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「遅いぞ」
「ごめんって。なかなかペンキが落ちなくて」

 フレッドと二人、ある程度綺麗になった筆を持って部屋に戻ると、既に片付けを終えた彼らはそれぞれダイニングテーブルに並んで座りそれぞれプリントやノート、参考書を開いている。アンリとフレッドも持っていた筆を風通しの良い窓際に並べると、鞄を持ち彼らの向かい側の椅子に並んで腰掛ける。

「じゃあそれぞれ勉強をしていって、分からないところはその都度聞くって事で」
「うん、分かった」

 鞄を探り、取り出したのは問題集。これは授業で貰っていたモノでミンスも同じモノを机に出している。クイニーやザックも問題集や参考書を出しているが、アンリ達の使うモノとは別物だ。

 この学園のレベルは大きく分けて三種類に分類される。労働者階級の学生が学ぶエントリーレベル、貴族階級の学生の大半が在籍するベーシックレベル。そしてアドバンスレベルだ。
 アンリとミンスはベーシックレベルで理系文系関係なく、広く浅く様々な学問を学んでいるが、クイニーとザックはアドバンスレベル。その中でも一番難しいと言われている理系科で学んでいる。ちなみにフレッドもアドバンスレベルの理系科だ。

 スラスラと文字を書く音が聞こえたり、筆圧の強いカリカリという音が聞こえてきたりと、人によって同じ文字を書く作業でも作り出す音が違う。
 アンリの手元はと言うと唯一無音だ。ひたすら問題集に書かれた問題と解説を読んでいるのだが、イマイチなにを言っているのか分からない。

 ペンを一切動かす事無く問題集を見つめるアンリの浮かない表情に気がつくとフレッドは静かにペンを置く。

「アンリ?手、止まってる」
「…分かんない」
「ちなみに今どこやってるの?」
「今回の範囲の最初の問題…」
「それって前回の範囲のおさらいじゃねぇのか?」

 クイニーの突っ込みに静かに頷けばクイニーやフレッドだけでなく、いつの間にか手を止めていたミンスやザックまでアンリを見つめ、黙り込む。

「え?ちょっとみんな?なんで急に黙るの?」

 アンリを置いて四人は視線を合わせると目線だけで会話をする。そして同時に開いていた問題集や参考書を閉じると、体ごとアンリに向き直る。

「え、なに?勉強しないの?」
「いや、これは緊急事態だと分かった」
「緊急事態?どういう意味?」
「アンリ、これは噂なんだが…」

 一人この場の状況について行けていないアンリにクイニーは深刻そうな表情を浮かべた後、続きを話す。

「もし次のテストで余程酷い点数を取ったら、長期休暇中の課題だけじゃ済まないぞ」
「…どう言うこと?」
「学祭で舞台に立つ芸術科目、演劇とかオペラ、演奏なんかを選択している学生が今度のテストで余程酷い成績を取ると、学祭当日は舞台に立たせて貰えないらしい」
「え…?嘘でしょ…」
「噂程度に聞いた話だから真相は分からないが、十分可能性のある話らしい。アンリは主役を務めるために練習を頑張っているんだろう?それが無駄にならない為にも、何が何でも勉強するぞ」

 真剣な眼差しで告げられる忠告に、アンリの顔はどんどん血色を失っていく。
 そんなアンリを励ます様に元気よくミンスが声を出す。

「アンリちゃん、大丈夫だよ。ここには一年生と二年生の学年トップが居るんだから」
「そう、だよね…。そんな人達に教えて貰って私のテストの成績が悪ければ、私のせいじゃない…よね」
「うわぁ、すごい責任転嫁」
「とりあえずやってみるしかないな」

 そしてこの日から一週間、放課後になるとアンリ一人に対し四人からのスパルタ授業が開かれることとなった。とは言いつつも、アンリに勉強を教えるのは大抵フレッドとザックだ。
 説明を聞いても理解出来ないアンリと、その都度噛み砕いたように説明してくれるフレッドをクイニーは呆れたように眺め、時に茶々を入れる。ミンスはそんなクイニーを宥めたり、時にアドバイスしようとしてくれるものの相変わらずフィーリングで教えてくるため「これ以上混乱させるな」とザックに止められた。
 
 勉強していると不思議なことに、いつもより時間の進みが遅く感じる。いつもならあっという間に日が暮れて青空が恋しく思えるというのに、この一週間は夕暮れが待ち遠しく、屋敷に帰り夕食を取った後も入浴の時間まで書庫でフレッドに勉強を教えて貰うのだった。

そんな日々が続いたある日の放課後、ミンスと共にクラブにやって来たアンリはだらしない事を自覚しながらもソファーに足を上げ横になり項垂れていた。それぞれ授業を終え集まってきたクイニーやザック、フレッドはそんなアンリを見ると苦笑いを浮かべる。

