「おい、お前、あの噂聞いたか?」

 世界がこんなことになる前から、自堕落な生活を送っていたユウヤは、世紀末のようなこの現状にも、たいして危機感を覚えていなかった。
 元々引きこもりだった彼は、ゾンビに出くわしても、人が襲われていようと関係ない。
 迷わず逃げ、自分だけが助かればそれでいい──そんな生き方を、今日まで続けてきた。

 人を信じるより、先に裏切る。助けを求められるより、先に背を向ける。

 それが“この世界の正しい生き方”だと、ユウヤは本気で思っていた。

「何の話だ~?」

 避難所生活でも何ひとつ役に立つことをせず、他人の噂話だけを暇つぶしに聞いていたユウヤは、いつものように気のない声で返した。

「この世界に──救世主が現れたって話だよ」

「救世主?」

「ああ。各地を転々と回って、悪党どもを懲らしめてるらしい。ゾンビにも、人間にも容赦しねぇってさ」

「へぇ~……何かの時代劇みたいな話だね」

 ユウヤは鼻で笑った。自分以外がどうなろうと、知ったことではない。
 それに、この現状にもさほど不都合は感じていなかった。働けとうるさく言う大人もいない。
 避難所で大人しくしていれば、三食昼寝付きの生活が待っている。

 今まで自分を支えてくれていた両親ともはぐれてしまったが──ユウヤはそれすら、特に気にしてはいなかった。

「それでさ、どうやらその救世主ってのが、子供らしいんだよ」

「子供?」

「ああ。お面を被った女の子だって話だ。しかもこの世界を元に戻すとか言って、ゾンビにワクチンを打ちまくってるらしい」

「元に戻すだって!?」

 ユウヤの声が思わず上ずった。さっきまでダラリと寝転がっていたのに、慌てて身を起こす。

「冗談じゃない……!」

 元の世の中に戻るなんて、まっぴらごめんだ。朝から晩まで働かされ、誰かに指図される日々。
 想像しただけで、背筋がゾッとする。

「せっかく“自由”を手に入れたのに……また元通りだなんて、地獄じゃねえか」

 そう言って血相を変えるユウヤは、正真正銘のクズだった。大学を辞めてから仕事もせず、家に引きこもる日々。
 うるさい親の声に根負けしてバイトを始めても、長くは続かない。

 基本的に、他人を見下している。「本気を出せば、あんな連中より上に行ける」──そう信じて疑わない人間だった。
 ただ“その機会”がまだ訪れていないだけで、今の自分の境遇は“運が悪いだけ”だと本気で思っている。
 チャンスさえ巡ってくれば、すぐに世間が自分を認めてくれる──そう信じながら四十を目前にしても、現実からまだ目を背け続けていた。

「腹立つなぁ~……勝手なことしやがってよ」

 ユウヤが憤慨するたびに、周囲は呆れ果てる。だが、その身勝手さを面白がる者もいた。
 世界を救おうとする者に対して、こんな理由で怒る人間がいるのか──。
 その滑稽さは、もはや一種の娯楽だった。

(いずれ自滅して、後悔するんだろうな……)

 タカシはそんなことを思いながら、ユウヤの背中を眺めていた。愚かで、情けなくて、けれどどこか憎めない。
 だからこそ──その末路を見届けてみたいと、心のどこかで思っていた。

 この愚か者は、配給された食料を呑気に頬張りながら、それが誰かが危険を冒して集めてきたものだということすら想像していない。
 まるで、自分は黙って寝転んでいるだけで食料を分けてもらえる“特別な人間”だと本気で思っているのだ。

 しかも、そんな堕落した態度に、周囲の連中が徐々に怒りを募らせていることにも気づいていない。
 タカシは、ユウヤが避難所から締め出される日もそう遠くないと感じ、心の中でほくそ笑んでいた。愚か者の末路ほど、見応えのあるものはない──。

「それが、近々この避難所に来るらしいぜ」

「えっ! どんな奴だよ。そのガキは。ここに来たら『余計なことすんな!』って俺がびしっと言ってやる」

「ゾンビを倒しまくってる救世主に? ……お前が?」

 タカシはそう言ったまましばらく絶句した。口先だけでは何とでも言えるが、この男が皆が称える英雄に面と向かって言えるはずがない。
 言えたとしても、せいぜい遥か彼方からブツブツ文句を言うだけだろう。本当にこの男は、見ていて飽きない──とタカシは心の中で思っていた。

