実行委員を引き受けて数日が経った放課後、窓を開けて換気していても、ペンキ特有の独特な匂いが漂う部屋で、アンリ達は今日も看板の制作に取りかかっていた。
五人で一枚の板に向き合い、フレッドの描いてくれた下書きに合わせ色を落としていく。
いくら手直しが出来るとはいえ、線の外に色をはみ出してしまうのが怖いアンリはなるべく塗るスペースの広い部分ばかりを選んで筆を滑らせ、アンリの隣に腰を下ろすフレッドはアンリが避けた細かい部分に色を乗せる。板を挟んで向かい側に腰を落とすミンスとザックも同じように筆を滑らせる。
そして予想外な事に、学祭のタイトルという看板のど真ん中に位置し、一番細かく複雑なデザインはクイニーが一人で筆を滑らせていた。
人には意外な一面があるというのは案外間違っていないようで、クイニーは性格に似合わず細かい作業が得意なようで、どんなに繊細な場所でも一切枠をはみ出す事がなく、均一に色を塗るのだ。
なによりクイニーが真剣な眼差しで何かに集中している姿はかなりレアだ。
ふと筆を止め、それぞれの顔を流れるように見ていく。彼らは揃って伯爵や子爵家の子息達だが、こうして学祭の為に一つの看板を作っていると、アンリを含めた彼らが貴族だという事を忘れそうになる。
ほとんど会話が生まれる事もなく黙々と作業をしていると、突拍子も無くミンスが立ち上がったかと思えば体を伸ばす。
「はぁ~、疲れたぁ」
「なに言ってるんだ。ミンスが塗った面積、誰よりも少ないだろ」
手を止めたクイニーがすぐに口を挟む。本来アンリとザックの仕事である看板作りを手伝ってくれているだけで十分ありがたいことだが、言われてみれば今日のミンスは時々手を止めて目を擦ったり、大口を開けてあくびをしていて、なかなか手が進んでいない。
「そうだけど~、昨日の夜、あんまり眠れてないんだもん」
「ふぅん、で?何時間寝たんだよ」
「んっとね、六時間くらいかな~」
「は!?六時間で少ないって言ってんのか?!」
「だっていつもは九時間は寝てるんだもん」
「九時間って、お前は子どもか」
「健康で良いでしょ」
「で?寝ないで何をしてたんだよ」
「勉強してたの」
「勉強?あぁ、テストのか」
「今回の範囲はそろそろ本格的に勉強しておかないと間に合わないんだもん」
再び腰を下ろすミンスとクイニーの会話を右手を動かしながら耳に入れていたアンリは何気なく話す二人の会話に手を止めると共に、一気に背筋が凍る。そして恐る恐る顔を上げると、二人の会話に入り込む。
「…ねぇ、テストっていつ?」
「忘れたの?来週だよ」
来週…、終わった…。
これまでテスト前は最低でも二週間前から勉強を始めて、それでやっと中の下の成績を取っていた。それなのに今回は舞台の練習や看板の制作に気を取られてテストがある事をすっかり忘れていた。しかも今回のテスト範囲は授業を受けていてもさっぱりで、全くと言って良いほど理解出来ていない。
そういえばここ最近、今まで以上にフレッドが屋敷の書庫で勉強をしていたが、あれはテスト勉強だったのか。フレッドは勉強好きで前々からよく書庫で勉強する姿を見ていたため、今回もそれだと思い込み、アンリはフレッドの隣で台本や小説ばかりを読んでいた。
そういえば先日、小説に夢中になっているとフレッドから「大丈夫なの?」と心配された。その時はすっかり演劇の授業の事を聞かれているのだと思い込んでいたが、あれはテストの心配をしていたのだと今更になって理解する。
アンリの色白な顔は現実を受け入れたくないあまり、青白く変化する。
「お前、顔色悪くねぇか?どうしたんだよ」
「終わった…。私テストのこと、すっかり忘れてた…」
「テストなんて授業がある程度理解出来ていたら大丈夫だろ」
