良子の作ったワクチンは、日本中に広まり始めていた。各地で復興の兆しが見え始め、人々の間にようやく希望の灯が戻りつつあった。
それと同時に、「小さな救世主」の噂も瞬く間に広がり、満里奈はお面をつけていながらも、人々の注目の的となっていた。
しかし、まだワクチンが行き渡らない地域では、依然としてゾンビたちが徘徊し、人々を襲い続けている。
良子と満里奈は、一刻も早く平穏な世界を取り戻すため、ゾンビにワクチンを打ちながら避難所を巡っていた。
「見違えるくらい、ゾンビが少なくなってきたね」
海岸沿いを走る車の中で、満里奈は外の景色を眺めながら呟いた。かつてはゾンビの姿ばかりで、人の気配などまるでなかった。
だが今は、のどかに広がる大地のあちこちに、復興に励む人々の姿が見え始めている。
荒らされた建物を修繕する人たちは、二人の車に気づくと、遠くから手を振った。その光景を目にした満里奈は、それに応えるように、ブンブンと忙しなく手を振り返す。
「お前も、すっかりヒーローだな」
ハンドルを握りながら、良子は微笑んだ。あの、か弱かっただけの満里奈が——今では人々に崇められる救世主なのだ。
成長した満里奈の姿を誇らしく思う一方で、胸の奥に複雑な感情が込み上げる。
この旅が終わったら、自分は役目を終え、満里奈の前から姿を消さねばならない。そう思うと、胸の奥にぽっかりと空いた穴へ、冷たい風が吹き抜けていくようだった。
「ヒーローは私じゃなくて、お姉ちゃんの方だよ。目立ちたくないって言うから、私が代わりに演じてるだけ……」
その言葉を聞いて、良子の胸に一層の虚しさが広がった。それでも——この子の成長を最後まで見届けたい。
どんな形であっても、満里奈が生きている限り、自分はきっと、どこかで見守り続けるだろう。だが、この子の未来に、自分の存在は足枷にしかならない。
離れていても、絆は消えない——そう信じながら、良子は静かに思いを巡らせていた。
そんな時、外を眺めていた満里奈が、不意に不安げな声を上げた。
「お、お姉ちゃん……あれ……」
視線の方向に目を向けると、海岸沿いに子供たちが集まり、何か騒いでいる。良子は車を止め、満里奈と共にそこに向かった。
「何をしてるの?」
満里奈がそう言って声を掛けると、子供たちが一斉に振り返る。その身なりはかなり汚れていて、彼らの生活が穏やかではないことが直ぐに想像できた。
「魚を釣っているんだ。もう何日も食べてないから、お腹が空いて……」
声をかけた少年は、申し訳なさそうに目を伏せた。手にしているのは釣り竿ではなく、折れた棒切れに糸を括りつけただけの即席の道具。針の代わりに使われているのは、錆びた釘だった。
満里奈は胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
「……そんな道具じゃ、魚なんて釣れないよ」
「でも、これしかないんだ」
少年はかすれた声で答える。
満里奈は黙って自分のリュックを探り、保存食の袋を取り出した。
「はい、これ。少しだけど、食べて」
子供たちは目を輝かせ、恐る恐る袋を受け取る。だが、その光景を見つめる良子の目は、どこか複雑だった。
「……避難所はどこにある?」
「ずっと前に壊されちゃった。大人たちはみんな、別の町に行っちゃったんだ」
答えた少女の声は、波の音にかき消されそうなほど小さかった。おそらく、この子たちは家族とはぐれて暮らしているのだろう。
ワクチンが広まり、少しずつ平和が戻りつつあるとはいえ——失われた命が戻ることはない。人々は皆、自分と家族を守るのに精一杯で、見知らぬ誰かに手を差し伸べる余裕などなかった。
満里奈はそんな現実を前に、瞳を潤ませた。そして、それを隠すように、そっとお面を被った。
「あっ! もしかして、救世主!?」
すると子供の一人が目を輝かせ、思わず叫んだ。満里奈はバツが悪そうに顔をそらす。だが、その隣で良子が静かに頷く。
