犬井くんが調理部に入ってしばらくして、文化祭の内装の準備にも取り掛かり始めた。コンセプトがレトロ、それも昭和レトロをベースにするということなので、まずは壁をチョコレート色やワインレッドのような渋い色合いの壁紙を作ることに。
 調理室は普段授業でも使われるので、文化祭前日までは飾り付けがほぼできない。その分、隣の被服室の隅の方に作った飾りなんかは置かせてもらえることになった。そのお陰で、僕らは放課後の時間を利用して、壁紙だけでなくイスやテーブルのデコレーションなんかも考えて作ることができた。
 調理経験があまりないという犬井くんは、その一八〇センチもあるらしい長身を活かして、一年生部員たちと内装作り取り掛かってくれている。

「犬井くん、窓際の飾りのテープどれだけいるか測りたいから、メジャー持っててくれる?」
「こう?」
「そうそう。高さ何センチかな?」
「えーっとね……」

 内装作りの作業をする班の様子を横目に、僕は二年生部員と共にメニューの試作をしている。昨日はプリンで、今日はピザトーストと厚切りあんバタートースト、それからホットサンドだ。
 調理室のトースターは全部で六台あるけれど、全部使うとブレーカーが飛びかねないので稼働させるのは三台。それで最大焼けるのは六枚。ホットサンドメーカーは部員の家から持ってきてもらったのが一台で、それでワンセット、二切れ作れることになる。
 でもそれだけでも回るかわからないので、応急処置としてコンロを使い、フラパンで焼くことにした。今日はそのフライパンで焼けるかの試作だ。

「結構フル稼働しなきゃだねぇ」
「そうだねー。たくさん売れて欲しいけど忙しくなるのも怖いね」

 そう話しながら、目の前で出来上がっていくピザトーストなどを見ていると、やはりお腹が空いてくる。ふんわりとコンロにかけていたフライパンから漂う香ばしいにおいに、犬井くんの手が停まっている。

「ネコ先輩~。俺、腹減っちゃいました~。試食させてくださーい」
「あ、ずるーい、ウチらにも欲しいですー」

 まるで腹ペコのひな鳥のように、一斉に内装班の一年生たちが騒ぎ立てる。犬井くんはその筆頭で、本当に口を大きく開けてねだって来るものだから、いつもの大型犬のような雰囲気というよりも、大きなひな鳥に見えてしまう。
 だからつい、苦笑して答えてしまうのだ。

「内装の作業一区切りついたならいいよ」
「やったー!」

 ご褒美があるとがぜんやる気になるのか、それからの作業はサクサクと進んだようで、今日すべきタスクをすべてこなし、明日の分まで片付けてしまったという。お陰で内装に使う壁紙はいい感じにできあがっているし、カラーセロハンを駆使したステンドグラス風の飾りも出来ている。
 やればできるじゃん、と僕が思わず言うと、犬井くんが得意げな顔をして、「そうっすよ、やればできる子なんで」と鼻を膨らませるように答えるのがおかしかった。
 そうしていよいよ、喫茶店メニューの試食だ。

「こっちがピザトーストで、こっちが厚切りあんバター。ホットサンドはこの二つ。どっちもフライパン調理だよ」
「いただきまーす!!」

 実際に出す予定のものよりも、さらに半分ほどのひと口サイズに切っているトーストを、銘々手に取って頬張っている。今日の試食の前に僕は家でも実際に作って味見をしてみたから、味はだいじょうぶだと思いたい。
 頬張って咀嚼(そしゃく)する数十秒の沈黙ののち、「……うまぁ」と、最初に声を漏らしたのはやはり犬井くんだった。犬井くんはピザトーストを手に取り、じっくり味わうように目をつぶっている。

「ネコ先輩、マジでこのピザトースト美味いっす……。これ、マジで家であるようなもので出来るやつなんすか?」
「うん。べつに特別な材料は使ってはいないはずだけど。ああ、ピザソースにちょっとマヨネーズ足してみた」
「マジっすか! でも、先輩の愛もこもってるからこんなに美味いすねぇ……」

 全くの不意打ちでそんな甘いことを言われると思っていなかった僕は、飲みかけていたコーヒーを吹き出しそうになる。活動中はいたって真面目にしているから忘れがちだけど、彼の目当ては僕で、運命だとかどうとか言ってるんだよな……。
 しかし忘れていたのは僕だけだったらしく、周りの部員たちは心なしか僕と犬井くんから少し距離をとるようにして、まるで生暖かく見守る見物人の様相だ。

「え、なんでみんなそんな離れてるの」
「だってぇ、お二人の邪魔しちゃ悪いし。ねえ?」
「そうそう。ピザトーストに愛がこもってるとか何とかって見せつけられたら、あたし達お邪魔としか思えないもん」