「授業を受けてても難しくて、ほとんど理解出来てない…。それに最近は何をしてても演劇の事ばかり考えちゃって…」
「確かに最近のアンリちゃん、一緒に授業を受けてても手が止まってる事が多かったかも」
「終わったな」
途端に見捨てるクイニーにアンリは反論する気も起きないまま、肩を落とす。
聞き耳を立てながらも黙々と手を動かしていたザックまで手を止めると、アンリをフォローしようと声を出す。
「でも確か今回の範囲はどのレベルも前回のテストの応用だろう?今からでも間に合うんじゃ無いのか?」
「私、ザックくんみたいに前回のテストでも良い点数取れてないんだよ?どちらかと言うと前回の範囲ですら、ギリギリで詰め込んだのに…」
「あはは…、もう僕にもどうフォローすれば良いのか分からないや」
ミンスが苦笑いでそう告げると、揃って苦笑いを浮かべる。だが、そんな同情や憐れみの表情を向けられても、誰よりも一番困っているのはアンリだ。
「そう言えば前回のテストはバノフィーくんから教わったと言っていた様な…」
過去を振り返るようにザックが言えば、いつの間にか手を止めアンリ達の会話を聞いていたフレッドが頷く。
「はい、前回のテストはアンリがどうしても分からないと泣きついてきたので、それこそテストのかなり前から教え込みましたね」
二年次に上がると同時に行なわれるテストに向けてアンリは一人で参考書や問題集に向き合っていたが、いくら自分で勉強しても理解出来ず、項垂れていた。そんなアンリの隣でフレッドは入学テストに向けて勉強していたにも関わらず手を止めると、つきっきりでアンリの勉強を見てくれた。
そんな経緯を聞いたクイニーは呆れた声を出す。
「アンリ、お前年下から教わるって…」
「だってフレッドは私より断然頭良いし、教え方が上手なんだもん」
「もぉそれなら僕達に聞いてくれても良かったのに」
「だってミンスくんはフィーリングで教えてくるし、クイニーは聞き返すと怒るでしょう?」
ミンスは勉強自体はテスト成績が五位に入っていた事もあって確かに勉強は出来るようだが、教え方は言い方を選ばずに言うのなら、ハッキリ言って下手だ。時々授業中に分からない事をミンスに聞く事があるが、解き方や原理を教えるのでは無く本当にフィーリングで伝えてくるのだ。
「おい、ミンスは分かるが、いつ俺が怒った?」
「実際に怒られては無いし、勉強を聞いたことも無いけど、想像が出来るもん」
「想像ってなぁ、お前の中で俺はどれだけ悪い奴なんだよ」
「いや、別にそういう意味じゃ無くて…。なによりフレッドに聞くと優しく教えてくれるし、褒めてくれるから焦らなくて済むって言うか、やる気が出るの」
フレッドはアンリにダンスを教えてくれる時もそうだったが、勉強を教える時も本当に些細な事でよく褒めてくれる。例えば文章題の計算問題があるとして、問題から式を作り出せただけで褒めてくれる。そして一度の説明で理解出来ずに聞き返しても呆れるどころか、分かりやすく噛み砕いて何度でも説明してくれるのだ。
「でも今回の範囲をバノフィーくん一人に教えて貰うのは大変じゃ無いか?」
「うん、フレッドくんにも自分の勉強があるだろうし…」
「僕は全然構いませんよ」
「そうは言ってもねぇ…」
ここまでくれば今回のテスト、潔く諦めてしまいたい所だが、テストで余程悪い成績を取ると長期休暇中に課題が山ほど出されるという噂が昨年から囁かれていた。アンリはこれまでフレッドのおかげでそこまで悪い成績を取る事が無かったため、噂の真相については分からないままだが、せっかくの長期休暇を課題で台無しにするのは避けたいところだ。
アンリが頼めばフレッドは一つ返事で了承し、つきっきりで勉強を教えてくれるだろうが、フレッドにもフレッドの勉強がある。あまり拘束するのは忍びない。
