アキラは連れ去られたガールフレンド・佳苗を救うため、錆びついた鉄扉を押し開け、奴らの巣窟へと足を踏み入れていた。

 あの日を境に、世界は崩壊した。
 ゾンビが蔓延し、順風満帆だった日常は跡形もなく消え失せた。
 ほんの少し前まで──部活や勉強に追われながらも、仲間と笑い合っていた普通の高校生だったのに、どうしてこんなことになったのだろうか。

 今はただ、血の匂いが充満する闇の中で、佳苗の名前を心の中で繰り返す。
 器量が良く、誰からも好かれていた佳苗は、初めから奴らに目を付けられていた。最初のうちこそ奴らは大人しくしていたが、壊れていく世界を目の当たりにして、徐々に本性を現していった。

 誰もがいつか救助がきて、すぐに元通りの生活に戻れると思っていた。
 しかし、いくら待てども救助は来ずに、世界の終わりが始まったのだと認めざるを得なかった。
 そうなれば、秩序などは何の意味すら持たなくなる。何をしたって罰する者などいないのだから。

 そんな世界では、力こそがすべてだった。どんなに正論を述べようと、力のない者はあっけなく淘汰される。
 誰も他人を守ってはくれない──大切なものを守りたければ、自分の手で守るしかない。
 そう思い鉄パイプを持って、ここに乗り込んだ。しかし、これだけの人数を相手に、たった一人で立ち向かうなど、考えが甘かったのだ。

 佳苗が男たちに囲まれ、必死に助けを求める声を上げる。だが、男たちに取り押さえられたアキラは、その手を伸ばすことすらできなかった。
 いくら叫んでも、不甲斐ない惨めな現実が突きつけられるだけ──。

 その時、倉庫の奥に甲高い声が響き渡った。

「じゃ、じゃ〜ん! 満里奈、参上~っ!」

 目を向けると祭りで売っているようなヒーローのお面をつけた、小さな影が入口に立っていた。
 かっこよくポーズを決めているが、その華奢な姿には脅威どころか、思わず笑いがこみ上げるほど頼りなく見えた。

「何だ、このガキは?」

 連中も小さな子供だと見くびって、完全に警戒を解いている。そんな中、男の一人が威圧するように、バットを振り回し小さな子供に近付いていく。

「おい、お前! どっから迷い込んだんだ?」

 男がバットを構えたまま、満里奈ににじり寄る。
 だが、子供は一歩も引かない。むしろ、首を少しかしげて興味深そうに相手を見つめていた。
 お面に隠れて表情はわからないが、怯えているようにはまったく見えない。

「おい、聞いてんのかって!」

 男が怒鳴り、バットを振り下ろした──。
 その瞬間、乾いた音と共に、バットの金属部分が宙を舞った。

 何が起きたのか誰も理解できない。
 気づけば、満里奈は男の背後に立ち、お面の奥から冷ややかな声を漏らしていた。

「人を傷つける手は、要らないよね」

 床に落ちた金属音が、倉庫の中で長く響き渡った。その直後──満里奈は男の手首を掴み、反対方向へ勢いよく捻じ曲げる。

「ぎゃあああああっ!」

 骨の砕ける音が、悲鳴を追い越すように響いた。その瞬間、場の空気が瞬く間に凍りつく。

 その時、初めて男たちは理解した。──この子供は、ただの子供ではないと。一転して警戒を見せる男たちは、脅威を感じジリジリと後退りを始めた。
 そしてアキラを押さえつけていた男たちの手も緩んだ。

「今だ……!」

 咄嗟に体をひねり、拘束を振りほどくと、アキラは佳苗のもとへ駆け出した。
 そして彼女を取り囲んでいた男たちに、全身の力を込めて体当たりする。
 その勢いに押され、数人が無様に倒れ込んだ。倒れた男たちの間で、アキラは息を荒げながら佳苗を抱き寄せた。

「大丈夫か!?」

 必死に叫ぶ、その背後で満里奈の小さな影が再び動く。目の前で繰り広げられる光景に、アキラは呆然とするしかなかった。
 ──あんな幼い子供、しかも女の子が、屈強な男たちを次々と倒していく。

 小さな身体で宙を飛び回り、相手を翻弄したかと思えば、肘鉄一発をみぞおちに叩き込み、男を膝から崩す。
 振り回されるバットを軽やかにかわしながら宙返りし、そのまま対面の敵の頭上につま先を叩き込む。
 そして、あんな小さな手で打ち込まれるパンチは、風を切る轟音と共に相手を大きく吹き飛ばす。

 それはまるで映画のアクションシーンのようで──現実とは思えなかった。

 そしてその背後には、保護者のような女が何もせずにただ見守っていた。
 静かに腕を組み、満里奈の戦いぶりを見届けながら、どこか薄笑いを浮かべている。ヒヤリとする場面でも声を上げず、加勢する様子すらない。

