」
「もちろんです!明日の舞台で主役を務めるんですよね。カリマーからいつもお話は聞いていました。でもこんなに可愛らしい女の子だったなんて!」
フルールは小さく華奢な体全身で喜びと興奮を表現する。
そしてなかなか離れようとしないフルールにカリマーは溜息を吐くと、アンリからフルールを引き離す。
「ほら、アンリさんも困っているから」
「うぅだって…」
「初対面でいきなり抱きしめられたら、誰だって驚くだろう?」
「うん…」
「ほら、そんなに落ち込まないの」
カリマーは普段キューバに対して注意する時と違って声が数段甘い。彼女であるフルールにだけに見せる一面を見ていると、なんだかこっちが恥ずかしくなる。
アンリの視線に気がついたカリマーは咳払いすると弁明するように声を出す。
「あ、えっと、アンリさんごめんなさい。別にフルールも悪い奴じゃないんです。ただ可愛いモノを見ると衝動的に抱きしめてしまう変な癖があるから僕も困っているんですけど…」
「確かに驚きはしましたけど大丈夫です。それより先輩も好きな人を前にすると、甘い表情になるんですね」
アンリが少し揶揄うように言ってみるとカリマーは顔を真っ赤に染める。髪で耳は隠れているが、きっと耳まで真っ赤なのだろう。
それにしてもカリマーが表情をコロコロと変え、感情を表に出す姿は珍しい。それこそ、会長室で爆笑していた以来。
恋をするとこんなにも人を変えてしまうのか。恐るべき、恋のパワー。
赤くなるカリマーを見たフルールは照れるどころか、嬉しそうに目を緩める。
「あ!カリマーが照れてる、可愛い!」
フルールは悶えると、我慢できなかったのかカリマーに勢いよく抱きつく。
「あぁ可愛い!ここはたくさんの可愛いが溢れていて、溺れちゃいそうですぅ」
「こら、フルール。この間、人前では我慢するように言ったばかりじゃないか」
「だってぇ、この衝動を抑えたら死んじゃう」
カリマーは顔から湯気が出そうな勢いだ。
でも確かにこれまで眼鏡を掛けた仕事モードの時には落ち着いていて仕事の出来る人を演じていたというのに、想いを寄せる異性の前になると無意識のうちに甘くなり、おまけに弱くなってしまう姿を公衆の場で晒しているのだ。見ているアンリですら恥ずかしいのだから、当事者であるカリマーの恥ずかしさと言ったら何倍、何十倍にもなるだろう。
それまで動向を見ていたフレッドやクイニー、ザックは目を逸らしたり、見て見ぬふりをして誤魔化しているが、一人俯くミンスはまるで当事者のカリマーのように顔を真っ赤にしている。
「ミンスくん、顔真っ赤」
「いつもすぐ抱きついたり、くっつくくせに、見るのは恥ずかしいのか?」
「だって…」
ミンスは小さく唸ると、隠れるようにザックの背中の陰に隠れる。確かにアンリ達もカリマーやフルールを見ていて照れていたのは事実だが、ミンスにとっては余程恥ずかしかったのだろうか。
甘さと恥ずかしさの入り交じる空間を正すように「会長!お待たせしました!」と男女それぞれ二名の学生達が走っている。
カリマーはそんな彼らを見るとまるで救世主が現れたかのようにホッとした表情を写す。
「丁度良いところに。ほらフルール、仕事だ」
「じゃあまた後で、お屋敷に帰ったら抱きしめても良い?」
「それは仕事を頑張ってくれたら、だよ」
「うん!私、頑張る!」
フルールはカリマーの背に回していた腕を解くと、緩んでいた頬を引き締め真面目な表情になる。カリマーも同じく、一瞬にして仕事モードへ変わる。
「すごい、会長さんも副会長さんも一気に顔が変わった」
四人組が到着するとカリマーはそれぞれに指示を与えていく。そして無駄の無い指示に生徒会の四人は動き出す。
「さぁ、ここからは生徒会が責任を持って作業します。みなさん、改めてご協力ありがとうございました。それとアンリさんとレジスさん、明日の見回りもよろしくお願いしますね」
「はい、お疲れ様です」
「アンリちゃんの舞台、私も絶対に見に行きますから」
アンリ達は一度カリマーやフルールと別れると、別館に戻る。そして部屋に置きっぱなしにしていた鞄を持つと扉を施錠し、再び校門へ戻る。
