犬井くんは、一年生や一部の二年や三年の間でもとにかくビジュがよくて有名なことを、告白されたあと、片付けを終えて帰る際に一年生の部員が教えてくれた。
「犬井くんとネコ先輩なら全然ありって感じですから!」
ありってどういうこと? と、聞くよりも先にその部員は、何故か犬井くんに対して「くれぐれもネコ先輩をよろしくね」なんて、保護者のような事を言って帰って行った。
他にも片付けしている間、犬井くんが僕の隣で弁当箱を洗ったりしている時も、みんなの方が楽しげな顔をしてこちらを見ていた気がする。なんと言うかこう、面白いものが見つかったぞ、みたいな期待の目だ。なんとなく、僕が入部した時にも向けられていた視線にも似ていて、むずむずする。
「ネコ先輩って、人気者っすね」
「……は? なんで?」
「いやだってみんなネコ先輩見てニコニコしてるじゃないっすか。やっぱ唯一の男子部員は注目の的なんすね」
いやそれは君がさっきあんなことを言ったからだろうよ……と、言いたかったけれど、あまりに混じり気のない目を向けられてしまい、言えなかった。そんなことを言うのは野暮で無粋な気がしたのだ。
とは言え、こんな風にするっと人の輪の中に入れてしまうあたり、彼は相当にコミュ強なんだろうなと思う。ビジュの良さも手伝って一層モテそうな気がしてくる。
(僕とは生きる世界が違う感じだよな……)
きっと彼は、自分が好きなことを好きなようにしていくことに、何の弊害も感じたことがないのかもしれない。例えばサッカーをしたいと言えば賛同され、アウトドアをしたいと言えば喜ばれ、という感じで。僕のように、「残念」だとか、「惜しい」だとか言われたこともないんだろう。
勝ち組とも違うけれど、なにかこう、僕よりも生きやすそうな気がして……いいな、なんて子どもみたいなことを思ってしまう。
「先輩? まだ帰らないんすか?」
「え? あ、もう僕だけか……」
考え事をしながら部誌を書いたりしていたら、いつの間にか部室である調理室には僕と犬井くんだけになっていた。
帰ってしまっていても良かったのに、犬井くんは律義に僕を待っていたらしく、「そうっすよ、帰らないと」と、ニコニコとしている。
「べつに先に帰っててもいいのに」
「好きな人を置いて先に帰るわけにいかないじゃないっすか」
……やっぱりさっきのあれは聞き間違いでも何でもなかったのか。散々騒がれた後でもけろりとした様子で僕のことを“好きな人”と、平然と言ってのけるあたり、犬井くんの強心臓ぶりを窺える。まあ、みんなの前であんなことを言えるんだから、わかっていたようなものだけれど。
(でも、料理上手って言うだけなら、べつに僕じゃなくても他の女子部員でもいい気がするんだけどな……?)
ふと湧いた疑問を問おうとしたけれど、それを聞くということは、僕が折角感じた、「僕は僕のままで料理を楽しんでいい」と思えた気持ちに影が差す気がした。自分で自分が得た喜びに水を差してしまうようで、言えないままぼくらは調理室をあとにしていた。
「さっきの弁当、マジ美味かったっす。俺んち、母ちゃんが超絶弁当作るの苦手って言うから、手作り弁当ってほとんど食ったことないんすよー。マジ、めっちゃ感動しました」
「べ、べつに大したもんじゃないよ……」
「いーや、大したもんっすよ。少なくともウチの母ちゃんのより断然美味いっすもん」
「そんな大げさな」
「あとやっぱり、運命なのかもって思いました」
「運命とかそんな大げさな……」
「大袈裟じゃないっすよ。運命だから、やっと会えて嬉しいっす」
そんなに行楽弁当が美味しかったのかな? と思いつつも、無邪気に嬉しそうに「美味しかった!」と言われるのは、やっぱりこちらも嬉しくなってくる。暮れていく夕焼け空に生えるほど明るい笑顔は、見ていて胸がすくわれるようにさえ感じられる。
(まあたぶん、彼は悪い奴ではない……んだろうな……)
我ながら単純かなと思うけれど、自分の料理をおいしいと言ってくれる人悪く言う気にはなれない。
