ラボを離れた良子は、胸の奥でひと息をつくように屋上へと足を運んでいた。
 外の景色は相変わらず荒廃し、世界はまだ混沌のただ中にある。それでも、ここには青い空と、頬を撫でる涼しい風がある。短く切った良子の髪が揺れ、かすかに頬をくすぐった。

 物思いに耽りながらも、良子にはこれからまだやるべきことがあった。ワクチンは完成した。だが、それはまだ始まりにすぎない。
 ゾンビと化した人々に接種し、彼らをひとりでも多く取り戻す──それがこの世界を、かつての“日常”へと近づける唯一の道だった。
 しかし、満里奈の母親が元の人間に戻った今、良子の胸には別の問いが浮かんでいた。
 自分はこれからも満里奈のそばにいていいのだろうか。
 世界が再び秩序を取り戻した時、異星人である自分の存在は、必ずや非難や恐怖の的になる。

 いつまでも満里奈の成長を見守りたい。できることなら、彼女の未来をこの目で見届けたい。
 だが、自分の正体が露見すれば、その火の粉は満里奈にまで及ぶだろう──。
 今まで通り正体を隠し、世界を転々としながら身を潜めるしかないのだろうか──。深く息を吐いたその瞬間、背後から聴き慣れた声が届いた。

「……嫁さんは、元に戻ったよ。ありがとな」

 振り向くと、そこに立っていたのは施設のリーダー、前島だった。大柄な体に似合わず、その目尻にはうっすらと涙が浮かんでいる。
 彼の妻もまたゾンビとなり、この施設の一角に拘束されていたのだ。

 ここに避難してきた人々の多くが、同じように家族がゾンビになり、椅子に縛られ拘束されていた。
 致命傷で助けられなかった者もいたが、それでも──良子がこの施設で救った命は数え切れない。
 前島はその事実を噛み締めるように、深く頭を下げた。

「……良かったな。これから、この世界も少しずつ元の平和な世の中に戻っていくだろう」

 良子がそう呟いたとき、前島の胸に、なぜか寂しさがよぎった。

「どうしたんだ? 浮かない顔をしてるじゃないか」

 前島の問いかけに、良子は珍しく、迷うような目をした。

「……私は、このまま満里奈と一緒にいていいのだろうか?」

 その一言が、すべてを語っていた。前島は彼女が異星人であることを知らない。
 だが、どこかこの女が“人間の枠”に収まらないことは、とうの昔に感じていた。
 どんなことをやってのけても、歴史上の天才といわれる者たちを凌駕するほどの能力を持つ女──その力は、脅威でありながら、同時に救いでもあった。

「確かに……お前は普通の人間を遥かに超えている。しかし、お前はこの世界を救った英雄なんだ」

 前島はそう言って励ました。だが、良子の胸のくもりは晴れなかった。──度を越えた力を持つ者は、尊敬の対象にもなれば、同時に脅威の対象にもなる。
 良子はそれを、嫌というほど見てきた。
 長い年月をこの地球で過ごす中で、目立つことの危うさ、人々の感情の揺れ、そしてその果てに待つ孤立を、何度も経験してきたのだ。
 だからこそ、彼女は人目につかず、ひっそりと力を隠し続けてきた。

「お前たちには、この世界のピンチを救ったヒーローに見えるのかも知れないが、私は満里奈の為に力を尽くしただけだ……」

 良子はそう言いながら、満里奈と初めて出会ったことを思い出していた。

「助けて! 助けてください!」

 満里奈の母の声を聞いた時、彼女はただ足を止めただけだった。助けようと思ったわけではない。
 ただ、道を塞ぐゾンビが邪魔だったから、首を跳ね飛ばした──それだけのことだった。
 しかし、その母親に守られていた小さな少女・満里奈に、良子は何か説明できないものを感じたのだ。
 いや、危険を顧みず母を思う、その真っ直ぐな情熱に、彼女は思わず興味を抱いたのだ。

 そして今──満里奈と共に過ごした日々を経て、ようやく理解できる。あれは「信頼のおける人間同士の絆」だったのだと。
 その感情が理解できたからこそ、良子は悩んでいた。自分が足枷になるのなら、姿を消すべきではないのかと。

「私はこの件が片付いたら、満里奈の前から姿を消そうと思う。満里奈はもう、私がいなくても生きていける」

 良子の決断に、前島はしばらく言葉を失った。その声音には、満里奈の未来を思う気持ちが痛いほど込められていたからだ。
 だが同時に、胸の奥で疑問が膨らんでいく。あれほど深い信頼で結ばれた二人が、本当に離れ離れになる必要があるのか──と。