「そうだ。この子が——“救世主”だ」
その瞬間、子供たちの表情が一変した。淀んでいた瞳に、ぱっと光が宿る。言葉には出さなくても、その眼差しには憧れと希望がはっきりと宿っていた。
しばらく沈黙が流れたあと、ひとりの子供が、震える声で言った。
「……だったら、お姉ちゃんを助けてくれない?」
訳ありなその様子に、満里奈の胸に嫌な予感がよぎる。被っていたお面をそっと頭の上にずらし、その子の顔をまっすぐに見つめた。
「君のお姉ちゃんのこと? どうしたの?」
「僕たちの面倒を見てくれてるお姉ちゃん。昨日の夜から、ずっと苦しんでるの」
その言葉に、満里奈は自分と良子の関係を重ねた。
その“お姉ちゃん”というのは、ゾンビが徘徊するこの世界で、行く当てのない子どもたちの面倒を見てきた人物なのだろう。
自分には、良子という頼もしい異星人がいた。
けれどそのお姉ちゃんは、ただの人間で──しかも、きっと未成年の少女だ。
病気か何かで苦しんでいる彼女を助けようと、この子たちは必死に魚を釣ろうとしていたのだ。
「そのお姉ちゃんは、どこにいるの?」
満里奈がそう問いかけると、子供たちは「あっち!」と叫びながら走り出した。良子と満里奈は顔を見合わせ、すぐにその後を追う。
しばらくして、漁に使う網などを保管している掘立小屋に辿り着いた。しかし、その周囲の悲惨な光景に、良子と満里奈は言葉を失った。
生活の跡こそあるものの、あまりにも粗末で、衛生的な環境とは程遠い。
雨をしのぐのがやっとで、壁には無数の穴が空き、隙間風が容赦なく吹き込んでくるのが容易に想像できた。
目立たない場所にあったおかげでゾンビの襲撃を免れたのだろうが、もし見つかっていたら、ひとたまりもなかったに違いない。
良子は、こんな場所で子供たちが暮らしていたという現実に、言葉を失うほどの衝撃を覚えていた。
「お前たち、いつからここで暮らしてるんだ?」
「……一か月くらい前から」
その言葉だけで、彼らがどれほどの苦労をしてきたかが伝わってきた。世の中が過酷になればなるほど、力のない者から淘汰されていく。
たとえ復興が進んでも、身寄りのない子供たちは行き場を失い、結局は孤児として施設に預けられるしかないのだろう。
良子は、改めて人の世の冷たさを思い知らされた。
「その“お姉ちゃん”とやらは……中にいるのか?」
良子はそう言うと、静かに掘立小屋の扉を開けた。その瞬間、鼻を突くような異臭があたりに広がった。
中の光景を見た良子と満里奈は、ごみ屋敷のような有様に思わず息を呑む。布団に横たわる少女は、汚れにまみれ、骨と皮ばかりの体をしていた。
衰弱して、今にも崩れ落ちそうなほど弱々しい。
「大丈夫か!」
良子が駆け寄って声を掛けるが、少女は応えない。満里奈はその胸に耳を当て、鼓動を確かめた。
「心臓……止まってる! でも、まだ温かい!」
叫ぶように言うと、満里奈はすぐに両手を少女の胸に当て、必死に心臓マッサージを始めた。
手遅れかもしれない——そう思いながらも、彼女は諦めなかった。
「一、二、三、四、五! ……一、二、三、四、五!」
こんな人を死なせるわけにはいかない。この世界には、彼女のような人が、きっと必要になる。
この子はぜったいに幸せになるべきだ。こんなところで失ってはいけない——。
満里奈の必死の姿に感化されたように、良子が人工呼吸を始めた。二人の動きは見事に息が合い、まるで長年の相棒のようだった。
そしてその願いが届いたのか、少女の喉がかすかに鳴り、息を吹き返す。だが、安心している暇はない。この衰弱した身体では、再び命の灯が消えるのも時間の問題だった。
「満里奈、私のリュックから医療道具を取れ!」
「はいよ!」
満里奈は返事と同時にリュックを探り、中からシリンジとTPNの入った小瓶を取り出した。手早く注射針を差し込み、透明な液体を吸い上げると、良子に手渡す。