「あ!じゃあみんなで勉強会をすれば良いんじゃない?」
思いついたようにミンスが声を上げて提案する。ミンスは勢いよく動いたため、ペンキを倒しそうになりギリギリで押さえたザックに睨まれているが、当の本人は自らの思いついた名案に浸り気づいていない。
「みんなで一緒に勉強会をすればアンリちゃんは分からない事があってもその場で聞けるし、僕達にとっても自分の勉強にもなるでしょう?」
「まぁ筋は通っているな。ただ、そこでしっかり勉強をすればだが」
「どういう意味?」
「勉強会と称して、雑談をして終わったら意味がないと言うことだ」
「流石に僕でも勉強するよ。今回こそ、二人の順位に近づきたいし」
「まぁそれなら良いんじゃないか?クイニーはどうだ?」
ザックがクイニーに問いを投げかけると、いつの間にか一人で看板製作の作業に戻っていたクイニーは視線を上げずに口だけを動かす。
「好きにしろ。それから今、集中したいから話しかけないでくれ」
「そういう事ならクイニーは参加だな」
「フレッドくんはどうする?一年生と二年生のテストだと勉強内容とか色々変わっちゃうと思うけど」
「僕も参加したいです。一応、今回のテスト範囲は網羅しているので、二年生の勉強も少しやってみたいので」
「すごいね!一年生の範囲も今回は簡単じゃ無いだろうに」
「さすが学年首席と言ったところだな」
「…ありがとうございます」
「にしても今までザック以上に頭の良い人ってなかなか居なかったけど、もしかしたらフレッドくんはザックよりも上かもしれないね」
「あぁ、明らかに上だろうな。さすがに私でもテストで満点は取れないし、次学年の勉強までやろうなんて思わない」
ミンスとザックに絶賛されるとフレッドは落ち着かないのか視線を彷徨わせながらお礼を告げる。フレッドが勉強好きで普段から予習復習を欠かさず行なっている姿を見ているが、「テスト範囲は網羅している」と自ら宣言し、言葉通りの結果を出せる人間はこの世でフレッドくらいだろう。
未だに理由は分からないが暗璃がアンリとしてフェマリー国ジャンミリー領を治めるオーリン家で目覚めると共に、顔や体のつくり、髪型、全てが変化し、身体能力まで向上した。それはつまり、前世の記憶を保持したまま別人に生まれ変わったと言っても過言では無いだろう。
だが頭脳の方は残念ながら、沢木暗璃として生活していた頃と変わらない。おまけに暗璃として学習していた頃と大抵は計算方法が変わったり、歴史に関してはゼロからの学習だ。とてもじゃないが授業をしっかり聞いていても、追いつくことは困難なのだ。
「ねぇ、この看板って学祭前日までに仕上げれば良いんだっけ」
「あぁ、会長からはそう言われている」
「ならテストが終わるまでは一旦中断しようよ。とりあえず今日からはテストに向けて猛勉強って事で」
ミンスのそんな提案にアンリ、ザック、フレッドは揃って首を縦に振る。だが、唯一反論する人物が…。
「はぁ?せっかく良い所まで塗ってんのに」
「なんだかんだ言いながらクイニーが一番、やる気あるんだよね」
「初めはあんなに嫌がっていたのにな」
「俺は一回手を出したら最後までやりきりたいタイプなんだよ」
「あぁそうだな、分かってる。だが、一週間中断するだけだ。その後は完成に向けて動かないといけないわけだし」
「あぁ、分かったよ」
ザックが宥めると、納得したクイニーは筆を置く。そして邪魔にならない場所に板やペンキをクイニー達が移動させている間にアンリとフレッドは廊下に出てペンキのついた筆を洗いに行く。
水道の蛇口を捻ると水が勢いよく溢れ出す。アンリ達が使っていたペンキは雨に濡れたりしても滲まない特殊なペンキだ。そのため筆を水にさらしていてもペンキはなかなか落ちない。隣で同じように筆を洗うフレッドも苦戦しているようだ。
