あれから一週間が過ぎた。
 満里奈の肋骨のヒビは順調に癒え、全身に巻いた包帯の量も日に日に減っていた。
 襲撃を受けて崩壊寸前だったショッピングモールも、ようやく人の気配と生活の音が戻ってきた。
 廊下の隅では女たちが洗濯物を干し、子どもたちの笑い声がかすかに響く。男たちも、荒らされた建物の中を片付け、新たに設置した入り口のバリケードで交代しながら見張りに立っていた。
 食料や生活必需品は連中に奪われはしたが、しばらく生活できるくらいのものは、すべて良子が取り戻していた。

 あの時、良子に言われた通り、富岡はここを守った。
 散り散りになった仲間たちを奥の部屋に集め、入り口に鉄製の棚を倒してバリケードを築いた。その中には、血まみれになりながらも生きていたリーダーの前島もいた。
 集まった者のほとんどが負傷者で、戦力になりうる者などいなかった。そんな状況でのゾンビたちとの攻防は、想像をはるかに超える地獄だった。
 それでも、良子が必ず戻ってくることを信じて、彼らは踏みとどまった。
 そして、戻ってきた良子は——姿を見せた瞬間、風のようにゾンビの群れに飛び込み、数分もしないうちに奴らを一掃した。それはまるで悪夢が一気に終わるかのようだった。

 そして県警の施設から連れてきた女たちも、まだ怯えの影は残るものの、顔にわずかな血色が戻っていた。
 監禁されていた子供たちのほとんどは家族を亡くしていたが、親元に帰りたいという者は、希望通りに良子が家族の元へ送り届けた。
 残った子供たちは、連れてきた女たちが面倒を見ている。同じ地獄をくぐってきた者同士だからか、彼女たちの子供への対応は手厚く、互いの心の傷が癒されているのが手に取るように見えた。

 一方、良子は隣町の病院から機材と物資を手に入れ、本格的にワクチンの開発を進めていた。拠点は表向きには平和を取り戻したかに見えるが、外ではゾンビたちが未だに徘徊し、その数は増える一方だった。
 それを解決しなければ、本当の平和などいつまで経ってもやってこない──良子はそれを誰よりもよく知っていた。

「お姉ちゃん、ワクチンは……完成しそう?」

 仮設ラボの一角。折り畳み式のテーブルに並べられた試薬と、冷却装置から立ちのぼる白い霧が、空気にわずかな緊張を走らせていた。
 満里奈はマスク越しに小声で問いかけながら、手袋をした手で慎重にピペットを扱う。

 彼女が良子の助手を務めるのは、ワクチン開発が始まった当初からだ。しかし再開した今、その意味合いは以前とは大きく違っていた。
 良子は「お前が一人で道を切り開けるように、私の持っているものは全部教えてやる」と約束した通り、満里奈に生きる術のすべてを教えるつもりだ。
 医術も、戦い方も、人の守り方も──そのすべてを。

「ああ……やはり人がゾンビになるのは、何らかのウィルスが脳に感染してるのは間違いない。しかし、地球上ではその前例がないんだ」

 良子はそう言いながら、以前訪れた惑星のことを思い出していた。……そこでも、同じようなパンデミックが起こり、その星は崩壊の道をたどっていた。
 満里奈の母から採取した脊髄液のサンプルを顕微鏡にかけながら、良子は首をかしげた。彼女はまだ完全にゾンビ化してはいないが、感染の進行は明らかで──その経過は地球のどのウイルスとも一致しなかった。

(やはり、地球外から持ち込まれたものだろうか?)

 良子の脳裏を、鈍い嫌な予感がかすめる。
 もし本当に地球外由来のものなら、そのウイルスを消滅させるには、同じくこの星の外にある抗体が必要になる──そんな考えが頭をよぎっただけで、胸の奥がひやりと冷たくなる。
 千年前、地球に来たときに乗っていた宇宙船は、すでに故障して動かない。その不具合のせいで地球を離れられず、ここで生き延びるしかなかった。
 地球上には、あの船の部品や代替品なども存在しない。
 つまり抗体に地球以外のものが必要なら──良子には、もうどうすることもできないのだ。

「お姉ちゃん、私にも見せてよ」

 顕微鏡から顔を上げると満里奈が、不思議そうな目をして言った。難しい顔のまま、良子は静かに席を譲る。
 自分のしていることに興味を持ち、それで何かをつかもうとする──その姿勢こそが、満里奈の成長につながると良子は考えていた。
 勉強や医術はマンツーマンで教えているが、それ以外の知識は、自分から盗むように学んでほしかった。

「なんか……クラゲみたいだね」

 満里奈が顕微鏡を覗き込みながら、ぽつりと呟いた。その何気ない一言に、良子の脳裏に稲妻のような閃きが走る。
 あの半透明の触手、ゆらめく細胞構造──クラゲの神経網にたしかに似ている。

(まさか……このウイルスは、地球のクラゲに近い構造を持っているのか……?)