影が長くなっていく道を歩きながら、「ホント、ウチの母ちゃんのヒドイっすもん」と、自分の家の料理についても犬井くんは話し始める。
「カレーって失敗しないって言うじゃないっすか」
「まあ、ルーの箱書きもあるしね」
「それを真っ黒にするんすよ。イカ墨も入ってないのに」
「……焦げで?」
「そうなんすよ。兎に角強火なんすよねぇ、母ちゃん。あと、味噌汁に味がなかったりするし」
「無味の味噌汁!? 出汁は?」
ないっすね、と苦い顔をして笑う犬井くんの顔がおかしくて、笑っちゃいけないと思うのに、つい、よその家のおかあさんの話で爆笑してしまった。「それはさすがに盛ってるでしょ?」と、涙ながらに言うと、「今度持ってきましょうか? マジ、無味っすよ」とまで言う。
そんな感じだからか、犬井くんのおかあさんは弁当作りも大の苦手らしく、冷食の詰まったお弁当しか食べたことがないという。
「ネコ先輩はいつも弁当なんすか?」
「うん。今日作ったみたいな弁当の、もっと簡単なやつばかりだけどね。冷凍食品も使うし」
「へー! 俺、先輩は絶対冷食なんて使わないのかと思ってた」
オレンジに縁どられた犬井くんが、目をキラキラさせて僕を見つめてくる。その目があまりに眩しくて、つい、胸が鳴った。羨望の眼差し、というのとまた違って感じてしまったのは、ただ単にさっきみんなの前で大胆に告白なんてされたからだろうか?
いやそんなまさか……と、苦笑していると、犬井くんは感嘆の溜め息みたいなものをついて呟く。
「あー、やっぱネコ先輩はすごいっすね。部長なだけある」
「部長なのと料理の腕どうこうは関係ないよ……たぶん」
「でも、頼られてるってことじゃないっすか、料理の腕も、人としても。それってすごくカッコいいっすよ」
カッコいい、なんて今までほとんど言われたことがない言葉に、足が停まりかける。瞬きも忘れて犬井くんを見つめてしまうほどに、彼の言葉が僕の中にグッと食い込んできたからだ。
他愛ない話をしていただけのはずなのに、いつのまにか、彼は僕のすぐ近くにいる。物理的にも、気持ち的にも、部員の誰よりも近い。そして、なんだか呼吸が楽な気がする。もしかして、僕を認めてくれたようなことを言ってくれたから? それとも、ただ単に、初めての男子部員で後輩からの尊敬の眼差しを向けられたから、というだけだからだろうか? 今日初めて会った彼なのに?
(まさかこれが運命とかっていうやつ? でもこれは、いままで男子の後輩がいなかったから、ただ嬉しくなってるだけかもしれないし……)
戸惑うような気持ちを覚えながら歩いていると、学校最寄りのバス停に辿り着いていた。犬井くんは立ち止まり、僕の方を振り返る。
「じゃあ俺、バスで帰るんで」
「ああ、じゃあ、気をつけて」
「ネコ先輩も」
また明日。そう言い合って、なんとなくそのまま手を振り合っていたらバスが来て、犬井くんはそれに乗り込む。それでもまだバスの中から大きく手を振ってくれていて、思わずまた笑ってしまった。だって、なんだか本当に大きな犬が尻尾を振っているような感じがしてしまったから。
「っはは。かわいい」
言われたところで嬉しくない言葉なのは、僕が一番知っているのに、つい口にしていた。それが後輩としての彼に思ったのか、それとも何か別の意味が込められていたのか、僕自身でもわかっていなかった。
わかっているのは、たった十数分ほどの他愛ないひと時がきらきらした夕日みたいだったこと、そして彼との会話が、呼吸が楽になるような感覚がしたことだ。楽しい、のもっとやわらかで気楽な感じ。その何でもない名前すらないようなひと時が、その晩いつまでも僕の胸の中でキラキラしていた。
文化祭で調理部がやりたいと言っているレトロ喫茶は、他にやりそうなところがないために、翌々日にはあっさりと申請が通った。
模擬店の許可が下りれば、早速メニューを決めなくてはいけない。今日はその話し合いだ。
「この前挙がっていた硬めのプリンにナポリタン。他に何かアイディアある?」