普段は屋敷でやる事が無い限り、夕暮れ前までクラブで過ごすことが多いアンリ達だが、今日は明日忙しくなる事を見越して早めに解散しようと事前に決めていたのだ。ルイにもその事を話していたため、アンリ達が校門へ戻ると黒塗りの馬車が停まっている。
アンリとフレッドがクイニーやミンス、ザックと別れ馬車に乗り込むと、カリマーと仕事の話をしていたフルールが笑みを浮かべて手を振ってくれる。アンリも遠慮がちに手を振り返すと、フルールは満面の笑みを浮かべる。
馬車はゆっくりと動き出すと、屋敷への道を走って行く。フレッドと二人、馬車に揺られる時間は心地良い。一人で馬車に揺られていた去年と違って、喋り相手が居てくれる事が嬉しいのだ。
「アンリ、明日はいよいよ本番だけど緊張してる?」
「ううん、実はまだあまり実感が無いのか緊張とか全くしてないの」
「アンリってもしかして、そこまで緊張しないタイプなのかな」
「ううん、そんな事無いよ。この世界に来る前とか、何をするにも緊張して、人前に立つ時なんて、声とか手が震えて大変だったもん」
「でもこっちに来てから、そこまで緊張していないよね」
フレッドの言うとおり、こっちの世界に来てから昔ほど緊張する事が無くなった。去年、社交界デビューを兼ねて開かれた舞踏会、あの時は舞踏会前日の夜までは緊張していたものの、当日になると不思議と心が凪いでいた。
少し前に行なわれたソアラ家での舞踏会では緊張する事は特になかったし、授業でグループワークがあったり、教室の前に立って発表する機会があっても、人見知りは相変わらずあるものの、鼓動が早くなったり手が小刻みに震える事も無くなった。
そもそも暗璃の頃なら何かの間違いで配役についたら緊張云々の前に、台詞のほとんど無いモブ役でも自ら降りているだろう。
「でも一つ思い当たる事があるとすれば、今の私はあの頃違って自信を持てている事かな」
「自信?」
「この世界に来るまでの私の周りには認めてくれる人が居なかったっていうのもあって、私自身が新しいことに挑戦する事を避けてきたし、何をするにも怯えて、自分に自信なんて持てなかったの。でもこの世界に来て、少しでも自分を変えたいって逃げずに色々な事に挑戦してみた。そしてそんな頑張りを認めている人達がいる。だからあの頃と違って、今の私は自分に自信を持てていると思うんだ」
「うん、確かに身近に認めてくれる人がいるって安心するし、徐々に自分自身を肯定出来るようになるよね。僕も最近、それが分かってきたかもしれない」
この世界で目覚めて容姿が変わっても、アンリは暗璃だ。もしこの世界で目覚めて、フレッド達のようにアンリを受け入れて、認めてくれたり褒めてくれたり、共に笑い合う人達がいなければ、あの頃と考え方や生き方は変わらなかっただろう。
アンリ達が笑い終え、それぞれ定位置に腰掛け紅茶を飲んでいると突如、扉をノックする音が響き渡る。
アンリが足早に扉の元へ向かい扉を引くと、そこに立つのはカリマーだ。
ただ、さっき大講堂で共に授業を受けた時と違って、今は眼鏡を掛け仕事モードだ。それでもカリマーの口調はいつもと変わらず柔らかい。
「アンリさん、先程ぶりですね」
「カリマー先輩、お疲れ様です。どうぞ、入って下さい」
カリマーは部屋の中に足を踏み入れると、それぞれ椅子に座っている彼らに声を掛ける。
「みなさんと直接お目にかかるのは初めてでしょうか。今回は看板の制作にご協力下さり、ありがとうございました」
「いえいえ、そんな」
「僕は生徒会としてサポートする立場でありながら結局最後まで顔を出すことが出来ず、申し訳ありません」
「いえ、会長。この中に一人、誰よりも熱中していた男が居るので、気にしないで下さい」
頭を下げるカリマーに声を掛けるのは、アンリと共に生徒会長であるカリマーの仕事の一端を見たザックだ。
「ありがとうございます。それで看板の方ですが、早速校門に取り付けたいと思います」
「でもこんな大きな看板をどうやって?」
ミンスが質問するとカリマーは困ったように眉を下げる。
「実は生徒会のメンバーにこちらに来るように言ってあるのですが、どうやらまだ前の仕事が終わらないみたいで。もうしばらくすれば到着すると思うのですが…」