 そんな時、避難所の出入り口の方からざわめきが広がった。誰かが「救世主が来たぞーっ!」と叫ぶ声が響く。

「おい、行ってみようぜ。文句を言うチャンスじゃん」

 タカシは、このタイミングで本当に“救世主”が現れるとは思ってもみなかった。
 だが、こいつを煽ればもっと面白いものが見られる。タカシは少し動揺しているユウヤの腕を引き、強引に避難所の出入り口へと向かった。

 出入り口では、救世主の登場を歓迎するかのように多くの人々が集まっていた。
 避難所に身を寄せているほとんどの者が、その姿を一目見ようと群がっている。

 ざわめきと歓声が渦巻く中、よくわからないヒーローのお面をつけた小柄な少女──満里奈が先頭を歩き、出迎える人々にブンブンと忙しなく手を振っていた。
 その少し後ろを、良子が静かに歩いている。その腕には、ワクチンが詰め込まれた大きな鞄を抱えていた。

「あれが、ゾンビを元に戻せるっていうワクチンだろ? これで、こんな世の中ともおさらばだ」

 人々は口々に彼女たちを称え、“元の平穏な世界”に戻れるという希望を、久しく忘れていた笑顔で噛みしめていた。
 しかし──そんな喜びの声が渦巻く中で、ひとりだけ複雑な表情を浮かべる男がいた。
 群衆の歓声を背に、しかめっ面で満里奈を睨みつけている。
 人々が喜びの声を上げれば上げるほど、その顔はますます歪んでいく。それがユウヤだった。

 良子がこの施設のリーダーにワクチンの入った鞄を手渡すと、満里奈は一歩前に出て、穏やかな声で周囲に語りかけた。

「すでに他の避難所にも、このワクチンは届けられています。少しずつではありますが、世界は平穏な日常を取り戻しつつあるのです。長い間、不自由な生活を強いられてきたと思いますが──もう少しです。希望を持ってください」

 満里奈の言葉と同時に、大きな歓声が巻き起こった。
 それを隣で聞いていた良子も、満足げに「うん、うん」と頷きながら嬉しそうに笑う。

 温かい空気が会場を包み込み、誰もが胸を熱くしていた。
 そんな祝福のムードの中、満里奈はさらに言葉を重ねる。

「周囲にはまだゾンビがたくさんいます。ですが、それも心配いりません。このワクチンの使い方をお教えするのと一緒に、私が周囲のゾンビを片付けておきます」

 その堂々とした宣言に、再び大歓声が湧き起こった。
 小さな少女が、自分たちのために危険を顧みず戦おうとしている──その姿に感極まり、涙を流す者もいた。

 だが、その熱狂の渦の中で、明らかに場違いな空気を放つ者が一人いた。タカシが、にやりと笑いながら隣のユウヤを肘でつつく。

「言わせておいていいのか?」

 その言葉をきっかけに、ユウヤの口が勝手に動き始めた。最初は小さく、しかし次第に憎々しげに愚痴り始める。

「何が“ゾンビを片付けておきます”だよ……ワクチンがあるから余裕ぶってんだろ。俺だってワクチンさえありゃ、そのくらいできるっての」

 この大歓声に飲まれて、こんな小さな愚痴など誰にも聞こえていない──そう思っていた。
 だが次の瞬間、ユウヤの言葉に呼応するように、群衆の向こうから冷たい視線が突き刺さる。

 救世主の付き添いの女──良子が、鋭い眼光でこちらを見ていた。それはまるで、音を頼りに獲物を追う獣のようだった。

「や、やべぇ……聞かれたかも……」

 タカシが小声で呟いた時にはもう遅かった。女は険しい表情のまま、ゆっくりと一歩、また一歩と確実に距離を詰めてくる。
 その足音がやけに重く響き、周囲の喧騒が遠のいていくようだった。