事前に各自でメニュー候補を挙げておいてとは言ったものの、挙がってくるのは「ナポリタン」「プリン」「コーヒー」、あとは「メロンソーダ」というのもあったけれど、それ以上のアイディアが出てこない。
喫茶店の会場は調理室で、調理することや冷蔵庫を使うことは、他の教室よりも問題はないと思うのだけれど、そもそもアイディア自体が出ないのだから意味がない。
「なんかもっと目玉になるもの欲しいよね、萌え萌えパフェとかみたいなの」
「それじゃあ、二―Bのメイドカフェと被っちゃわない?」
「じゃあこっちはみんなで猫耳カフェするとか?」
「なにそれいいじゃん!」
アイディアが煮詰まっているのか話が脱線気味で、何故かみんなで猫耳のメイドをしたらどうかなんて言い出し始めている。しかも何かみんな乗り気だし。
いや、さすがにそういうの僕は出来ない……! と、言いかけた時、「あのー」と、遠慮がちに最前列から手が挙がった。それは司会進行する僕の視界に常に入っている犬井くんだった。
「レトロ喫茶って言うなら、やっぱメイドとかに頼らない方がいいかなーって思うんすよね。折角、レトロっていう魅力あるんだし」
犬井くんのまっとうな意見に、他の部員がハッとしたような顔をし、少しバツが悪そうに苦笑する。自分たちでも暴走気味だった自覚はあったらしい。
「じゃあ、犬井くんは何かアイディアあるの?」と、誰ともなく聞かれ、犬井くんは少し考えて、答える。
「そうっすねぇ……喫茶店って言うんだったら、トーストメニューがあるといいと思うんすよね。例えば、ピザトーストとか。厚切りあんバタートーストとか、作るのも簡単そうだし……どうっすかね?」
正直、すごく驚かされた。あまりにまっとうな意見が立て続けに出てくるからだ。
見た目のイメージで判断していて申し訳ないなと思ったけれど、犬井くんって明るい茶髪を跳ねさせてて、しかも制服も少し気崩してる感じだから、言動はチャラいんだと思い込んでいた。何より、初対面であの言葉だし。
でもいま提案されたメニューは、手軽な上に僕ら高校生とか若い世代にもウケそうで、何よりコストもあまりかからない。文化祭という予算が限られているイベントにはぴったりと言える。
「すごく良いと思う! あと、みんなは他にはあるかな?」
犬井くんの言葉をきっかけにし、そのあとサンドイッチかホットサンドの案が出て、衛生面のことを考えて加熱するホットサンドか採用された。
フードメニューが決まるとデザート系や飲み物もいくつか案が出てきて、プリンとメロンソーダの他に、コーラと紅茶を出すことも決まった。
「すごーい、犬井くんのアイディアであっという間に決まったね!」
「あ、いや俺はただ言っただけなんで……」
「でも犬井くんの案があったから他のも出たんだし!」
「そ、かな……へへへ」
女子部員たちに褒められ、照れ臭そうにしつつもまんざらでもないような顔をしている犬井くん。ヘラッと無防備に笑ったりして、この前の僕との帰り道に見せた時よりも、なんだかリラックスして見えるのは気のせいだろうか。
でもなんで、いま胸がチクッとしたんだろう? 切ないような、悲しいような痛みの感触の戸惑い胸元に思わず手をあてていると、「ネコせんぱーい」と、犬井くんの声がする。
顔をあげると、犬井くんがさっき女子たちに見せていたものとは違った、無邪気な笑顔でスマホの画面をかざしていた。
「俺、プリンこういうのがいいっす! サクランボ載ってて、生クリーム載ってるやつ!」
やっぱり犬井くんの後ろには大きな尻尾が見える気がする。僕に向かって、全力で降っている尻尾の幻を思うと、あのチクッとした痛みがゆるゆると溶けていくのを感じた。なんかそうされると、つい、あの痛みをなかったことにしてしまえるのだ。
「いいね、美味しそうじゃん」
犬井くんの言葉に賛同するように僕が言うと、彼は嬉しそうにまた幻の尻尾を振る。「でしょう?!」なんて、子どものようにはしゃいだ声を上げる。
(その尻尾、僕だけに振ってくれてる……んだよね?)
