良子は襲撃した奴らの後を追って、高速道路に車を走らせた。風切り音とエンジンの唸りだけが耳を打ち、視界の端を荒れた景色が流れていく。
 連中が何者なのかはまだわからない。だが──大量の銃器を所持していたという情報から、どこの拠点にいるか、おおよその目星は付いていた。

 この非常時に、あれほどの武装が可能な組織など限られている。警察か、軍か……あるいはその残党か。
 そして高速に乗ったのなら、この先のインターチェンジを降りたところに、県警の大きな施設がある。
 もし彼らが本当に警察官だったなら──最悪だ。秩序を失ったこの世界では、守るべき立場の人間があっけなく“狩る側”に回ることなど珍しくない。

 あるいは、避難所として開放したにも関わらず、心無い連中が暴動を起こし、主導権を奪ったのかもしれない。
 どちらにせよ、満里奈がそこにいる可能性は高い。

 ハンドルを握る手に、良子は無意識のうちにさらに力を込めた。
 胸の奥で、後悔が渦を巻く。

 ──あの時、なぜ一緒に連れて行かなかった。

 隣町の病院に単独で乗り込んだ自分の判断が、今さらになって脳裏を刺す。満里奈の意見を押し切り、ショッピングモールに残したのは間違いではなかったのか。
 もし一緒に連れて行っていれば、こんなことにはなっていない。良子は歯を食いしばり、アクセルを踏み込んだ。

 ──その頃。

 満里奈は、苛立った父親に理由もなく殴られていた。頬に走る痛みよりも、身体の奥に沈殿する冷たい恐怖のほうが重い。
 これくらいの暴力は、もう慣れきっている。驚きはしない──だが、身体は強張り、呼吸も浅くなる。

 ショッピングモールを襲ってきた奴らの中に、この男の顔を見た瞬間、全身が凍りついた。
 悪夢が現実に滑り込んできたようだった。束の間の平和など、やはり幻に過ぎなかったのだ。
 この男は、いつだってそうだ。ほんのわずかに安心した瞬間に、必ず現れてすべてを壊していく。
 まるで、私たちの安らぎをわざと踏みにじることを楽しんでいるかのように。

 この男が世界から消えることを、毎日のように願ってきた。
 だが、どれだけ祈っても叶わない。こんな世界になってさえ、奴はしぶとく生き延びている。
 そして今、そんな男を仲間にしている連中はきっと同じ穴の狢だろう──暴力と恐怖でしか人を支配できないクズたち。

 視界の端が暗く霞んでいく中、子供が殴られているというのに、ニヤニヤと笑って見ている連中の顔がぼやけて見えた。
 胸の奥で、怒りと絶望と、そして微かな希望がせめぎ合う。

 ──お姉ちゃんなら、きっと、こいつらを必ず退治してくれる。

 ぼやけた視界の奥、遠くで誰かが叫ぶ声がかすかに混じった。耳の奥で反響して、現実感がない。でも──お姉ちゃんはきっと来てくれる。満里奈は胸の中で小さな希望を抱いた。

 その願いが届いたかのように、“女”は空気を裂く気配とともに、ここの敷地に足を踏み入れた。

「どうなってんだ!? あの女、銃なんか全く効かねぇじゃねぇか!」

「弾を真っ二つにしたぞ! なんだあれ、アニメかよ!」

 怒号と悲鳴が飛び交う中、どす黒い殺気に塗れた“女”が、包丁一本だけを手にこちらへゆっくりと歩み寄ってくる。
 その姿は血の匂いと静寂をまとい、目が合った瞬間、誰もが息を呑んで硬直した。この世の物とは思えない禍々しさ──その場にいる全員が、死を覚悟するしかなかった。

 女はゆっくりと歩を進めながら、しかし確実に一人ひとりの息の根を止めていく。
 なぜ、こんな化け物を敵に回してしまったのか。ついさっきまで、この世界は彼らにとって理想郷だった。
 弱者を蹂躙しても咎める者はなく、欲しいものは奪い取るだけ。
 力こそが正義であり、銃器を手に入れた今、誰も自分たちに逆らえるはずがない──そう信じて疑わなかった。