 もしそうなら、地球外由来だとしても、海洋生物の免疫反応をヒントにできるかもしれない。良子の胸の奥に、久しく感じていなかった高揚が湧き上がった。

「……でかしたぞ! 満里奈」

 良子は思わず立ち上がり、手にしていたピペットを机に置いて、満里奈の肩をがしっと掴んだ。
 満里奈はその勢いに押されて目をパチクリさせている。ただ顕微鏡の中を見て「クラゲみたい」と言っただけなのに、良子がここまで喜ぶとは思わなかった。
 だが、その目の奥に宿る光を見て、満里奈は「この人、本当に楽しそうだな」と感じていた。
 最初の頃は、ただ感情のない冷たい人としか思わなかった。──なのに今では、可愛らしいとさえ思えている。

 良子が感情を表に出さないのは、人間を嫌っているからではない。
 目立たず、ひっそりと生きるためには、人との繋がりを強く持つことを避けざるを得なかった──ただ、それだけのことなのだ。
 だからこそ、ふとした瞬間にこぼれる笑顔や、研究に没頭する横顔が、ひときわ眩しく見える。

「やったね! お姉ちゃん」

 満里奈は良子の喜びに応えるように声を弾ませた。二人はしばらく笑い合い、研究談義に花を咲かせる。やがて良子は笑顔のまま満里奈を見つめ、静かに言った。

「今日はここまでにしよう……身体の傷も癒えただろう。そろそろお前に戦闘を教えてやろう」

 その一言に、満里奈の胸は一気に高鳴った。間近で見てきた良子の戦闘は、憧れそのものだったからだ。
 人間をはるかに超越した動きは、テレビで見るヒーローそのものに思えた。
「あの“戦い”を、自分もできるようになるかもしれない」──そう思うと、指先が小さく震えた。

 一方、良子の視線は静かだった。
「戦闘」は強さを誇示するためのものではない。あくまで、自分や誰かを守るための“術”にすぎない。
 まして、自分の動きを人間が完全に真似することはできない。基本的な構造は似ていても、脳の仕組みそのものが異なるのだから──。
 良子はゆっくりと席を立ち、白衣を脱いで隣のフックにかけた。

「お前に教えるのは、私の“技”じゃない。お前の体でできる、生き残るための術だ」

 その声には、どこか祈るような響きがあった。

「逃げる、隠れる、そして戦う──順番を間違えれば命はない。まずはそこから叩き込む」

 満里奈はごくりと唾を飲み、頷いた。胸の奥で、期待と緊張が同時に膨らんでいく。

「行こう、場所を変える。……お前に“最初の一歩”を教える」

 良子がそう言うと、仮設ラボの奥にある、かつては店舗だった広いスペースへ二人は足を向けた。

「満里奈、そもそも戦闘において重要なのは何かわかるか?」

「敵を圧倒する力!」

 気合い十分の満里奈の声に、良子は思わずフッと笑った。気合の入ったその姿は少し滑稽にさえ見えたのだ。しかし満里奈が訝しげに目を細めると、良子は軽く咳払いをして話を続けた。

「私は相手を寄せ付けない“守り”だと考えている。歴史上、強者と名を遺した武将たちも、守りが鉄壁だったからこそ名を上げた」

 二人はそのまま仮設ラボの奥、かつて店舗だった広いスペースに足を踏み入れた。天井の蛍光灯が冷たく光り、床には練習用のマットが敷かれている。
 良子は一歩前に出ると、足を肩幅に開き、ゆっくりと腰を落とした。視線は低く、両手は自然に前へ。まるで風のない湖面のような静けさが漂った。