 逃げようとしても、脚が地面に縫い付けられたように動かない。そして──良子は二人の背後に静かに立った。

 肩をがっしりと抱き、耳元で低く言い放つ。

「ほぅ……こんな所にも、強者がいたようだな」

 その声には、おしっこをちびりそうになるほどの迫力があった。言い訳しようとしても、喉がひゅっと詰まり、身体が小刻みに震える。

「あ、あのぅ……」

 まるで蛇に睨まれた蛙。ユウヤの声はかすれ、情けない音しか出ない。

 ──しかし次の瞬間、良子は何事もなかったようにふっと笑った。その笑顔は、さっきまでの殺気が幻だったかのように柔らかい。

「ちょうどいい。この二人にも手伝ってもらおう」

「えっ、俺も!?」

 タカシの悲鳴じみた声が、避難所のざわめきの中に虚しく吸い込まれていった。まさか自分まで標的になるとは思いもしなかった。

 だが、良子にはとうの昔に分かっていた。ユウヤのクズっぷりは一目で分かるが、タカシもそれに劣らない。
 見た目はマトモでも、他人を笑って眺めている分、性質(たち)が悪い。そんな奴らの為に、満里奈が危険を冒してまで救ってやる必要はない。

「ああ、何も心配することはないさ。ワクチンがあるんだ。あんな幼い子供だってやっていることだぞ」

 そう言って良子は、お面をつけたままの満里奈を見て、ニヤリと笑った。グチグチ文句ばかり言っていた男は、少し煽れば簡単にその気になるだろう。
 だが、もう一人の方──タカシは違う。人を観察し、状況を測ってから動く狡賢いタイプの人間だ。

 だからこそ、逃げ道を塞ぐ必要がある。良子は群衆の方へ振り返り、声を張り上げた。

「なあ、みんな! この二人が、ゾンビを人に戻すために我々を手伝ってくれるそうだ! 勇敢なこの二人に──拍手を!」

 その瞬間、避難所の中に歓声が巻き起こった。だがそれは、決して二人への期待の拍手ではない。
 日頃から狡賢く、楽ばかりしていた連中に“天罰”を与えてくれる良子への喝采だった。
 こうなると、もう二人は後に引けない。
 ユウヤは引っ込みがつかなくなり、顔を真っ赤にして「やってやるよ!」と息巻いた。
 一方でタカシは、顔面から血の気が引いたまま、どうにかしてこの窮地を切り抜ける方法を探している。

 二人の態度は対照的だが、どちらも目の奥に怯えの色を宿していた。

 そのとき──。
 騒ぎを聞きつけた満里奈が、二人の間からひょこっと顔を出した。
 お面の下の表情はわからない。だが、二人をじっと見つめるその視線には、何を考えているかわからない不気味さがあった。
 何も言わず、ただ見つめている。その無言の威圧感に、二人は耐えきれず、同時に顔をそらした。

 そのとき、良子が笑いをこらえながら、わざとらしく咳払いをして口を開く。

「この二人が手伝ってくれるそうだ」

「へぇ~、手伝ってくれるんだ。だったら、すぐに行こう」

 満里奈は小さく頷くと、良子と一緒に二人の腕を取った。そして、そのままバリケードの外へと向かう。逃げることなど、もはや不可能だった。

 大勢の人々が見守る中、二人はゾンビが徘徊する外へと連れ出されていく。その顔は、まるで死刑執行を待つ罪人のようだった。
 良子はそんな二人を横目で見ながら、ワクチンを収納したフォルダー付きのバックルを手渡した。

「そのフォルダーの中には、ワクチンの入ったシリンジが二十本。これだけあれば──お前たちなら余裕だろう?」

 良子はそう言って、口の端を吊り上げた。だが、二人はもうそれどころではない。
 バリケードの向こうで、腐臭を放つゾンビたちがこちらを嗅ぎつけ、鈍い唸り声を上げていた。
 まだ気付いていないが、次の瞬間にも奴らは飛び掛かってくるかもしれない。
 冷や汗と共に、腰から何かが漏れ出す。

 その時──。

 満里奈が何の躊躇もなく、バリケードの鉄骨をガンガンと叩き始めた。

「やめろぉぉぉぉっ!」

 金属音が響き渡ると同時に、ゾンビたちの濁った目が一斉にこちらを向く。涎を垂らし、喉を鳴らしながら、一心不乱に突進してくる。その迫力にビビって、二人は揃って叫んだ。

