それから数時間後──

布団の上で、少女はゆっくりと目を開いた。

「……ここは?」

「よかった…目が覚めた」

椅子に座っていたイファが、ほっと息をついた。

「大丈夫か? 体は……痛いところとか、ない?」


少女はしばらく天井を見上げていたが、やがて身体を起こし、小さく首を振った。

「私の名前は、リア。名前しか…わからないのだけれど。」

その声には抑揚がなく、どこか遠くから響いてくるようだった。
均一な声を際立たせる瑠璃色の瞳と銀色の髪。触れたら壊れてしまいそうな儚さを纏っていた。

イファは、言葉を失っていた。時が止まったように。



「……記憶が……ないのね」

マリナが優しく問いかけると、リアはこくりと頷く。

「どこから来たのか、何をしていたのかもわからない…。ただ…助けてもらえるような人間じゃない、そんな気がします。」

イファは思わず、目を見開いた。ひとつ、ゆっくりと呼吸をする。

「……朝、真っ青な顔で森で倒れてたんだ。まだ、夜は寒いし……。本当に、生きててよかった」

イファの話を聞いても、リアは身じろぎもせず、ただ黙ったまま。
瑠璃色の瞳が、イファの深緑の目をじっと見つめる。


その瞬間、イファの胸の奥には、静かな水面に小さな波紋が広がるような感覚が残った。


「もう十分です。これ以上、あなたたちの世話になるわけにはいかないので。」

布団から立ち上がるリアの表情は依然として変わらず、淡々と言葉を紡ぐ。
彼女の落ち着いた声を聞いて、イファは、吸い込まれそうな瞳から目を逸らした。

「……でも……記憶がないんじゃ、帰る場所もないんだろ……?」

リアは答えない。
何を思って、何を考えているのか。
彼女の表情は静かな夜の海のようで、イファにはわからなかった。


リアはぺこりと頭を下げ、ドアの方へ歩く。

そのとき、ふわりと漂うスープの香りがリアの鼻先をくすぐった。
キッチンからは、鍋の音が心地良く響いている。

「……まあまあ、シチューができてるの。あったまるわよ。食べていきなさいな」

リアの足がわずかに止まる。

「イファの大好物なの。あなたの分も作ってしまって、たくさんあるのよ。食べきれないから……ね?」

やがて、木の食卓に三つの皿が並んだ。
リアは黙ってスプーンを口に運ぶ。甘く優しい味わい。


「……おいしい…」


とろりとしたスープが、舌に触れると、じんわりと体の隅々へ運ばれていくような気がした。
じゃがいもと人参がほくほくで、肉もやわらかい。そして、なにより、あたたかかった。

リアがぽつりとこぼした言葉に、イファの口角が上がる。マリナも穏やかに微笑んだ。

「冷えた体には、あたたかいシチューが一番ね」

マリナの声には、陽だまりのようなやさしさがあった。

「私の目はね、数年前に不自由になってしまってね……今はぼんやりとしか見えないの。だから、一人ではできないことも多くて、イファに助けてもらいながら、なんとか暮らしているわ」

「……」

「でも、イファは毎日働きに出てくれているから、昼間はこの家でひとりなの。もし、あなたが手を貸してくれたら、私は嬉しいんだけど……どうかしら?」

リアはぴたりとスプーンを止めた。
眉ひとつ動かない。
呼吸をしているのかすら、心配になってしまうほどに。

「記憶が戻るまで、さっ…」

イファが声をかけても、リアは俯いたまま、ただ、沈黙を貫く。

「体調だってまだ万全ってわけじゃないんだ。何か怪我してるかもしれないし…」

イファはほんのわずかに間をあけて、また、言葉を続ける。

「それに、一緒に飯も食ったからな! ……もう家族みたいなもんだ」

何も問題はないだろ、と言いたげにニカっと笑った。

「……」

リアは、返事はしなかった。
しかし、拒絶もしなかった。


ほのかに甘いシチューは、彼女の冷たい身体をあたためる。
彼女にとって、人の温かさは未知のものだった。


ただ、ゆっくりと。


彼女の胸の奥の、何かがほんの少し、灯った気がした。