「戦いの基本は“立つ”ことだ。立ち方が崩れれば、どんな技も意味をなさない」

 満里奈も真似して構えるが、膝がガクガクと震え、足裏が床に吸い付くような感覚に思わず息をのむ。

「……こうか?」

「違う。重心は腰、力は抜いて、息を整える。……そうだ」

 良子は背後からそっと肩と腰に触れ、重心を正してやった。その指先は冷たくも、どこか安心させるものがあった。

「守りは相手を弾き返す壁じゃない。“受け止め、流す”ための器だと思え」

 満里奈は言葉の意味を噛み締めながら、必死に姿勢を保つ。背筋に汗がつたう。良子は静かに言葉を重ねた。

「まずは一日中、この姿勢と呼吸だけを練習しろ。走れる足より、崩れない軸の方が先だ」

 その声は厳しかったが、どこか温かい響きを帯びていた。
 満里奈は必死に姿勢を保つが、太ももはじんじんと痺れ、背中には汗が流れ、呼吸が浅くなる。

 しかしこれは、自分が思い描いていた訓練とはまるで違っていた。
 頭の中では、良子のように空中を優雅に宙返りし、華麗に敵を仕留める──そんな映像ばかり浮かんでいた。
「こんな地味なことをして、いったい何ができるのだろうか」と、疑問が胸をよぎる。

 それでも、満里奈は訓練を辞めようとは思わなかった。良子の言うことはいつだって間違いなかったからだ。
 ふくらはぎは小刻みに震え、背中を伝う汗が冷たくなる。必死に踏ん張りながら、何度も深く息を吸い込み整える。

 良子はその様子を横目で見ながら、近くの椅子に腰を下ろした。足を組み、ページをぱらりとめくる音だけが静かに響く。
 まるで呑気に本を読んでいるようでいて、視線は時折満里奈に向けられていた。

「ねぇ、これで……お姉ちゃんみたいになれるの?」

 満里奈は息を荒げ、汗を額に光らせながら、不安気な目で良子を見つめた。
 良子はその視線を受け止め、ページを静かに閉じる。そして、しばしの沈黙が落ちた。

「……それは前提が違う」

 良子はゆっくりと本を膝に置き、満里奈の正面に向き直った。

「前に、私たち身体の構造は地球人とほぼ同じだといったが──脳の仕組みはまるで違う。だから私のような動きは、満里奈にはできない」

 その言葉に、満里奈は一瞬ぽかんと口を開け、目を見開いた。肩の力が抜け、膝がガクンと揺れる。
 良子はその様子を見て、思わずクスッと笑った。まるで漫画の「ガビーン!」のコマのようで、思わず頬がゆるむ。

「だが──出来なくても、近づけることならできる」

 良子は目元だけで笑みを深め、声を少し落として続けた。すると満里奈は肩で息をしながら、それでも子供のように目を輝かせる。

「ほんとにぃ~? 宙をピョンピョン飛び回るやつだよ、あれ!」

 良子は小さく息を吐き、首を横に振った。

「何か勘違いしているようだが、私は意味もなく宙を舞っているわけじゃない。敵の攻撃を避けるために、ああいう動きになっているだけだ。けれど、それも大木の根のように“体幹”がしっかりしているから可能なんだ」

 良子はそう言いながら、ふと目を細めた。
 満里奈と交わす、こんな取るに足らないやり取りでさえ、今の自分にはたまらなく楽しい。
 初めて会ったとき、満里奈は暗く、か細い声でしか答えられなかった。だが今は、目を輝かせ、怯えた様子も見せず、遠慮なく疑問をぶつけてくる。
 その変化が、良子には愛おしかった。
 いつしか満里奈は、自分の胸の奥で、欠かせない存在へと変わっていた。
 良子はその姿をしばらく見つめ、そっと息を吐く。

「今は辛いかもしれないが、基本のすべてはここにある。自然にその“体幹”ができるようになった時、お前は私の動きに近づくことができるだろう」

 満里奈は汗を滴らせたまま、拳を握って力強く頷いた。胸の奥で何かが弾けるように、次の一歩を踏み出す決意が固まっていく。
 その姿を見つめながら、良子は胸の奥で静かに思った。──大切にしたいと思う人間だからこそ、強くなってほしい。
 自分がいなくなっても、この過酷な世界で生き抜いてほしい。そして今、そのための力を自分が授けてやらなければ、と。





                ~To be continued~