「ひぃぃぃっ!」

「満里奈! 手本を見せてやれ!」

「おっけぇ~!」

 満里奈は返事と同時に、地面を蹴った。
 その両手には、シリンジが二本。まるで短剣のように握りしめ、襲い掛かるゾンビたちの群れへと突進する。

 掴みかかろうと伸びたゾンビの腕を、紙一重で躱す。その動きは、まるで風のようで次の瞬間に細い腕が閃き、注射針がゾンビの皮膚を正確に貫いていた。

「……は、速ぇ……!」

 ユウヤが息を呑む間にも、満里奈の通った軌跡の上で次々とゾンビが崩れ落ちていく。それは、戦いというよりも、まるで舞踏のようだった。
 シリンジを打ち込むたび、わずかに髪が揺れ、足音ひとつ立てずに通り抜ける。

 バッタ、バッタと倒れるゾンビたち。彼らの目の前には、もはや希望という名の恐怖が映っていた。
 一通りゾンビにワクチンを打つと、満里奈は何ごともなかったように、ヒョコヒョコと戻ってくる。山のように積み重なったゾンビを背にしたその姿は、まさに圧巻だった。

 次元の違いを見せつけられ、言葉を失う二人。その沈黙を断ち切るように、良子が静かに口を開く。

「——さあ、次は君たちの番だ」

 数が減ったとはいえ、ゾンビはまだ数十体はいる。ユウヤとタカシは顔を見合わせ、互いに譲り合うようにして一歩も動けずにいた。
 恐怖で喉が乾き、足が地面に縫いつけられたようだ。

 そのとき——
 満里奈は外したお面を頭の上に乗せ、あどけない顔つきで二人を見上げた。

「なに、意地になってんのさ。出来ないことは出来ないって、認めちゃえばいいんだよ。人が助け合うって、そういうことだから!」

 どう見ても小学校低学年。
 いや、下手をすれば、まだ学校に入学すらしていないほど幼く見える。
 その姿から、さっきまでゾンビの群れを一掃していた“戦闘の鬼”を想像することなど、とてもできなかった。
 呆然と立ち尽くす二人を見据え、満里奈はさらに話を続けた。

「『自分にはできない』って素直に言えるようになったら、相手はきっと『じゃあ、これは俺がやるから、君はこっちを頼む』って言ってくれる。でも、“自分は人より優れてる”なんて意地を張ってるから、誰のことも見えなくなっちゃうし、結局なにもできなくなっちゃうんだよ」

 その言葉は、静かに、しかし確実に二人の胸に刺さった。満里奈の言っていることは、あまりにも正論だったのだ。
 プライドの高い二人は、他人を認めることができず、いつの間にか卑屈になってしまっていた。

 結局のところ、そのプライドの高さこそが己を縛り、自分本位で身勝手な人間に変えてしまった——。
 本当は二人とも、とっくに気づいていた。ただ、認めたくなかっただけだ。
 そんな時、三人の様子を見ていた良子が、いつもの無表情のまま口を開いた。

「君たちは、他人に興味がないようだな。じゃあ逆に——他人が君たちのことをどう思っているか、考えたことはあるか?」

 一瞬の沈黙の後、良子の視線が、氷のように冷たく二人を射抜く。

「お前たちの周りに人が寄ってこないのは……近寄りがたいからじゃない! クズだと思われてるからだ!」

 その一言は、まるで雷鳴が真上に落ちたような衝撃だった。ユウヤとタカシの脳裏が真っ白になる。
 ——分かっていた。薄っすらと、自分でも気づいてはいたが、誰かに“はっきりと言葉で突きつけられる”のは初めてだった。
 現実を受け止める勇気がなく、二人はただ目を逸らしてきただけなのだ。それを今、真正面から叩きつけられた。
 何も言えずに呆然とする二人を見て、満里奈が慰めるように声を掛ける。

「ほら、何してんの? おじちゃんたちは、おじちゃんたちの出来ることをしよう。ゾンビは私が片付けるから、注射を打たれて倒れたゾンビたちを運んでよ」

 そう言われ、倒れたゾンビに目を向けると、彼らはいつの間にか人間としての自我を取り戻し、途方に暮れていた。
 良子はすぐに動き、起き上がった人たちを次々とバリケードの中へと運び込んでいく。

 ユウヤとタカシはお互いの顔を見合わせ、何かを決意したように頷いた。
 満里奈が再びゾンビへと立ち向かう中、二人は黙々と、元ゾンビたちの肩を抱きかかえ、避難所の中へと運び続けた。

 その後、彼らが“真人間”になったのかは──定かではない。






              ~To be continued~