良子は無言でそれを受け取り、少女の細い腕をとり、血管を探って針を打ち込んだ。その瞬間、少女の青白かった頬に、ゆっくりと血の色が戻っていく。
子供たちは息をのんで見守っていた。
何が起こっているのか、誰も理解できない。ただ、緊迫したその光景から目を離せなかった。
やがて少女の唇に、かすかな温もりが戻る。その様子を見て、子供たちの顔に安堵の笑みが広がった。
良子は静かに針を抜くと、深く息を吐いた。そして顔を上げ、厳しい眼差しで子供たちを見渡す。
「……この子の命は助かった。けど——ここに居ては駄目だ」
低く、凛とした声だった。子供たちは思わず身を縮める。叱られたわけではないのに、胸が痛くなる。
良子の表情に怒りの色が浮かんでいた。
だがその怒りは、目の前の子供たちではなく——こんな小さな者たちを追い詰めた世界そのものに向けられていた。
ここに居れば、また同じ悲劇が繰り返される。だが、この子たちが行ける場所など、今の世の中にあるのだろうか──。
思考が堂々巡りになるのを感じながら、良子は策を探した。そんなとき、満里奈がじっと彼女を見据える。
「お姉ちゃんは、どうしたいの?」
それは久々に見る、真剣そのものの瞳だった。良子は、助けた少女へと視線を移す。中学生くらいに見えるその娘が、満里奈と同じ年頃の子供たちを、一人で面倒を見てきたという事実が、静かに重くのしかかる。
それを思うと、言葉が胸の中で固く結ばれた。
「──彼らは、幸せになるべきだ」
少し震えた声でそう言うと、満里奈は小さく頷いた。
「だったら、それができる世の中にしようよ」
その一言に、良子の奥にあった決意がふっと灯る。二人の視線が合った瞬間、周りの世界が少しだけ静かになったように感じられた。
──満里奈は、いつの間にこんなにも大人になったのだろう。
これまで自分が教えてきたつもりだったのに、今は逆に、この子に教えられている。
良子はしばらく黙り込み、何かを決めたようにフッと顔を綻ばせた。
「まずはこの子たちを安全な施設へ移そう。静香のところなら、きっと面倒を見てくれるはずだ」
良子の声には、迷いのない力が宿っていた。その言葉を聞いた子供たちの瞳に、かすかな光が戻る。
けれど──それも一時しのぎに過ぎない。
本当に彼らを救うには、復興の波に乗じて、世の中の在り方そのものを変えなくてはならない。
「その後、官邸に向かうぞ!」
良子はそう言って満里奈を見つめた。
「官邸って……総理官邸? なにをするつもり?」
「この非常事態に、ゾンビを恐れて隠れていた奴らに、喝を入れてやるんだ!」
息巻く良子の姿を見て、満里奈は胸の奥に不安を覚えた。
今までずっと、正体を隠すために目立たぬよう生きてきたのに──そんなことをすれば、彼女が異星人だと知られてしまうのではないか。
けれど、今の良子は初めて出会った頃よりも、ずっと“人間らしい”。
何をするにも面倒くさそうで、感情の起伏を見せなかったロボットのような姿は、もうどこにもなかった。
決意を宿したその横顔を見つめながら、満里奈は静かに思う。
──旅の終わりが、確実に近づいている。
良子に「旅行に行かないか」と誘われたとき、別れの予感はすでに感じていた。
あれほど目立つことを嫌っていた人が、自分から行動を起こすなんて──その理由が自分のためだということも、分かっていた。
それでも、あの時止めなかったのは、もしかしたら一緒に旅をするうちに、考えが変わるかもしれないと思ったからだ。
「お姉ちゃんは、どうしたいの?」──あの一言を、言わなければよかった。
今になって、満里奈はそう思う。
けれど、不思議と怖くはなかった。
たとえ離れても、きっとこの人は、どこかでひっそりと自分を見守ってくれる。
それだけは、誰に何を言われようと信じられた。
だって、良子の瞳にはいつも、自分を思う優しい光が宿っているのだから。
大勢の子供たちを乗せて、二人の車は再び東の空を目指して走り出す。