「ねぇフレッド」
「なに?」
アンリが名を呼べば、手を動かしながらも視線はアンリの方に向く。
「私という存在はフレッドにとって邪魔になっていないかな」
「どうして?」
「だってクラブに入って貰ったのも言ってしまえば私の我儘でしょう?それに色々と手伝って貰ったり、フレッドの自由時間ってほとんど無いでしょう?本当にこれで良いのかなって思っちゃって」
ここ数日、アンリは密かに考えていた。フレッドは爵位を受け継ぎ、アンリの執事としてでは無く友人として過ごせるようになった。それと同時にフレッドは自由になった。にも関わらず、フレッドは授業に出る以外の時間は常にアンリと共にしている。アンリにとっては嬉しい事だが、フレッドには同級生の友人もいるだろうし、あまりアンリがフレッドを拘束するのは良くないのではないかと。
静かにアンリの話を聞いていたフレッドは表情を柔らかくすると「アンリ」と一際優しい声で名を呼ぶ。
「アンリ。アンリは私の我儘だって言うけど、僕がアンリの側に居るのも、アンリを手伝うのも僕自身が望んでいるからなんだよ。それに迷惑だと思っているなら、適当な言い訳で逃げるよ。僕ってこう見えてズルいから」
フレッドは悪戯っ子のように笑うと、アンリを安心させるように「ねっ」と言ってみせる。
「ズルい?フレッドが?」
「実はクラブが忙しいって言い訳して、色々な誘いを断ったりしてるんだ」
「そうだったの?」
「そうだよ。だからアンリは私のせいでとか、迷惑を掛けてるのかなとか、不安にならなくて良いの。なにより僕はアンリには笑っていて欲しい。アンリが笑っていると僕はそれだけで幸せなんだ」
「…ありがとう!」
涙が潤む瞳で笑い返せば、フレッドは再び笑みを返してくれる。
筆にこびりつくペンキはなかなか取れない。筆を擦ると手の隙間からカラフルに色づいた水が流れていく。ずっと手を水で濡らしていれば冷たく感じるはずが、今は不思議と気持ち良い。
五人で一枚の板に向き合い、フレッドの描いてくれた下書きに合わせ色を落としていく。
いくら手直しが出来るとはいえ、線の外に色をはみ出してしまうのが怖いアンリはなるべく塗るスペースの広い部分ばかりを選んで筆を滑らせ、アンリの隣に腰を下ろすフレッドはアンリが避けた細かい部分に色を乗せる。板を挟んで向かい側に腰を落とすミンスとザックも同じように筆を滑らせる。
そして予想外な事に、学祭のタイトルという看板のど真ん中に位置し、一番細かく複雑なデザインはクイニーが一人で筆を滑らせていた。
人には意外な一面があるというのは案外間違っていないようで、クイニーは性格に似合わず細かい作業が得意なようで、どんなに繊細な場所でも一切枠をはみ出す事がなく、均一に色を塗るのだ。
なによりクイニーが真剣な眼差しで何かに集中している姿はかなりレアだ。
ふと筆を止め、それぞれの顔を流れるように見ていく。彼らは揃って伯爵や子爵家の子息達だが、こうして学祭の為に一つの看板を作っていると、アンリを含めた彼らが貴族だという事を忘れそうになる。
ほとんど会話が生まれる事もなく黙々と作業をしていると、突拍子も無くミンスが立ち上がったかと思えば体を伸ばす。
「はぁ~、疲れたぁ」
「なに言ってるんだ。ミンスが塗った面積、誰よりも少ないだろ」
手を止めたクイニーがすぐに口を挟む。本来アンリとザックの仕事である看板作りを手伝ってくれているだけで十分ありがたいことだが、言われてみれば今日のミンスは時々手を止めて目を擦ったり、大口を開けてあくびをしていて、なかなか手が進んでいない。
「そうだけど~、昨日の夜、あんまり眠れてないんだもん」
「ふぅん、で?何時間寝たんだよ」
「んっとね、六時間くらいかな~」
「は!?六時間で少ないって言ってんのか?!」