 いやまず止めてくれよ、というツッコミの言葉を呑み込んだのは、そう口にしようとした僕よりも先に、「ありがとー! みんな、やさしい~!」なんて、ハートを振りまかんばかりの愛想の良い声で犬井くんが被せてきたからだ。それがまた一層、女子たちを喜ばせるのに。
 古い例えで言うなら百万ドルの笑顔とでもいう感じの犬井くんのスマイルに、女子は当然射貫かれてしまっている。ビジュが良い、愛想もいい、何より部活中はいままでの女子目当ての男子とは違う真面目っぷり。これで心が揺らがない女子がいるのだろうか。

「僕を運命、なんて言うくせに……随分調子がいいよな。本当は誰でもいいんじゃないの?」

 心の中で呟いたと思っていた言葉が、会話と会話が途切れた部屋の中に妙の大きく響いた。その瞬間、部屋全体の空気が凍り、誰もが時が停まったかのように動かなくなった。
 それまでピザトーストや厚切りあんバタートーストなどを頬張り、楽しくはしゃぐように交わしていた言葉のすべてが消え、窓の向こうで響くグランドの声の方がよく聞こえる。
 重たくてヘヴィな沈黙が全員の上に圧し掛かって、息苦しささえ覚え始めていた時、「……なに言ってんの?」と、一層重たい低い声が聞こえた。声は、明らかに怒っているとわかる犬井くんの声だった。
 そっと、目線だけを先に向けつつ顔をそちらに向けると、ゆらりと立ち上がった犬井くんが、僕をきつくにらみ付けている。いままで見せてきた無防備で無邪気にすら見えた眼差しは、どこにもない。
 それでもまだ、犬井くんは何とか口元だけは笑おうとしているらしく、歪めながら口角を挙げようとしている。その様がひどく滑稽(こっけい)で、腹立たしくて――つい、僕をバカにしてるんじゃないかって思ってしまったんだ。

「ネコ先輩……ジョークの切れ味鋭いね? 俺、かなりいま痛いんだけど」
「それは、犬井くんにとってそのものズバリだからじゃないの? 思い当たること多すぎるっていうか……」
「――それ、マジで言ってんの、先輩」

 笑いが嗤いに感じられてしまっているいまの僕にとって、犬井くんが何を言ってもすべて言葉の裏を深読みしてしまう。内心、ここでもうやめときなよ、と止めようと腕を引くもう一人の自分がいるのに、その手を振り払ってしまっている感じだ。
 止めるブレーキを失っている僕は、一番口にしてはいけないことを口にしてしまっていた。

「マジも何も、僕をネタにして、どうせ君だって女子の気を惹きたいだけじゃんか、他のやつらと一緒で」

 女子に囲まれた唯一の男子部員であることをネタにされ、それで女子たちの笑いを誘おうとされることは、これまでにも何度もあった。そんな目にも遭ってきたことを、いまになって思い出させるなんて。
――なんだ、彼も同じなんじゃないか。そんな気いたいを裏切られたような思いが胸の中を(むしば)んでいく。
 対峙している犬井くんの目が大きく見開かれ、整った顔がどんどん赤くなっていく。それは図星を指されての羞恥なのか、それとも、怒りなのか。みるみる悲しみと怒りが入り混じって複雑な表情になっていく犬井くんを前にして、僕は次の言葉が出てこなかった。

「それ、本気で言ってんすか?」

 犬井くんが本当に怒っている。それにようやく気付いたけれど、僕は何も言い返せないでいた。こんなに怖い顔をされるなんて思ってもいなかったという、認識の甘さがあったからだ。
 震える犬井くんの声に何をどう答えていいかわからない。うなずくこともできない。肯定するにしても、否定するにしても、言葉が出てこないからだ。

「俺が、どんだけ苦労して先輩見つけたと思ってんすか……そういうの、全部嘘だって言うんすか?」

 いつもあんなに懐っこい顔をしている犬井くんが、全く笑っていない。いまの僕にわかるのは、明らかに僕は過ぎたことを言ってしまったということだけだ。
 謝らなくては。頭ではそうわかっているのに、喉が張り付いたみたいに声が出てこない。唖然としたままの僕を見下ろすように佇む犬井くんは、ぎゅっと拳を握りしめ、呟く。

「……それならもう、俺は調理部を辞めます」

 全く思ってもいなかった言葉を差し出されても、僕は受け止められずに呆然としていた。だって彼にそうして欲しいとか、そうすべきだとかは思っていなかったから。でも、言葉が出てこないから彼を止められない。
 食べかけていたトーストを置き、犬井くんは何も言わないまま調理室の入り口の方へ向かっていく。

「犬井くん!」

 ようやく声が出てそう呼び止めようとしたけれど、遅すぎた。犬井くんの足が停まることも、こちらを振り返ることもなかったし、閉じられた扉はそれきりその日は開かれることはなく、犬井くんは調理部を去って行ったのだから。