その先にある未来に、希望を抱きながら──。
~To be continued~
それと同時に、「小さな救世主」の噂も瞬く間に広がり、満里奈はお面をつけていながらも、人々の注目の的となっていた。
しかし、まだワクチンが行き渡らない地域では、依然としてゾンビたちが徘徊し、人々を襲い続けている。
良子と満里奈は、一刻も早く平穏な世界を取り戻すため、ゾンビにワクチンを打ちながら避難所を巡っていた。
「見違えるくらい、ゾンビが少なくなってきたね」
海岸沿いを走る車の中で、満里奈は外の景色を眺めながら呟いた。かつてはゾンビの姿ばかりで、人の気配などまるでなかった。
だが今は、のどかに広がる大地のあちこちに、復興に励む人々の姿が見え始めている。
荒らされた建物を修繕する人たちは、二人の車に気づくと、遠くから手を振った。その光景を目にした満里奈は、それに応えるように、ブンブンと忙しなく手を振り返す。
「お前も、すっかりヒーローだな」
ハンドルを握りながら、良子は微笑んだ。あの、か弱かっただけの満里奈が——今では人々に崇められる救世主なのだ。
成長した満里奈の姿を誇らしく思う一方で、胸の奥に複雑な感情が込み上げる。
この旅が終わったら、自分は役目を終え、満里奈の前から姿を消さねばならない。そう思うと、胸の奥にぽっかりと空いた穴へ、冷たい風が吹き抜けていくようだった。
「ヒーローは私じゃなくて、お姉ちゃんの方だよ。目立ちたくないって言うから、私が代わりに演じてるだけ……」
その言葉を聞いて、良子の胸に一層の虚しさが広がった。それでも——この子の成長を最後まで見届けたい。
どんな形であっても、満里奈が生きている限り、自分はきっと、どこかで見守り続けるだろう。だが、この子の未来に、自分の存在は足枷にしかならない。
離れていても、絆は消えない——そう信じながら、良子は静かに思いを巡らせていた。
そんな時、外を眺めていた満里奈が、不意に不安げな声を上げた。
「お、お姉ちゃん……あれ……」
視線の方向に目を向けると、海岸沿いに子供たちが集まり、何か騒いでいる。良子は車を止め、満里奈と共にそこに向かった。
「何をしてるの?」
満里奈がそう言って声を掛けると、子供たちが一斉に振り返る。その身なりはかなり汚れていて、彼らの生活が穏やかではないことが直ぐに想像できた。
「魚を釣っているんだ。もう何日も食べてないから、お腹が空いて……」
声をかけた少年は、申し訳なさそうに目を伏せた。手にしているのは釣り竿ではなく、折れた棒切れに糸を括りつけただけの即席の道具。針の代わりに使われているのは、錆びた釘だった。
満里奈は胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
「……そんな道具じゃ、魚なんて釣れないよ」
「でも、これしかないんだ」
少年はかすれた声で答える。
満里奈は黙って自分のリュックを探り、保存食の袋を取り出した。
「はい、これ。少しだけど、食べて」
子供たちは目を輝かせ、恐る恐る袋を受け取る。だが、その光景を見つめる良子の目は、どこか複雑だった。
「……避難所はどこにある?」
「ずっと前に壊されちゃった。大人たちはみんな、別の町に行っちゃったんだ」
答えた少女の声は、波の音にかき消されそうなほど小さかった。おそらく、この子たちは家族とはぐれて暮らしているのだろう。
ワクチンが広まり、少しずつ平和が戻りつつあるとはいえ——失われた命が戻ることはない。人々は皆、自分と家族を守るのに精一杯で、見知らぬ誰かに手を差し伸べる余裕などなかった。
満里奈はそんな現実を前に、瞳を潤ませた。そして、それを隠すように、そっとお面を被った。
「あっ! もしかして、救世主!?」
すると子供の一人が目を輝かせ、思わず叫んだ。満里奈はバツが悪そうに顔をそらす。だが、その隣で良子が静かに頷く。
「そうだ。この子が——“救世主”だ」