「おいアンリ、だらけるのは良いが、足は閉じろ」
「無理、もう動けない…」
「はぁ、お前は自分が女だという自覚はあるのか…?」

 クイニーは独り言をブツブツと呟きながら、いつものように肘掛け椅子に腰掛ける。そして今日の昼間、学生全員にそれぞれ配布されたプリントに視線を落としたかと思えば、すぐに半分に折ってローテーブルの上に飛ばす。
 寝転がるアンリの頭のすぐ近くに腰掛けるフレッドやカウチに並んで座るミンスやザックも同じようにプリントに目を通している。

 アンリも彼らと同じようにプリントを貰っていたが見る気になれないまま、アンリのプリントはローテーブルの上に二つ折りにして置きっぱなしだ。

「今回は僕、四位かぁ。順位は上がったけど、ちょっとしたミスが目立つし悔しいなぁ。ザックとクイニーはいつも通り?」
「あぁ、まぁな」
「やっぱりすごいね〜。フレッドくんは?今回はどうだった?」
「僕はえっと…」

 ミンスは立ち上がると、言い淀むフレッドのプリントを覗き込むと「おぉ」と声を上げる。
 アンリは彼らの会話を聞きながらも天井を見つめているため、どんな表情で彼らが会話しているのかは分からない。まぁミンスの表情なら見なくても想像はつくが。

「すごいね!今回も満点だ~」
「いえ、自習していた所が出てくれただけなので」
「それでも十分すごいよ!ねっ、ザック」
「あぁ、謙遜せずに自信を持った方が良い。いくら自習していても簡単に出来る事じゃ無い」

 ミンスやクイニー、ザックやフレッドは自分たちの成績を一通り共有し終えると、顔を合わせ苦笑いを浮かべながら再びアンリを見る。

「それで…、アンリちゃんは?」
「そうだぞ、俺らの点数や順位なんて大抵予想がついていたが、一番の問題が残っているだろ」
「…まだ見てない」

 彼らの話を聞いていれば分かるが、プリントには先日行なわれたテストの点数や順位と言った成績が細かく書かれている。そしてアンリが項垂れている理由もコレだ。
 テストの存在を思い出したあの日以降、アンリはスパルタ授業を受け、出来る限りの勉強はやったつもりだ。

「見ても良い?」
「…良いけど、私はそれでも努力はしたからね?」
「もぉ、見る前からそんな風に言っちゃダメだよ」
「さぁどれどれ…」

 四人はローテーブルに置いてあるアンリのプリントを取ると揃って見始める。

 彼らにも言ったとおり、出来るだけの努力はしたつもりだ。だがテストを受けた手応えは全くと言って良いほど無い。
 もちろん教えて貰ったからこそ解けた問題もあるが、テストによっては一つずつ回答欄がズレていたという典型的なミスにテスト終了を告げられると共に気がついた。
 
 今まで主役を務めるために練習してきたが、今のうちに諦めることを覚悟しておいた方が良いかもしれない。それと長期休暇中の課題も…。

「えっ、全然大丈夫じゃん」
「…へ?」

 予想外の反応に寝転がっていた体を勢いよく持ち上げると、それまで見ないようにしていたプリントを受け取る。
 あんなに悲惨な点数を想像していたのに、確かに赤点は回避している。

「なんだ、アンリ様がずっと項垂れているからダメだったのかと思った」
「はい、僕も」
「ほんと人騒がせな奴だな」
「しかも今回の点数に順位、前回より上がっているのでは?」
「やっぱり僕達が教えてあげたからかな?」
「ミンスは何もしていないだろう?」
「そんな事ないもん。僕だって応援したし」
「応援ってなぁ」

 呆然とプリントを眺めるアンリの隣でフレッドはアンリに笑いかける。
 
「よく頑張ったね、アンリ」
「私、舞台に立てるの…?」
「うん、そうだよ」
「ありがとう、フレッド。ザックくんもありがとう」
「どういたしまして」
「アンリ様の力になれたなら良かった」 

 フレッドとザックにお礼を告げながら笑いかけると、二人もアンリに笑い返す。
 自分の勉強を置いてまでアンリに付き合ってくれた二人には本当に感謝しかない。二人に教わっていなければ、今頃泣いていただろう。

 一連の様子を眺めていたクイニーは突如立ち上がる。

「よし、じゃあこれで気兼ねなく看板の制作に取り掛かる事が出来るわけだな」
「あはは、本当にクイニーが一番やる気あるじゃん」
「私では無く、クイニーが実行委員の方が良かったんじゃないのか?」

 そして五人、特にアンリはテストという壁を乗り越え、モードは一気に学祭準備に移り変わる。看板制作は主にクイニーの謎のやる気のおかげでハイペースに作業が進み、演劇の方も最近は舞台をより良く見せるために技術面を磨いているところだ。