 まるで我が子のお遊戯会でも見守っているかのようで──その姿は異様でありながら、不思議と温かみが感じられた。
 そして、満里奈がすべての敵を蹴散らすのに、それほど時間はかからなかった。
 最初こそ必死に立ち向かっていた男たちも、人間離れしたその強さを目の当たりにすると、次第に恐怖に呑まれて逃げ惑うばかりだった。
 だが、満里奈は容赦しない。一人ひとりを確実に沈めていく。

 ピンチを迎えていたアキラの目には──お面をつけたその小さな背中が、まるで本物のヒーローのように映っていた。
 そんな時、背後からゆっくりと歩み寄る気配があった。
 保護者のような女が、静かにアキラたちへと近づいてくる。
 敵意も悪意も感じられない。だが、表情というものがまるで欠けていて、その無機質さが逆に不気味だった。

 女が羽織っていたジャンパーを脱いだ瞬間、佳苗は反射的に身をすくめ、目をぎゅっと閉じた。
 だが──その手は優しく、切り裂かれた佳苗の衣服の上に、そっとそのジャンパーを掛けていた。

「どうだ。うちの満里奈は凄いだろう」

 静かにそう言って二人に目を向けた女の顔は、さっきまでの無表情とはまるで別人のようだった。
 感情というものをどこかに置き忘れていたかのような女の瞳が、いまはまるで子供のように輝いている。
 それは、ご褒美をねだる犬のようでもあり──純粋な誇りに満ちた親の顔だった。

 警戒していたアキラと佳苗も、思わずその空気に呑まれてしまう。
 女は続けざまに、嬉しそうに満里奈という少女のことを語り出した。

「うちの満里奈は、強いだけじゃないんだ。ここに来て、お前たちを助けようって言い出したのも満里奈で──」

 女の話は止まらなかった。満里奈がどれほど賢くて、優しくて、どんな時でも冷静沈着で……と、自慢が延々と続く。
 最初のうちは微笑ましく聞いていたアキラと佳苗も、次第に顔を引きつらせていった。

 ──このまま黙っていたら、たぶん朝まで続く。

 アキラは、気まずさに耐えかねて、ついに口を開いた。

「あ、あの……お二人は、どうしてこんな所に……?」

 その問いには、純粋な疑問だけでなく、恐怖と警戒も混じっていた。
 ゾンビが蔓延するこの世界で、夜の倉庫を歩き回るなんて正気の沙汰ではない。
 誰もが息を潜め、避難所で身を潜めているというのに──。

 女はそんなアキラのそんな心中を知ってか知らずか、いつもの無表情に戻り、あっさりと言い放った。

「私たちか? 通りすがりの旅の者だ」

「た……旅の者って……」

 佳苗は思わず声を漏らした。女の間の抜けた言葉に、二人は呆気に取られるしかない。
 この終末の世界で、旅をする余裕などあるはずがない。
 避難所に籠もり、息を潜めて生き延びるのが精一杯──それが現実だ。

「旅……?」

 アキラも思わず聞き返すが、女はどこ吹く風といった様子で堂々と胸を張っている。
 その沈黙を破るように、倉庫の奥から軽い足音が駆けてきた。

「お姉ちゃん! また話をややこしくしてるー!」

 血飛沫を浴びたまま、満里奈が物凄い勢いで走ってくる。

「お姉ちゃんが、すみません。お二人はご無事だったようですね」

 その声は驚くほど落ち着いていた。満里奈は軽く息を整えると、ゆっくりとお面に手をかける。
 そして、それを外した瞬間──あどけない少女の顔が現れた。

 つい先ほどまで凄まじい戦闘を繰り広げていたとは思えない。
 整った息遣いに、穏やかな瞳。あまりの落差に、二人は言葉を失った。

「初めまして。満里奈と申します」

 小さな身体をぴんと伸ばし、深々と頭を下げる。
 その礼儀正しい仕草が、先ほどの凄絶な戦いをますます非現実的に見せていた。

「私たちが旅をしているのは──ゾンビの蔓延したこの世界を、元に戻すためなんです」

 満里奈の口調は驚くほど落ち着いていて、その幼い顔から発せられる言葉とは思えなかった。
 さっきまで保護者のような呑気だった女とは、まるで対照的だ。

「えっ……元に戻すって、どうやって!? 本当に、あの生活に戻れるの!?」

 佳苗の声が震える。希望と戸惑いが入り混じったその反応に、満里奈はほんの少しだけ微笑んだ。

「ええ……ゾンビが蔓延するこんな世界になったのも、すべて“あるウイルス”のせいなんです。
 そして──そのウイルスに対抗できるワクチンを、この馬鹿……いえ、お姉ちゃんが作ってくれたんです」