「そういう事なら僕達で運んじゃおうよ」
勢いよくミンスが言えば、その場の全員が首を縦に振る。
「よろしいのですか?かなりの重さがありますし、校門まで距離もありますが…」
「どうせ、生徒会の人を待ったところで人の手で運ばないといけないんだ」
「ありがとうございます。ではお願い出来ますか?」
座っていたフレッドやクイニー、ミンスやザックは立ち上がると万が一にも汚さないようにとダイニングテーブルの上に移動させていた看板の元へ向かう。もちろんアンリも彼らと共に看板を運ぶつもりで手を伸ばすが、止められてしまう。
「僕達で運ぶから、アンリちゃんはここで待ってて?」
「え、でも…」
「この看板はかなりの重さがある。アンリじゃ運べねぇだろ」
「もし万が一、何かあったら困るし、アンリは待ってて?」
フレッドまでアンリに言い聞かせるように言う。
そしてそれぞれ看板を囲むように立つと、タイミングを合わせ看板を持ち上げると扉の方へ歩き出す。だが、カリマーを合わせ五人。長方形の看板を持つにはバランスが悪い。
アンリは何かを言われる前に空いていたスペースに入り込み、看板を持つ。
確かにズッシリとした重さがあるが、持っていられないほどでは無い。
「もぉ、アンリちゃんも頑固なんだから」
「良いの。それにみんなで持った方が少しは軽くなるでしょう?」
「こうなったアンリ様は意地でも一緒に来ると言うんだろうし、仕方ないな」
「アンリさん、辛くなったら遠慮せずに手を離して下さいね」
「はい、分かりました」
アンリ達は廊下へ出ると、階段を降りていく。一直線の廊下はペースさえ合わせてしまえば良いものの、階段はそれぞれ立つ場所によって看板が斜めになってしまうし、カーブもある。声を掛け合わないと角がぶつかってしまう。
「うぅ…、潰れる…」
「もうちょっとだから頑張って」
看板を持ち階段を降りようとすると横幅はギリギリで、カーブで曲がるときは冗談抜きで潰される。それがとてつもなく痛いのだ。しかも背後は壁で体を動かして避ける余裕も無い。
今思えば、このカラフルに色づいた看板がただの木の板だった時、生徒会の人達は同じような思いをしながら、わざわざ三階まで運んでくれたのだろう。そう思うと感謝しかない。
別館を出て校門へ歩いて行くが、看板を運ぶ集団はただでさえ目立つ。おまけに運んでいるメンバーがメンバーだ。さすがに声を掛けてくる学生は居ないものの、遠くに居る学生ですらアンリ達に視線を向けている。
「では、ゆっくり降ろしますよ。…はい、オッケーです。お疲れ様でした」
「んー、疲れたぁ」
ようやく校門前に到着しカリマーの声に合わせ看板を壁に立てかけるように下ろす。
普段重たい物を運ぶ事の無いアンリ達の体には、かなり応えた。それぞれ腕を伸ばしたり、腰を動かす。
そんなアンリ達と違い、カリマーは平気そうな素振りを見せるが、絶対にキツかっただろう。なんせ、体力はアンリより無いのだ。
「カリマー!…じゃなくて会長!」
離れた場所で明日の学祭に向けて模擬店の準備をしている学生達に指示を出していた眼鏡を掛け、髪を三つ編みのおさげにした女学生がカリマーを見つけると小走りでやって来る。確か生徒会の副会長を務めていると言っていた人だ。
「フルール、お疲れ様。他の生徒会は?」
「それがまだ集まっていないの」
「そうか」
「まさかカリ…、じゃなくて会長が看板を運んで来たの?」
「いいよ、カリマーで。そもそも会長と呼ばれるのはあまり好きじゃ無いと言っているだろう?」
「そうだった、ごめんね」
「それで看板は彼らが運ぶのを手伝ってくれたんだ」
その一声でようやくフルールはアンリ達の存在に気がついたらしい。カリマーのすぐ近くに居たクイニーやミンスを視界に入れると、少し照れたように頬を赤らめながら「ごめんなさい」と声を出す。
「私、全然気がつかなくて」
「目の前に居る俺らに気がつかないとか、普通あるか?」
「こら、クイニー」
カリマーから副会長であるフルールとは幼馴染であり、婚約者だと聞いていたし、カリマーがフルールをどれだけ好いて大切に想っているのかはカリマーの表情を見れば一目瞭然だ。