その瞬間、子供たちの表情が一変した。淀んでいた瞳に、ぱっと光が宿る。言葉には出さなくても、その眼差しには憧れと希望がはっきりと宿っていた。
しばらく沈黙が流れたあと、ひとりの子供が、震える声で言った。
「……だったら、お姉ちゃんを助けてくれない?」
訳ありなその様子に、満里奈の胸に嫌な予感がよぎる。被っていたお面をそっと頭の上にずらし、その子の顔をまっすぐに見つめた。
「君のお姉ちゃんのこと? どうしたの?」
「僕たちの面倒を見てくれてるお姉ちゃん。昨日の夜から、ずっと苦しんでるの」
その言葉に、満里奈は自分と良子の関係を重ねた。
その“お姉ちゃん”というのは、ゾンビが徘徊するこの世界で、行く当てのない子どもたちの面倒を見てきた人物なのだろう。
自分には、良子という頼もしい異星人がいた。
けれどそのお姉ちゃんは、ただの人間で──しかも、きっと未成年の少女だ。
病気か何かで苦しんでいる彼女を助けようと、この子たちは必死に魚を釣ろうとしていたのだ。
「そのお姉ちゃんは、どこにいるの?」
満里奈がそう問いかけると、子供たちは「あっち!」と叫びながら走り出した。良子と満里奈は顔を見合わせ、すぐにその後を追う。
しばらくして、漁に使う網などを保管している掘立小屋に辿り着いた。しかし、その周囲の悲惨な光景に、良子と満里奈は言葉を失った。
生活の跡こそあるものの、あまりにも粗末で、衛生的な環境とは程遠い。
雨をしのぐのがやっとで、壁には無数の穴が空き、隙間風が容赦なく吹き込んでくるのが容易に想像できた。
目立たない場所にあったおかげでゾンビの襲撃を免れたのだろうが、もし見つかっていたら、ひとたまりもなかったに違いない。
良子は、こんな場所で子供たちが暮らしていたという現実に、言葉を失うほどの衝撃を覚えていた。
「お前たち、いつからここで暮らしてるんだ?」
「……一か月くらい前から」
その言葉だけで、彼らがどれほどの苦労をしてきたかが伝わってきた。世の中が過酷になればなるほど、力のない者から淘汰されていく。
たとえ復興が進んでも、身寄りのない子供たちは行き場を失い、結局は孤児として施設に預けられるしかないのだろう。
良子は、改めて人の世の冷たさを思い知らされた。
「その“お姉ちゃん”とやらは……中にいるのか?」
良子はそう言うと、静かに掘立小屋の扉を開けた。その瞬間、鼻を突くような異臭があたりに広がった。
中の光景を見た良子と満里奈は、ごみ屋敷のような有様に思わず息を呑む。布団に横たわる少女は、汚れにまみれ、骨と皮ばかりの体をしていた。
衰弱して、今にも崩れ落ちそうなほど弱々しい。
「大丈夫か!」
良子が駆け寄って声を掛けるが、少女は応えない。満里奈はその胸に耳を当て、鼓動を確かめた。
「心臓……止まってる! でも、まだ温かい!」
叫ぶように言うと、満里奈はすぐに両手を少女の胸に当て、必死に心臓マッサージを始めた。
手遅れかもしれない——そう思いながらも、彼女は諦めなかった。
「一、二、三、四、五! ……一、二、三、四、五!」
こんな人を死なせるわけにはいかない。この世界には、彼女のような人が、きっと必要になる。
この子はぜったいに幸せになるべきだ。こんなところで失ってはいけない——。
満里奈の必死の姿に感化されたように、良子が人工呼吸を始めた。二人の動きは見事に息が合い、まるで長年の相棒のようだった。
そしてその願いが届いたのか、少女の喉がかすかに鳴り、息を吹き返す。だが、安心している暇はない。この衰弱した身体では、再び命の灯が消えるのも時間の問題だった。
「満里奈、私のリュックから医療道具を取れ!」
「はいよ!」
満里奈は返事と同時にリュックを探り、中からシリンジとTPNの入った小瓶を取り出した。手早く注射針を差し込み、透明な液体を吸い上げると、良子に手渡す。
良子は無言でそれを受け取り、少女の細い腕をとり、血管を探って針を打ち込んだ。その瞬間、少女の青白かった頬に、ゆっくりと血の色が戻っていく。
