午後九時半。
予備校の玄関から外に出ると、随分と冷たくなった夜風が頬を切る。

ああ、もう、冬が来てしまう。

学校、予備校、家を往復する日々。
勉強をすればするほど不安になる。
いちいち躓いて、自分の実力を思い知らされるから。

ハロウィンもクリスマスもない。
季節の変化を楽しむ街と人々の世界には、俺なんて存在していないみたいだ。

楽しみなことが何一つない冬が、来てしまう。



最寄駅に着いて、真っ暗な帰り道を歩く頃には、もう午後十時前。
明日も朝六時半には起きて学校に行かなければならないと思うと、憂鬱すぎてため息すら出てこない。

今から帰って、風呂に入って、夕飯は予備校で済ませたから、軽くお菓子だけ食べて……。
寝る前に英語のシャドーイングと、単語帳のチェック。
明日の朝は、二週間後の大学別模試に向けて、過去問の分析の続きを……。
……頭の中を一つ一つ整理しても、心はぐちゃぐちゃのまんまだな。

「にゃあ」

ふと、鈴を転がすような鳴き声が灰色の脳内に響いた。

「……猫?」

すぐそこの角を曲がれば自宅に着くという安心感もあり、俺は声の聞こえた方を少しだけ見てみることにした。

「にゃあん」

「おっ」

駐車場の車の下から、声の主が姿を現した。
黒くて艶のある毛に、凛とした顔立ち。
耳の先がカットされているから、この辺りの地域猫だな。

少し前から地域猫がいると噂では聞いたことがあったけれど、受験勉強のことで頭がいっぱいだったからか、日頃は全く意識が猫に向いておらず……おそらく、初めましてだろう。

「初めまして」

「にゃぁ」

「俺ね、もうしんどいの」

「みぃ」

「辛いよ。どうしたらいいかな」

「に〜」

名前も名乗らない失礼な初対面の男に、つらつらと悩みを聞かされて、この黒猫が気の毒でならない。

「みぅ」

こんなに自分勝手な俺にも、君はすり寄って甘えてきてくれる。
顎の下を撫でれば、ゴロゴロと気持ちよさそうな音まで奏でて。

「……可愛い」

そっか。
こんな散々な日々でも、猫は可愛いんだ。
俺はまだ猫を可愛いと思えて、口角も三ミリくらいは上がるんだ。

これなら、とりあえず明日くらいは、大丈夫かな?
俺、生きていけるかな?

「にゃぁん」

「ふふ」

黒猫は大きな声で鳴いて、ごろんとお腹を見せるように転がった。







あれから、俺は時々、あの黒猫と話している。
待ち合わせなんかしていないから、いない日だって普通にあるけど、そのくらいがきっとちょうどいい。

昨日の夕飯に母さんが作ってくれたクリームシチューがとても美味しくて、いつもより食欲が湧いたこと。
昔ハマっていたクリスマスソングを聴いてみたら、この時期にワクワクが高まっていく感覚を、少しだけ思い出せたこと。

きっと受験なんてものがなかったら、気づきもしなかった小さな幸せのカケラを、あの黒猫に聞いてもらうんだ。

比較対象となるような辛い時間を初めから経験しなくて良い人生だったら、もしかするとそれが一番幸せなのかもしれない。
けれど、俺の人生は一度だけ。
どれだけ仮定法で語っても、現実は一つだけ。

「……お疲れ、今夜も寒いね」

「にゃ〜ん」

そのたった一つの現実が、君のいる世界で良かった。







年が明けて、共通テストがあって、私立大学の受験が始まって、そのまま国立大学の受験も迎えて……
怒涛の受験シーズンの間、君に会えたのは、郵便局に出願書類を出しに行ったときだけだった。

だから、今日は少しだけソワソワしているんだ。
久しぶりに会えるかもしれないと思うと、胸が高鳴って。

「……お〜い」

君のお気に入りの駐車場の近くで、何度か呼んでみたけれど、タイミングが合わなかったかな。
引っ越すまでに一度は必ず会いたいけれど、君がこの街のどこかで健康に暮らせているのなら、それで十分なんだ。

「にゃん」

「っ!」

家に帰ろうかと体の向きを変えたとき、可愛らしい声が聞こえた。
でも、これは聞き覚えのない声だ。

「わぁ、初めまして」

「にゃあん」

塀の向こうからぴょんとジャンプして現れたのは、あの子より一回りくらい大きなキジ猫さんだった。

「可愛いね」

「にゃ〜〜ん」

「?どうしたの?」

可愛いなんて当然でしょ、それより早く行くわよ!と言われているようだった。
少し歩いて、チラリと俺が着いてきているか確認して、また歩き始めて。
案内されるまま着いていくと、大きな桜の木が見えてきた。

「もうこんなに咲いてたのかぁ」

「にゃぁん」

「っ!あれ、君は……!」

桜の木の下で日向ぼっこをしていたのは、まさにあの黒猫だった。
耳に馴染んだ高い声も変わらない。

君の周りには他にも数匹猫がいて、それぞれが気ままに寝転がったり、毛繕いをしたりしている。

「ふふ、こんなにお友達がいたんだね」

「みゃう」

「あ、これって猫の集会ってやつかな?」

「にゃあん」

君は気持ち良さそうに目を細めながら、俺の問いに肯定するかのように鳴いた。

「もしかして、俺も猫だと思われてるのかな……」

ここまで連れてきてくれたキジ猫の方を見ると、俺の疑問など興味なさそうにあくびをしていた。
ふふっと笑って君に視線を戻すと、ひらりと舞う桜の花びらが頭の上に乗っていた。
髪飾りみたいで可愛くて、思わず一枚写真を撮った。

離れた街で新しく人間の友達ができたら、俺はきっとこの写真を一番に見せるだろう。