「だっていつもは九時間は寝てるんだもん」
「九時間って、お前は子どもか」
「健康で良いでしょ」
「で?寝ないで何をしてたんだよ」
「勉強してたの」
「勉強?あぁ、テストのか」
「今回の範囲はそろそろ本格的に勉強しておかないと間に合わないんだもん」
再び腰を下ろすミンスとクイニーの会話を右手を動かしながら耳に入れていたアンリは何気なく話す二人の会話に手を止めると共に、一気に背筋が凍る。そして恐る恐る顔を上げると、二人の会話に入り込む。
「…ねぇ、テストっていつ?」
「忘れたの?来週だよ」
来週…、終わった…。
これまでテスト前は最低でも二週間前から勉強を始めて、それでやっと中の下の成績を取っていた。それなのに今回は舞台の練習や看板の制作に気を取られてテストがある事をすっかり忘れていた。しかも今回のテスト範囲は授業を受けていてもさっぱりで、全くと言って良いほど理解出来ていない。
そういえばここ最近、今まで以上にフレッドが屋敷の書庫で勉強をしていたが、あれはテスト勉強だったのか。フレッドは勉強好きで前々からよく書庫で勉強する姿を見ていたため、今回もそれだと思い込み、アンリはフレッドの隣で台本や小説ばかりを読んでいた。
そういえば先日、小説に夢中になっているとフレッドから「大丈夫なの?」と心配された。その時はすっかり演劇の授業の事を聞かれているのだと思い込んでいたが、あれはテストの心配をしていたのだと今更になって理解する。
アンリの色白な顔は現実を受け入れたくないあまり、青白く変化する。
「お前、顔色悪くねぇか?どうしたんだよ」
「終わった…。私テストのこと、すっかり忘れてた…」
「テストなんて授業がある程度理解出来ていたら大丈夫だろ」
「授業を受けてても難しくて、ほとんど理解出来てない…。それに最近は何をしてても演劇の事ばかり考えちゃって…」
「確かに最近のアンリちゃん、一緒に授業を受けてても手が止まってる事が多かったかも」
「終わったな」
途端に見捨てるクイニーにアンリは反論する気も起きないまま、肩を落とす。
聞き耳を立てながらも黙々と手を動かしていたザックまで手を止めると、アンリをフォローしようと声を出す。
「でも確か今回の範囲はどのレベルも前回のテストの応用だろう?今からでも間に合うんじゃ無いのか?」
「私、ザックくんみたいに前回のテストでも良い点数取れてないんだよ?どちらかと言うと前回の範囲ですら、ギリギリで詰め込んだのに…」
「あはは…、もう僕にもどうフォローすれば良いのか分からないや」
ミンスが苦笑いでそう告げると、揃って苦笑いを浮かべる。だが、そんな同情や憐れみの表情を向けられても、誰よりも一番困っているのはアンリだ。
「そう言えば前回のテストはバノフィーくんから教わったと言っていた様な…」
過去を振り返るようにザックが言えば、いつの間にか手を止めアンリ達の会話を聞いていたフレッドが頷く。
「はい、前回のテストはアンリがどうしても分からないと泣きついてきたので、それこそテストのかなり前から教え込みましたね」
二年次に上がると同時に行なわれるテストに向けてアンリは一人で参考書や問題集に向き合っていたが、いくら自分で勉強しても理解出来ず、項垂れていた。そんなアンリの隣でフレッドは入学テストに向けて勉強していたにも関わらず手を止めると、つきっきりでアンリの勉強を見てくれた。
そんな経緯を聞いたクイニーは呆れた声を出す。
「アンリ、お前年下から教わるって…」
「だってフレッドは私より断然頭良いし、教え方が上手なんだもん」
「もぉそれなら僕達に聞いてくれても良かったのに」
「だってミンスくんはフィーリングで教えてくるし、クイニーは聞き返すと怒るでしょう?」