 その時、屋上の扉が、風を切るような勢いで開いた。

「お姉ちゃん! どこ行ってたの、探したんだよ!」

 その経緯を何も知らない満里奈が、陽気な声で笑顔を向ける。
 先ほどまでのシリアスな空気とは対照的に、その笑顔は無邪気でまぶしかった。

「……満里奈、お母さんはどうした?」

「安心したのか疲れちゃったみたい。寝かせてきたよ」

 そう言って良子に向ける満里奈の眼差しは、揺るぎない信頼に満ちていた。その一瞬に宿る温もりを見て、前島は胸の奥で確信する。

 どんな秘密が隠されていようとも、この二人ならばきっと乗り越えられる──。決して、離れるべきではない、と。
 前島がそれを口にしようとした時、良子が遮るように口を開いた。

「なぁ、満里奈……旅に出ないか?」

 その声音はどこか遠くを見つめるようで、決意というより“覚悟”がにじんでいた。満里奈はその言葉に一瞬、胸の奥にひやりとした不安を感じた。

「……旅?」

「ああ……完成したワクチンでゾンビになった人たちを救いに行くんだ。各地を回りながら」

 良子は知っていた。この国のどこかには、まだ政府の機関がかろうじて機能している。そこへワクチンを届け、委ねることが、この騒動を最短で終息させる唯一の道だということを。
 しかし、彼女には別の思いがあった。

 もう少しだけ、満里奈と一緒に過ごしたい。そして、満里奈との思い出を記憶の中に残したい。──それがどれほど自分勝手な願いか、痛いほどわかっている。しかし、その我がままだけは何としても貫き通したかった。

 そんな決意を固めた良子の様子に、満里奈は何かを感じ取っていながらも、屈託のない笑顔を向けたまま躊躇なく口を開いた。

「うん。行こう」

 そう言って満面の笑顔を向ける満里奈に、逆に良子は信じられないといった顔を浮かべる。

「……いいのか? 危険な旅になるかもしれないんだぞ」

「だって、お姉ちゃんと一緒なら大丈夫でしょ」

 迷いも恐れもないその言葉に、良子は胸を突かれる。
 満里奈の信頼があまりにも真っ直ぐで、自分が抱えていた迷いや罪悪感が、一瞬だけ薄れていく気がした。

「だけど……お母さん、良いって言うかなぁ」

 だが、次の言葉に、良子は一瞬だけ口を閉ざした。
 母親は元に戻ったとはいえ、長い間ゾンビだったのだ。ようやく再会を果たし、喜びを分かち合う親子を引き離すのは──自分の傲慢ではないか。
 そんな思いが過ぎり良子の表情に、ふっと陰が差した。

 その時、二人のやり取りを見ていた前島は、良子の意図に気づいていた。──この旅を最後に、満里奈の前から姿を消すつもりなのだろう。
 そして、旅を承諾した満里奈もまた、無意識のうちにそれを感じ取っているのかもしれない。
 この先どうなるかは、誰にもわからない。
 だが、前島は心の中で決めていた。二人の邪魔だけは、絶対にしないと。

「お母さんのことは心配するな。俺たちで面倒をみる。まだ身体は本調子じゃないが、お前が帰ってくる頃にはきっと元気になってるさ」

 前島の言葉に、満里奈は小さく安堵の笑みを浮かべた。
 そして良子は、前島の心遣いを悟り、わずかに柔らいだ表情を見せた。普段は決して見せないその笑みに、前島は胸の奥で静かな温かさを覚えた。

「満里奈、私からお母さんに話そう。お前は、もう守られる存在ではない。きっとわかってくれるさ」

 良子はそう言って満里奈の肩を抱き、ふとその小さな身体に凭れ掛かる。
 不思議だった。いつもなら、誰かに寄りかかることなど決してしない自分が、なぜかこの少女の隣では自然にそうしてしまう。

「えぇーっ、ほんとぉ~。お姉ちゃんが言ってくれたら、お母さんもわかってくれるかも」

 満里奈は屈託のない笑顔を見せ、良子の腕に甘えるように身を預ける。
 周囲の目など気にせず、じゃれ合う二人の姿は、まるで本当の姉妹そのものだった。

 前島は、その光景を胸に刻みながら思う。──これほど仲睦まじい関係を人前で見せておきながら、良子は何に怯えているのだろうか。
 たとえ人ならざる存在だったとしても、この温もりを目の当たりにした者が、果たして本気で彼女を脅威だと感じるだろうか。
 むしろ、人の心を失いかけていたこの世界に必要なのは、彼女のような存在なのではないか──前島は改めて二人の絆の深さに感動しながらも、それを口には出さなかった。

 答えを出すのはこの二人だ。この旅でお互いが納得いく答えが、きっと見つかるだろう。
 心の中でそう思う前島の前で、二人は仲睦まじい姿を見せたまま、屋上から去っていった。
 前島は、その背中を静かに見送りながら願う。──まるで、次なる旅路がすでに始まっているかのように。





                 ~To be continued~