ふと過ぎる疑問を、僕は慌てて打ち消すように頭を振り、プリンの話題について神経を戻していった。
「犬井くんとネコ先輩なら全然ありって感じですから!」
ありってどういうこと? と、聞くよりも先にその部員は、何故か犬井くんに対して「くれぐれもネコ先輩をよろしくね」なんて、保護者のような事を言って帰って行った。
他にも片付けしている間、犬井くんが僕の隣で弁当箱を洗ったりしている時も、みんなの方が楽しげな顔をしてこちらを見ていた気がする。なんと言うかこう、面白いものが見つかったぞ、みたいな期待の目だ。なんとなく、僕が入部した時にも向けられていた視線にも似ていて、むずむずする。
「ネコ先輩って、人気者っすね」
「……は? なんで?」
「いやだってみんなネコ先輩見てニコニコしてるじゃないっすか。やっぱ唯一の男子部員は注目の的なんすね」
いやそれは君がさっきあんなことを言ったからだろうよ……と、言いたかったけれど、あまりに混じり気のない目を向けられてしまい、言えなかった。そんなことを言うのは野暮で無粋な気がしたのだ。
とは言え、こんな風にするっと人の輪の中に入れてしまうあたり、彼は相当にコミュ強なんだろうなと思う。ビジュの良さも手伝って一層モテそうな気がしてくる。
(僕とは生きる世界が違う感じだよな……)
きっと彼は、自分が好きなことを好きなようにしていくことに、何の弊害も感じたことがないのかもしれない。例えばサッカーをしたいと言えば賛同され、アウトドアをしたいと言えば喜ばれ、という感じで。僕のように、「残念」だとか、「惜しい」だとか言われたこともないんだろう。
勝ち組とも違うけれど、なにかこう、僕よりも生きやすそうな気がして……いいな、なんて子どもみたいなことを思ってしまう。
「先輩? まだ帰らないんすか?」
「え? あ、もう僕だけか……」
考え事をしながら部誌を書いたりしていたら、いつの間にか部室である調理室には僕と犬井くんだけになっていた。
帰ってしまっていても良かったのに、犬井くんは律義に僕を待っていたらしく、「そうっすよ、帰らないと」と、ニコニコとしている。
「べつに先に帰っててもいいのに」
「好きな人を置いて先に帰るわけにいかないじゃないっすか」
……やっぱりさっきのあれは聞き間違いでも何でもなかったのか。散々騒がれた後でもけろりとした様子で僕のことを“好きな人”と、平然と言ってのけるあたり、犬井くんの強心臓ぶりを窺える。まあ、みんなの前であんなことを言えるんだから、わかっていたようなものだけれど。
(でも、料理上手って言うだけなら、べつに僕じゃなくても他の女子部員でもいい気がするんだけどな……?)
ふと湧いた疑問を問おうとしたけれど、それを聞くということは、僕が折角感じた、「僕は僕のままで料理を楽しんでいい」と思えた気持ちに影が差す気がした。自分で自分が得た喜びに水を差してしまうようで、言えないままぼくらは調理室をあとにしていた。
「さっきの弁当、マジ美味かったっす。俺んち、母ちゃんが超絶弁当作るの苦手って言うから、手作り弁当ってほとんど食ったことないんすよー。マジ、めっちゃ感動しました」
「べ、べつに大したもんじゃないよ……」
「いーや、大したもんっすよ。少なくともウチの母ちゃんのより断然美味いっすもん」
「そんな大げさな」
「あとやっぱり、運命なのかもって思いました」
「運命とかそんな大げさな……」
「大袈裟じゃないっすよ。運命だから、やっと会えて嬉しいっす」
そんなに行楽弁当が美味しかったのかな? と思いつつも、無邪気に嬉しそうに「美味しかった!」と言われるのは、やっぱりこちらも嬉しくなってくる。暮れていく夕焼け空に生えるほど明るい笑顔は、見ていて胸がすくわれるようにさえ感じられる。
(まあたぶん、彼は悪い奴ではない……んだろうな……)
我ながら単純かなと思うけれど、自分の料理をおいしいと言ってくれる人悪く言う気にはなれない。
影が長くなっていく道を歩きながら、「ホント、ウチの母ちゃんのヒドイっすもん」と、自分の家の料理についても犬井くんは話し始める。
