退部届は出てないけれど、犬井くんが調理部の活動に出なくなって一週間近くが経つ。そうこうしている間にも文化祭の準備は進み、なんとか明日本番を迎えるばかりになっていた。
 調理室はみんなで作ったレンガ調の壁紙と、ステンドグラスを模した切り紙の飾りを窓に張り付けたりして、なかなかにレトロ喫茶の雰囲気が出ている。
 食器まではさすがにそれっぽいのを揃えられなかったけれど、それでも雰囲気にあった紙コップや紙皿を一年生たちが捜してきてくれたので、明日への準備は万端だ。

「ネコくん、明日のシフトこれで良いかな?」
「ああ、ありがと……って、なんで犬井くんの名前があるの?」

 明日に備えて作ったプリンの出来栄えを確かめていたら、副部長の鈴木さんから紙を一枚渡された。シフト表を確認してみると、僕と同じ時間帯に犬井くんの名前が書かれている。派手に言い合いをしたあの日以来、全く顔も合わせていないのに。

「いいじゃない、まだ退部届出てないんでしょ? じゃあ、部員の頭数に入れなきゃ」

 そう言いながら鈴木さんは僕にシフト表を半ば押し付けるようにしてきて、手にしているプリンを眺めてくる。美味しそうに出来てるねーと、彼女までご満悦だ。
 プリンの出来よりも僕は犬井くんのことが気になってしまい、シフト表を受け取りはしたけれど、ため息をついてしまう。

「そりゃまあ、そうだけど……来るのかな……」

 あんなに僕のことを慕っていてくれたのに、ひどいことを言ってしまったのだから、もう二度と調理部には来ないかもしれない。折角後輩もできて楽しくなってたのに、という思い以上に、気持ちが沈み込んでいるのが余計にため息をつかせる。
 そんな僕の溜め息が聞こえたのか、「テンション上がるいいもの見せてあげようか?」なんて言ってきたのだ。

「テンション上がるいいもの? 何かのおもしろ動画とか?」
「おもしろ動画かはわかんないけど、レアなものだよ、ほら」

 そう言われて目をやったスマホの画面の中に、どこかの体育館みたいな場所で何かを読み上げているウチの高校の制服を着た誰かが映し出されていた。

「え、これ、犬井くん? 何でこんなの持ってるの?」
「なんか、一年の子がレア動画ですーってさっきくれたの。犬井くん、新入生トップ入学だったんだねぇ、すごーい」

 そんなの、初めて聞いた。画面の中の犬井くんは堂々とした――あのいつものチャラそうな感じからは全く想像もつかないほど真面目そうな雰囲気で――新入生の言葉とやらを読み上げ始める。
 校風とか雰囲気が良かったからとか、そういう話だろう……そう思いながら、たいして期待もしていないで聞いていると、「去年の文化祭でのことです」と、言うのが聞こえ始めた。当時進路で悩んでいたらしい犬井くんは、気晴らしと高校見学も兼ねて文化祭に来ていたらしい。

『気が晴れなくてもお腹はすきます。そんな時に一軒のクレープ屋が目に入りました。そこにいた先輩が、僕に“またこの高校で会おうね”と言ってくれ、それが何より嬉しく、こんな優しい先輩のいる高校に是非入りたいと思ったのです。入って、そして、その先輩と一緒に楽しい高校生活を送りたいとも思いました、だってこれは、運命だから』

 一年前に文化祭でクレープ屋をしていたのは、確かウチの部だけだったはずだ。そして僕が「またこの高校で会おうね」と声をかけた記憶があるのは、ただ一人だけ。でも、あの時の彼は僕くらいの背丈しかなかったはずで――まさか、そんなことってあるんだろうか?
 スマホの動画はどよめきと喝采(かっさい)の中で終わり、僕は戸惑いながら鈴木さんを見やる。鈴木さんもまた、ポカンとした顔をしている。

「え? 犬井くんってネコくんのこと探すために入学したってこと?」
「そう、みたいだけど……でも、見つけたのってついこの前だし……」

 クレープ屋だった在校生を探しているとみんなの前で宣言している犬井くん。でも、僕を探し当てたのは入学してから半年も経った秋なのだ。
 もしかして、何か深い事情でもあるんだろうか? あの時、最初に調理部の活動に飛び込んできた時、「やっと見つけた」って言っていたし――

「……それ、聞きに行かなきゃ」

 調理部の男子部員なんて僕しかいないのに、なんで見つけるまで半年もかかったんだろう。運命だとか言うなら、さっさと会いに来ればいいのに。僕だって、ずっとあの時の彼に――犬井くんに会いたかったんだから。

「ネコくん? どこに行くの?」

 鈴木さんの声も聴かずに、僕はふらりと調理室を出て行く。手にはさっき出来栄えを確認していたプリン入りのタッパーを持って、ゆっくりと早足になっていく。
 長い廊下を歩き、突き当りを曲がり、彼が良そうな場所を捜す。でもそれらしい人影は見えなくて、気ばかりが急いていく。

「頼られてるってことじゃないっすか、料理の腕も、人としても。それってすごくカッコいいっすよ」

 唯一の調理部の男子部員で部長だけれど、それは面倒ごとを押し付けられているからだと思っていた。でもそれを、彼は違うと言ってくれた。しかも、カッコいいなんて言葉まで添えて。
 料理の腕のことだって、ちゃんと犬井くんは感じ取ってくれた。僕が僕のままで好きなことをしていくことの足をつかんで阻んでいたのは、僕自身だと気付かされたんだ。

「マジで喫茶店の味したっす。俺この味すっげー好きです!」

 クレープにしても、ナポリタンの試食にしても、犬井くんいつも必ずきれいに完食して、そして満面の笑みで美味しいと言ってくれた。忖度とかなしに、だけど、素直でそのままの感想を伝えてくれたのが、本当に嬉しかったのをいま思い出しても頬が緩んでしまう。

「先輩の愛もこもってるからこんなに美味いすねぇ……」

 そのしみじみとピザトーストを味わいながら呟いた言葉こそ、犬井くんの心からの言葉だったんだ。それを、僕は女子への色目みたいな言い方をしてしまうなんて。
 運命の人だなんて、大袈裟な――そう、笑い飛ばせないのはどうしてだろう。押し出されたまま駆けだして、足が止まらないのはどうしてだろう。

「頑張ってこの高校入ります! 絶対会いに行くんで、待っててください! 一緒にクレープとか作りたいです!」

 一年前のあの日、僕が作ったクレープを食べて、元気になってくれた彼と何気なくかわした約束が、どれほど僕の中で大きいものだったのかを、いまさらながらに気付かされる。彼が僕と何かをやりたいと言ってくれるということは、きっと、僕が僕のままでいていいということでもあることと同じ気がするからだ。
 待っててくれと言われ、まさか本当に来るなんて思いもしなかった。思いもしなかったけれど、あの時の口約束ともつかない約束を果たしてくれたのかと思うと、ふつふつと嬉しさがこみ上げてくるのはどうしてだろう。手許のタッパーの中のプリンのように甘く揺れる心が何を宿しているのか、その名を何と言うのか、僕は知っている。
謝って、ちゃんと伝えなきゃいけない。僕にとって彼が特別であること、それから……

「――ああそうか、僕にとっても、犬井くんが運命の人で……好きってことなのかもしれない」

 犬井くんは僕と何をやりたくて、僕を運命だとか、愛だとか言っていたんだろうか。その本当の意味もちゃんと聞かなくては。意味を知って、僕の気持ちも答えなくては。
 そうして僕は校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下を横切り、大迷路が設置され始めている中庭を目指して駆けて行った。