だがフルールも負けず劣らず、カリマーの事を好いているのだろう。実行委員会で前に立っていた時はただただ真面目な印象だったが、カリマーの前になるとお喋りになって笑顔がとても可愛らしい。
「みなさん、協力して下さりありがとうございます。みなさんの作って下さった看板、想像以上に素敵です!」
「ありがとうございます」
「デザインを考えていた時はなかなか配色まで決められなくて…。でも、みなさんにお任せして正解でした」
「もしかしてデザインを考えたのって…」
「はい、私です」
「そうだったんですか」
ミンスやザックと会話していたフルールと突如目が合う。フルールは眼鏡の奥の瞳を宝石のようにキラキラと輝かせると、アンリに駆け寄りいきなりアンリを抱きしめる。
「わぁ、可愛いですぅ!」
「えっ?えっと副会長さん…?」
「副会長じゃなくて、フルールと呼んでください」
「じゃあフルール先輩、これは…」
「ごめんなさい。貴方がものすごく可愛くて、抱きしめたい衝動を抑えられなかったんです。貴方のお名前は?」
身長がアンリの胸元辺りまでしかないフルールは上目遣いでアンリのブルーの瞳を見つめ、コクンと首を傾げる。
「えっと、アンリ・オーリンです」
「貴方がアンリちゃんだったんですか!」
「私を知っているんですか?」
「もちろんです!明日の舞台で主役を務めるんですよね。カリマーからいつもお話は聞いていました。でもこんなに可愛らしい女の子だったなんて!」
フルールは小さく華奢な体全身で喜びと興奮を表現する。
そしてなかなか離れようとしないフルールにカリマーは溜息を吐くと、アンリからフルールを引き離す。
「ほら、アンリさんも困っているから」
「うぅだって…」
「初対面でいきなり抱きしめられたら、誰だって驚くだろう?」
「うん…」
「ほら、そんなに落ち込まないの」
カリマーは普段キューバに対して注意する時と違って声が数段甘い。彼女であるフルールにだけに見せる一面を見ていると、なんだかこっちが恥ずかしくなる。
アンリの視線に気がついたカリマーは咳払いすると弁明するように声を出す。
「あ、えっと、アンリさんごめんなさい。別にフルールも悪い奴じゃないんです。ただ可愛いモノを見ると衝動的に抱きしめてしまう変な癖があるから僕も困っているんですけど…」
「確かに驚きはしましたけど大丈夫です。それより先輩も好きな人を前にすると、甘い表情になるんですね」
アンリが少し揶揄うように言ってみるとカリマーは顔を真っ赤に染める。髪で耳は隠れているが、きっと耳まで真っ赤なのだろう。
それにしてもカリマーが表情をコロコロと変え、感情を表に出す姿は珍しい。それこそ、会長室で爆笑していた以来。
恋をするとこんなにも人を変えてしまうのか。恐るべき、恋のパワー。
赤くなるカリマーを見たフルールは照れるどころか、嬉しそうに目を緩める。
「あ!カリマーが照れてる、可愛い!」
フルールは悶えると、我慢できなかったのかカリマーに勢いよく抱きつく。
「あぁ可愛い!ここはたくさんの可愛いが溢れていて、溺れちゃいそうですぅ」
「こら、フルール。この間、人前では我慢するように言ったばかりじゃないか」
「だってぇ、この衝動を抑えたら死んじゃう」
カリマーは顔から湯気が出そうな勢いだ。
でも確かにこれまで眼鏡を掛けた仕事モードの時には落ち着いていて仕事の出来る人を演じていたというのに、想いを寄せる異性の前になると無意識のうちに甘くなり、おまけに弱くなってしまう姿を公衆の場で晒しているのだ。見ているアンリですら恥ずかしいのだから、当事者であるカリマーの恥ずかしさと言ったら何倍、何十倍にもなるだろう。
それまで動向を見ていたフレッドやクイニー、ザックは目を逸らしたり、見て見ぬふりをして誤魔化しているが、一人俯くミンスはまるで当事者のカリマーのように顔を真っ赤にしている。
「ミンスくん、顔真っ赤」
「いつもすぐ抱きついたり、くっつくくせに、見るのは恥ずかしいのか?」
「だって…」