「カレーって失敗しないって言うじゃないっすか」
「まあ、ルーの箱書きもあるしね」
「それを真っ黒にするんすよ。イカ墨も入ってないのに」
「……焦げで?」
「そうなんすよ。兎に角強火なんすよねぇ、母ちゃん。あと、味噌汁に味がなかったりするし」
「無味の味噌汁!? 出汁は?」
ないっすね、と苦い顔をして笑う犬井くんの顔がおかしくて、笑っちゃいけないと思うのに、つい、よその家のおかあさんの話で爆笑してしまった。「それはさすがに盛ってるでしょ?」と、涙ながらに言うと、「今度持ってきましょうか? マジ、無味っすよ」とまで言う。
そんな感じだからか、犬井くんのおかあさんは弁当作りも大の苦手らしく、冷食の詰まったお弁当しか食べたことがないという。
「ネコ先輩はいつも弁当なんすか?」
「うん。今日作ったみたいな弁当の、もっと簡単なやつばかりだけどね。冷凍食品も使うし」
「へー! 俺、先輩は絶対冷食なんて使わないのかと思ってた」
オレンジに縁どられた犬井くんが、目をキラキラさせて僕を見つめてくる。その目があまりに眩しくて、つい、胸が鳴った。羨望の眼差し、というのとまた違って感じてしまったのは、ただ単にさっきみんなの前で大胆に告白なんてされたからだろうか?
いやそんなまさか……と、苦笑していると、犬井くんは感嘆の溜め息みたいなものをついて呟く。
「あー、やっぱネコ先輩はすごいっすね。部長なだけある」
「部長なのと料理の腕どうこうは関係ないよ……たぶん」
「でも、頼られてるってことじゃないっすか、料理の腕も、人としても。それってすごくカッコいいっすよ」
カッコいい、なんて今までほとんど言われたことがない言葉に、足が停まりかける。瞬きも忘れて犬井くんを見つめてしまうほどに、彼の言葉が僕の中にグッと食い込んできたからだ。
他愛ない話をしていただけのはずなのに、いつのまにか、彼は僕のすぐ近くにいる。物理的にも、気持ち的にも、部員の誰よりも近い。そして、なんだか呼吸が楽な気がする。もしかして、僕を認めてくれたようなことを言ってくれたから? それとも、ただ単に、初めての男子部員で後輩からの尊敬の眼差しを向けられたから、というだけだからだろうか? 今日初めて会った彼なのに?
(まさかこれが運命とかっていうやつ? でもこれは、いままで男子の後輩がいなかったから、ただ嬉しくなってるだけかもしれないし……)
戸惑うような気持ちを覚えながら歩いていると、学校最寄りのバス停に辿り着いていた。犬井くんは立ち止まり、僕の方を振り返る。
「じゃあ俺、バスで帰るんで」
「ああ、じゃあ、気をつけて」
「ネコ先輩も」
また明日。そう言い合って、なんとなくそのまま手を振り合っていたらバスが来て、犬井くんはそれに乗り込む。それでもまだバスの中から大きく手を振ってくれていて、思わずまた笑ってしまった。だって、なんだか本当に大きな犬が尻尾を振っているような感じがしてしまったから。
「っはは。かわいい」
言われたところで嬉しくない言葉なのは、僕が一番知っているのに、つい口にしていた。それが後輩としての彼に思ったのか、それとも何か別の意味が込められていたのか、僕自身でもわかっていなかった。
わかっているのは、たった十数分ほどの他愛ないひと時がきらきらした夕日みたいだったこと、そして彼との会話が、呼吸が楽になるような感覚がしたことだ。楽しい、のもっとやわらかで気楽な感じ。その何でもない名前すらないようなひと時が、その晩いつまでも僕の胸の中でキラキラしていた。
文化祭で調理部がやりたいと言っているレトロ喫茶は、他にやりそうなところがないために、翌々日にはあっさりと申請が通った。
模擬店の許可が下りれば、早速メニューを決めなくてはいけない。今日はその話し合いだ。
「この前挙がっていた硬めのプリンにナポリタン。他に何かアイディアある?」