ミンスは勉強自体はテスト成績が五位に入っていた事もあって確かに勉強は出来るようだが、教え方は言い方を選ばずに言うのなら、ハッキリ言って下手だ。時々授業中に分からない事をミンスに聞く事があるが、解き方や原理を教えるのでは無く本当にフィーリングで伝えてくるのだ。
「おい、ミンスは分かるが、いつ俺が怒った?」
「実際に怒られては無いし、勉強を聞いたことも無いけど、想像が出来るもん」
「想像ってなぁ、お前の中で俺はどれだけ悪い奴なんだよ」
「いや、別にそういう意味じゃ無くて…。なによりフレッドに聞くと優しく教えてくれるし、褒めてくれるから焦らなくて済むって言うか、やる気が出るの」
フレッドはアンリにダンスを教えてくれる時もそうだったが、勉強を教える時も本当に些細な事でよく褒めてくれる。例えば文章題の計算問題があるとして、問題から式を作り出せただけで褒めてくれる。そして一度の説明で理解出来ずに聞き返しても呆れるどころか、分かりやすく噛み砕いて何度でも説明してくれるのだ。
「でも今回の範囲をバノフィーくん一人に教えて貰うのは大変じゃ無いか?」
「うん、フレッドくんにも自分の勉強があるだろうし…」
「僕は全然構いませんよ」
「そうは言ってもねぇ…」
ここまでくれば今回のテスト、潔く諦めてしまいたい所だが、テストで余程悪い成績を取ると長期休暇中に課題が山ほど出されるという噂が昨年から囁かれていた。アンリはこれまでフレッドのおかげでそこまで悪い成績を取る事が無かったため、噂の真相については分からないままだが、せっかくの長期休暇を課題で台無しにするのは避けたいところだ。
アンリが頼めばフレッドは一つ返事で了承し、つきっきりで勉強を教えてくれるだろうが、フレッドにもフレッドの勉強がある。あまり拘束するのは忍びない。
「あ!じゃあみんなで勉強会をすれば良いんじゃない?」
思いついたようにミンスが声を上げて提案する。ミンスは勢いよく動いたため、ペンキを倒しそうになりギリギリで押さえたザックに睨まれているが、当の本人は自らの思いついた名案に浸り気づいていない。
「みんなで一緒に勉強会をすればアンリちゃんは分からない事があってもその場で聞けるし、僕達にとっても自分の勉強にもなるでしょう?」
「まぁ筋は通っているな。ただ、そこでしっかり勉強をすればだが」
「どういう意味?」
「勉強会と称して、雑談をして終わったら意味がないと言うことだ」
「流石に僕でも勉強するよ。今回こそ、二人の順位に近づきたいし」
「まぁそれなら良いんじゃないか?クイニーはどうだ?」
ザックがクイニーに問いを投げかけると、いつの間にか一人で看板製作の作業に戻っていたクイニーは視線を上げずに口だけを動かす。
「好きにしろ。それから今、集中したいから話しかけないでくれ」
「そういう事ならクイニーは参加だな」
「フレッドくんはどうする?一年生と二年生のテストだと勉強内容とか色々変わっちゃうと思うけど」
「僕も参加したいです。一応、今回のテスト範囲は網羅しているので、二年生の勉強も少しやってみたいので」
「すごいね!一年生の範囲も今回は簡単じゃ無いだろうに」
「さすが学年首席と言ったところだな」
「…ありがとうございます」
「にしても今までザック以上に頭の良い人ってなかなか居なかったけど、もしかしたらフレッドくんはザックよりも上かもしれないね」
「あぁ、明らかに上だろうな。さすがに私でもテストで満点は取れないし、次学年の勉強までやろうなんて思わない」
ミンスとザックに絶賛されるとフレッドは落ち着かないのか視線を彷徨わせながらお礼を告げる。フレッドが勉強好きで普段から予習復習を欠かさず行なっている姿を見ているが、「テスト範囲は網羅している」と自ら宣言し、言葉通りの結果を出せる人間はこの世でフレッドくらいだろう。