「馬鹿」と言いかけてから慌てて「お姉ちゃん」と言い直す満里奈。訝しげな目で見られた良子は、ばつが悪そうに目を背けた。
 そんな二人のやり取りが、さっきまで死と恐怖に支配されていた空間に、ほんの一瞬の安堵をもたらしていた。
 アキラと佳苗は、ただ呆気にとられたまま、ぽかんと口を開けて──なぜか「うんうん」と頷いていた。

「すでにこのワクチンは、一部の地域に配られています。その地域では、少しずつですが人々の生活が戻りつつあるんです。
 もしこのワクチンが全国に行き渡れば……元の世界に戻れる日も、そう遠くはありません」

 まるでプレゼンでもしているかのような満里奈の説明に、アキラと佳苗は言葉を失った。
 どんな教育を受けたら、こんなに落ち着いた子供になるのか──そう思わずにはいられない。
 高校生の自分たちでさえ、あの恐怖の中で取り乱すばかりだったのに。
 恥ずかしさと、それを上回る希望が胸の中で混ざり合い、二人の目にはいつしか涙が滲んでいた。
 ──けれど、本当に元の生活に戻れるのだろうか。

 あの日々が崩れ去ってから、どれだけの月日が流れたことか。
 政府機関からの連絡は一度もなく、近くにある自衛隊の駐屯地も、とうの昔に沈黙したままだ。

 人々は希望を失い、一部の者は力を頼りに他者を踏みにじる。殺伐としたこの世界では、「明日生きているか」さえ分からないのだ。

 たとえゾンビがいなくなったとしても──人間の心が壊れたままでは、あの頃の世界には戻れない。

 アキラは込み上げる鬱憤を抑えきれず、思わず声を荒げた。

「ゾンビがいなくなったからって、元通りにはならないだろ!」

 そんな心の叫びが倉庫の中に響く。
 満里奈は一瞬だけ悲しげな表情を浮かべ、良子は視線を逸らしたまま沈黙した。
 しかし次の瞬間、満里奈はまっすぐアキラを見据える。

「そうですね……すべてが元通りになるわけではありません」

 静かだが、芯のある声だった。

「けれど、元に戻らないからといって、希望まで捨てるのですか?
 何かを失ったからといって、自分まで壊してしまったら──それは、あいつらと同じです。
 あなたは“大切なものを奪う側”の人間になりたいのですか?」

 満里奈は足元に転がる男たちを一瞥すると、再びアキラへと目を向けた。
 その瞳には、歳の差など超えた静かな決意が宿っていた。

 アキラは何も言えなかった。
 そのまっすぐな眼差しに、自分の小ささが突きつけられたようで、喉の奥が焼けつく。

 そして──沈黙を破ったのは佳苗だった。
 涙を拭いながら、何かに目覚めたように声を上げる。

「また、やり直せばいいじゃん! 失くしたものは戻らなくても、前を向いて歩けば──大切なものなんて、また見つかるよ!」

 その声は震えていたが、確かな強さがあった。満里奈が静かに頷き、良子もわずかに目を細める。
 佳苗の言葉が、アキラの胸に深く突き刺さった。
「希望を捨てなければ、大切なものはまた見つかる」
 ──その言葉は、乾ききった心にじんわりと染み込み、忘れかけていた温もりを呼び覚ます。

 アキラはこの騒動で両親を失っていた。
 いや──正確に言えば、どこにいるのかさえ分からない。
 ゾンビになっているかもしれないし、もうこの世にいないのかもしれない。

 それでも、今はもう「失った」という言葉だけで片づけたくなかった。
 胸の奥で何かが、再び灯り始めていた。
 その時──満里奈のふとした一言が、アキラの心に強く光を刺した。

「このワクチンのすごいところは、ゾンビになった人間さえ元に戻せるんです。……私の母のように」

「……母?」

 思わず問い返すアキラ。
 満里奈は一瞬だけ視線を落とし、静かに微笑んだ。

「お姉ちゃんが、ゾンビだった私のお母さんを助けてくれたんです。
 だから、私は信じている。このワクチンがあれば、きっと世界はもう一度やり直せるって」

 その言葉に、アキラの濁った瞳がゆっくりと光を取り戻していく。もしかしたら──自分の家族だって、希望を捨てなければ、またどこかで会えるのかも知れない。

 希望が再び、胸の奥で息を吹き返していた。

「──まあ、そういうことだ。気を落とさずに前へ進め」

 その瞬間、良子の素っ頓狂な一言に、全員の頭上に「?」が浮かぶ。
 誰もが「どういうことだよ」と突っ込みを入れたくなったが、あまりにも堂々と、そして誇らしげに言い放つその姿に、思わず言葉を失ってしまう。

 次の瞬間、アキラが小さく吹き出した。笑いは連鎖し、佳苗もつられて肩を震わせる。

 死と恐怖に満ちたこの世界の中で、久しぶりに──人間らしい笑い声が響いた。





              ~To be continued~