事前に各自でメニュー候補を挙げておいてとは言ったものの、挙がってくるのは「ナポリタン」「プリン」「コーヒー」、あとは「メロンソーダ」というのもあったけれど、それ以上のアイディアが出てこない。
喫茶店の会場は調理室で、調理することや冷蔵庫を使うことは、他の教室よりも問題はないと思うのだけれど、そもそもアイディア自体が出ないのだから意味がない。
「なんかもっと目玉になるもの欲しいよね、萌え萌えパフェとかみたいなの」
「それじゃあ、二―Bのメイドカフェと被っちゃわない?」
「じゃあこっちはみんなで猫耳カフェするとか?」
「なにそれいいじゃん!」
アイディアが煮詰まっているのか話が脱線気味で、何故かみんなで猫耳のメイドをしたらどうかなんて言い出し始めている。しかも何かみんな乗り気だし。
いや、さすがにそういうの僕は出来ない……! と、言いかけた時、「あのー」と、遠慮がちに最前列から手が挙がった。それは司会進行する僕の視界に常に入っている犬井くんだった。
「レトロ喫茶って言うなら、やっぱメイドとかに頼らない方がいいかなーって思うんすよね。折角、レトロっていう魅力あるんだし」
犬井くんのまっとうな意見に、他の部員がハッとしたような顔をし、少しバツが悪そうに苦笑する。自分たちでも暴走気味だった自覚はあったらしい。
「じゃあ、犬井くんは何かアイディアあるの?」と、誰ともなく聞かれ、犬井くんは少し考えて、答える。
「そうっすねぇ……喫茶店って言うんだったら、トーストメニューがあるといいと思うんすよね。例えば、ピザトーストとか。厚切りあんバタートーストとか、作るのも簡単そうだし……どうっすかね?」
正直、すごく驚かされた。あまりにまっとうな意見が立て続けに出てくるからだ。
見た目のイメージで判断していて申し訳ないなと思ったけれど、犬井くんって明るい茶髪を跳ねさせてて、しかも制服も少し気崩してる感じだから、言動はチャラいんだと思い込んでいた。何より、初対面であの言葉だし。
でもいま提案されたメニューは、手軽な上に僕ら高校生とか若い世代にもウケそうで、何よりコストもあまりかからない。文化祭という予算が限られているイベントにはぴったりと言える。
「すごく良いと思う! あと、みんなは他にはあるかな?」
犬井くんの言葉をきっかけにし、そのあとサンドイッチかホットサンドの案が出て、衛生面のことを考えて加熱するホットサンドか採用された。
フードメニューが決まるとデザート系や飲み物もいくつか案が出てきて、プリンとメロンソーダの他に、コーラと紅茶を出すことも決まった。
「すごーい、犬井くんのアイディアであっという間に決まったね!」
「あ、いや俺はただ言っただけなんで……」
「でも犬井くんの案があったから他のも出たんだし!」
「そ、かな……へへへ」
女子部員たちに褒められ、照れ臭そうにしつつもまんざらでもないような顔をしている犬井くん。ヘラッと無防備に笑ったりして、この前の僕との帰り道に見せた時よりも、なんだかリラックスして見えるのは気のせいだろうか。
でもなんで、いま胸がチクッとしたんだろう? 切ないような、悲しいような痛みの感触の戸惑い胸元に思わず手をあてていると、「ネコせんぱーい」と、犬井くんの声がする。
顔をあげると、犬井くんがさっき女子たちに見せていたものとは違った、無邪気な笑顔でスマホの画面をかざしていた。
「俺、プリンこういうのがいいっす! サクランボ載ってて、生クリーム載ってるやつ!」
やっぱり犬井くんの後ろには大きな尻尾が見える気がする。僕に向かって、全力で降っている尻尾の幻を思うと、あのチクッとした痛みがゆるゆると溶けていくのを感じた。なんかそうされると、つい、あの痛みをなかったことにしてしまえるのだ。
「いいね、美味しそうじゃん」
犬井くんの言葉に賛同するように僕が言うと、彼は嬉しそうにまた幻の尻尾を振る。「でしょう?!」なんて、子どものようにはしゃいだ声を上げる。
(その尻尾、僕だけに振ってくれてる……んだよね?)
ふと過ぎる疑問を、僕は慌てて打ち消すように頭を振り、プリンの話題について神経を戻していった。