未だに理由は分からないが暗璃がアンリとしてフェマリー国ジャンミリー領を治めるオーリン家で目覚めると共に、顔や体のつくり、髪型、全てが変化し、身体能力まで向上した。それはつまり、前世の記憶を保持したまま別人に生まれ変わったと言っても過言では無いだろう。
だが頭脳の方は残念ながら、沢木暗璃として生活していた頃と変わらない。おまけに暗璃として学習していた頃と大抵は計算方法が変わったり、歴史に関してはゼロからの学習だ。とてもじゃないが授業をしっかり聞いていても、追いつくことは困難なのだ。
「ねぇ、この看板って学祭前日までに仕上げれば良いんだっけ」
「あぁ、会長からはそう言われている」
「ならテストが終わるまでは一旦中断しようよ。とりあえず今日からはテストに向けて猛勉強って事で」
ミンスのそんな提案にアンリ、ザック、フレッドは揃って首を縦に振る。だが、唯一反論する人物が…。
「はぁ?せっかく良い所まで塗ってんのに」
「なんだかんだ言いながらクイニーが一番、やる気あるんだよね」
「初めはあんなに嫌がっていたのにな」
「俺は一回手を出したら最後までやりきりたいタイプなんだよ」
「あぁそうだな、分かってる。だが、一週間中断するだけだ。その後は完成に向けて動かないといけないわけだし」
「あぁ、分かったよ」
ザックが宥めると、納得したクイニーは筆を置く。そして邪魔にならない場所に板やペンキをクイニー達が移動させている間にアンリとフレッドは廊下に出てペンキのついた筆を洗いに行く。
水道の蛇口を捻ると水が勢いよく溢れ出す。アンリ達が使っていたペンキは雨に濡れたりしても滲まない特殊なペンキだ。そのため筆を水にさらしていてもペンキはなかなか落ちない。隣で同じように筆を洗うフレッドも苦戦しているようだ。
「ねぇフレッド」
「なに?」
アンリが名を呼べば、手を動かしながらも視線はアンリの方に向く。
「私という存在はフレッドにとって邪魔になっていないかな」
「どうして?」
「だってクラブに入って貰ったのも言ってしまえば私の我儘でしょう?それに色々と手伝って貰ったり、フレッドの自由時間ってほとんど無いでしょう?本当にこれで良いのかなって思っちゃって」
ここ数日、アンリは密かに考えていた。フレッドは爵位を受け継ぎ、アンリの執事としてでは無く友人として過ごせるようになった。それと同時にフレッドは自由になった。にも関わらず、フレッドは授業に出る以外の時間は常にアンリと共にしている。アンリにとっては嬉しい事だが、フレッドには同級生の友人もいるだろうし、あまりアンリがフレッドを拘束するのは良くないのではないかと。
静かにアンリの話を聞いていたフレッドは表情を柔らかくすると「アンリ」と一際優しい声で名を呼ぶ。
「アンリ。アンリは私の我儘だって言うけど、僕がアンリの側に居るのも、アンリを手伝うのも僕自身が望んでいるからなんだよ。それに迷惑だと思っているなら、適当な言い訳で逃げるよ。僕ってこう見えてズルいから」
フレッドは悪戯っ子のように笑うと、アンリを安心させるように「ねっ」と言ってみせる。
「ズルい?フレッドが?」
「実はクラブが忙しいって言い訳して、色々な誘いを断ったりしてるんだ」
「そうだったの?」
「そうだよ。だからアンリは私のせいでとか、迷惑を掛けてるのかなとか、不安にならなくて良いの。なにより僕はアンリには笑っていて欲しい。アンリが笑っていると僕はそれだけで幸せなんだ」
「…ありがとう!」
涙が潤む瞳で笑い返せば、フレッドは再び笑みを返してくれる。
筆にこびりつくペンキはなかなか取れない。筆を擦ると手の隙間からカラフルに色づいた水が流れていく。ずっと手を水で濡らしていれば冷たく感じるはずが、今は不思議と気持ち良い。