ミンスは小さく唸ると、隠れるようにザックの背中の陰に隠れる。確かにアンリ達もカリマーやフルールを見ていて照れていたのは事実だが、ミンスにとっては余程恥ずかしかったのだろうか。
甘さと恥ずかしさの入り交じる空間を正すように「会長!お待たせしました!」と男女それぞれ二名の学生達が走っている。
カリマーはそんな彼らを見るとまるで救世主が現れたかのようにホッとした表情を写す。
「丁度良いところに。ほらフルール、仕事だ」
「じゃあまた後で、お屋敷に帰ったら抱きしめても良い?」
「それは仕事を頑張ってくれたら、だよ」
「うん!私、頑張る!」
フルールはカリマーの背に回していた腕を解くと、緩んでいた頬を引き締め真面目な表情になる。カリマーも同じく、一瞬にして仕事モードへ変わる。
「すごい、会長さんも副会長さんも一気に顔が変わった」
四人組が到着するとカリマーはそれぞれに指示を与えていく。そして無駄の無い指示に生徒会の四人は動き出す。
「さぁ、ここからは生徒会が責任を持って作業します。みなさん、改めてご協力ありがとうございました。それとアンリさんとレジスさん、明日の見回りもよろしくお願いしますね」
「はい、お疲れ様です」
「アンリちゃんの舞台、私も絶対に見に行きますから」
アンリ達は一度カリマーやフルールと別れると、別館に戻る。そして部屋に置きっぱなしにしていた鞄を持つと扉を施錠し、再び校門へ戻る。
普段は屋敷でやる事が無い限り、夕暮れ前までクラブで過ごすことが多いアンリ達だが、今日は明日忙しくなる事を見越して早めに解散しようと事前に決めていたのだ。ルイにもその事を話していたため、アンリ達が校門へ戻ると黒塗りの馬車が停まっている。
アンリとフレッドがクイニーやミンス、ザックと別れ馬車に乗り込むと、カリマーと仕事の話をしていたフルールが笑みを浮かべて手を振ってくれる。アンリも遠慮がちに手を振り返すと、フルールは満面の笑みを浮かべる。
馬車はゆっくりと動き出すと、屋敷への道を走って行く。フレッドと二人、馬車に揺られる時間は心地良い。一人で馬車に揺られていた去年と違って、喋り相手が居てくれる事が嬉しいのだ。
「アンリ、明日はいよいよ本番だけど緊張してる?」
「ううん、実はまだあまり実感が無いのか緊張とか全くしてないの」
「アンリってもしかして、そこまで緊張しないタイプなのかな」
「ううん、そんな事無いよ。この世界に来る前とか、何をするにも緊張して、人前に立つ時なんて、声とか手が震えて大変だったもん」
「でもこっちに来てから、そこまで緊張していないよね」
フレッドの言うとおり、こっちの世界に来てから昔ほど緊張する事が無くなった。去年、社交界デビューを兼ねて開かれた舞踏会、あの時は舞踏会前日の夜までは緊張していたものの、当日になると不思議と心が凪いでいた。
少し前に行なわれたソアラ家での舞踏会では緊張する事は特になかったし、授業でグループワークがあったり、教室の前に立って発表する機会があっても、人見知りは相変わらずあるものの、鼓動が早くなったり手が小刻みに震える事も無くなった。
そもそも暗璃の頃なら何かの間違いで配役についたら緊張云々の前に、台詞のほとんど無いモブ役でも自ら降りているだろう。
「でも一つ思い当たる事があるとすれば、今の私はあの頃違って自信を持てている事かな」
「自信?」
「この世界に来るまでの私の周りには認めてくれる人が居なかったっていうのもあって、私自身が新しいことに挑戦する事を避けてきたし、何をするにも怯えて、自分に自信なんて持てなかったの。でもこの世界に来て、少しでも自分を変えたいって逃げずに色々な事に挑戦してみた。そしてそんな頑張りを認めている人達がいる。だからあの頃と違って、今の私は自分に自信を持てていると思うんだ」
「うん、確かに身近に認めてくれる人がいるって安心するし、徐々に自分自身を肯定出来るようになるよね。僕も最近、それが分かってきたかもしれない」
この世界で目覚めて容姿が変わっても、アンリは暗璃だ。もしこの世界で目覚めて、フレッド達のようにアンリを受け入れて、認めてくれたり褒めてくれたり、共に笑い合う人達がいなければ、あの頃と考え方や生き方は変わらなかっただろう。