子供たちは息をのんで見守っていた。
何が起こっているのか、誰も理解できない。ただ、緊迫したその光景から目を離せなかった。
やがて少女の唇に、かすかな温もりが戻る。その様子を見て、子供たちの顔に安堵の笑みが広がった。
良子は静かに針を抜くと、深く息を吐いた。そして顔を上げ、厳しい眼差しで子供たちを見渡す。
「……この子の命は助かった。けど——ここに居ては駄目だ」
低く、凛とした声だった。子供たちは思わず身を縮める。叱られたわけではないのに、胸が痛くなる。
良子の表情に怒りの色が浮かんでいた。
だがその怒りは、目の前の子供たちではなく——こんな小さな者たちを追い詰めた世界そのものに向けられていた。
ここに居れば、また同じ悲劇が繰り返される。だが、この子たちが行ける場所など、今の世の中にあるのだろうか──。
思考が堂々巡りになるのを感じながら、良子は策を探した。そんなとき、満里奈がじっと彼女を見据える。
「お姉ちゃんは、どうしたいの?」
それは久々に見る、真剣そのものの瞳だった。良子は、助けた少女へと視線を移す。中学生くらいに見えるその娘が、満里奈と同じ年頃の子供たちを、一人で面倒を見てきたという事実が、静かに重くのしかかる。
それを思うと、言葉が胸の中で固く結ばれた。
「──彼らは、幸せになるべきだ」
少し震えた声でそう言うと、満里奈は小さく頷いた。
「だったら、それができる世の中にしようよ」
その一言に、良子の奥にあった決意がふっと灯る。二人の視線が合った瞬間、周りの世界が少しだけ静かになったように感じられた。
──満里奈は、いつの間にこんなにも大人になったのだろう。
これまで自分が教えてきたつもりだったのに、今は逆に、この子に教えられている。
良子はしばらく黙り込み、何かを決めたようにフッと顔を綻ばせた。
「まずはこの子たちを安全な施設へ移そう。静香のところなら、きっと面倒を見てくれるはずだ」
良子の声には、迷いのない力が宿っていた。その言葉を聞いた子供たちの瞳に、かすかな光が戻る。
けれど──それも一時しのぎに過ぎない。
本当に彼らを救うには、復興の波に乗じて、世の中の在り方そのものを変えなくてはならない。
「その後、官邸に向かうぞ!」
良子はそう言って満里奈を見つめた。
「官邸って……総理官邸? なにをするつもり?」
「この非常事態に、ゾンビを恐れて隠れていた奴らに、喝を入れてやるんだ!」
息巻く良子の姿を見て、満里奈は胸の奥に不安を覚えた。
今までずっと、正体を隠すために目立たぬよう生きてきたのに──そんなことをすれば、彼女が異星人だと知られてしまうのではないか。
けれど、今の良子は初めて出会った頃よりも、ずっと“人間らしい”。
何をするにも面倒くさそうで、感情の起伏を見せなかったロボットのような姿は、もうどこにもなかった。
決意を宿したその横顔を見つめながら、満里奈は静かに思う。
──旅の終わりが、確実に近づいている。
良子に「旅行に行かないか」と誘われたとき、別れの予感はすでに感じていた。
あれほど目立つことを嫌っていた人が、自分から行動を起こすなんて──その理由が自分のためだということも、分かっていた。
それでも、あの時止めなかったのは、もしかしたら一緒に旅をするうちに、考えが変わるかもしれないと思ったからだ。
「お姉ちゃんは、どうしたいの?」──あの一言を、言わなければよかった。
今になって、満里奈はそう思う。
けれど、不思議と怖くはなかった。
たとえ離れても、きっとこの人は、どこかでひっそりと自分を見守ってくれる。
それだけは、誰に何を言われようと信じられた。
だって、良子の瞳にはいつも、自分を思う優しい光が宿っているのだから。
大勢の子供たちを乗せて、二人の車は再び東の空を目指して走り出す。
その先にある未来に、希望を抱きながら──。
~To be continued~