 だが、その思い上がりは今まさに崩れ去ろうとしている。静かに迫る“女”の存在が、彼らの築いた虚構を一瞬で粉砕していた。
 その刹那に、彼らはようやく悟る。蹂躙される側に回って初めて知る、底のない恐怖──。人の命を奪うのなら、奪われることもあり得るのだ。
 胸を締め付けるような圧迫感、耳鳴りのように響く心臓の鼓動、そして空気を切り裂く足音。女は何も言わず、ただ確実に近づいてくる。その姿は死そのものの化身だった。

 2メートルをゆうに超える巨漢が、銃が効かないと悟るや否や、それを投げ捨て肉弾戦に賭けた。

「オラァァ!」

 決死の叫びとともに突進するが、女は冷笑を浮かべ、伸びてきた腕を片手で止める。

「……」

 次の瞬間、巨漢の身体は羽のように軽々と宙を舞った。
 轟音とともに飛ばされた身体は、地面に叩きつけられた瞬間、空気が破裂するような音を響かせた。血と内臓が床に散り、鉄臭い匂いが一帯を満たす。
 その光景を見た瞬間、誰もが悟った──この女は人間じゃない。このままでは自分たちも殺される。
 銃を構えていた手が震え、引き金を引くことさえできない。圧倒的な力を前に、殺される覚悟のない人間ほど弱いものはない。
 彼らは戦うことをやめ、我先にと逃げ惑った。場は瞬く間に地獄のような修羅場と変わる。

 そんな中で小柄なその女は、一歩一歩ゆっくりと進みながら、逃げまどう屈強な男たちを確実に仕留めていった。

 外から響く断末魔と破壊音は、厚いコンクリートの壁を震わせ、警察署の奥にまで届いていた。
 留置場の檻の中には、連れて来られた女たちが閉じ込められ、その中に婦人警官だった加奈子の姿もあった。
 市民を避難させるために開放したはずのこの場所が、どうしてこんな惨状になったのか。
 最初から質の悪い連中だとはわかっていた。だが、警察という立場上、どんなに道を踏み外した奴らでも拒むことはできなかった。結果、今や彼女自身が鉄格子の中の囚人だ。

 そして警察官とて全員が善人ではなかった。
 普段は善人の顔をしながら裏で悪事を働く者もいる。そんな連中が奴らが手を組んだ時点で、秩序などあっという間に崩壊した。
 鉄格子の外では、正義感の強かった警官たちが次々と「見せしめ」と称して処刑され、血の匂いが留置場にまで漂ってくる。
 若い女たちは奴らの欲望の捌け口とされ、奴隷同然の扱いを受けていた。加奈子の耳には、抑えきれない嗚咽や悲鳴が今もこびりついている。

 ──ここは地獄だ。

 希望などどこにもなく、いっそ殺された方が楽だと、何人もの女が逆らいもした。だがその度に奴らはさらに自由を奪い、蹂躙を重ねていった。
 鉄格子の冷たい感触が、絶望と屈辱をいやというほど思い知らせる。この世に神などいない──ここに閉じ込められた女たちは誰もがそう思っていた。

 その時だった。鉄格子の向こうに、一人の女が現れた。
 包丁ひとつを手に、銃を構えた屈強な男たちの間を縫うように歩き、血飛沫を上げながら、ひとり、またひとりと倒していく。
「力こそが全てだ!」と嘲笑って女たちに屈辱を与えていた男たちが、今は情けない声をあげて逃げ惑っている。

「助けてくれー! ……殺さない……で……ぐふっ」

 鉄格子の中でその光景を見つめていた加奈子の胸に、ざらりとした快感が走った。

 ──天罰だ。

 悲鳴と断末魔が響くたびに、胸の奥がスカッとしていく。鉄格子の中にいる女たちも皆、声には出さずとも同じ感情を抱いていた。
 絶望の底に、ほんの一筋の光が差し込んだ気がした。女は残っていた男たちを一蹴し、血飛沫を滴らせながら檻の前に立った。感情のない瞳がこちらを射抜く。

 そしてカギが掛かっているはずの鉄扉に、女の手がかかる。
「バキッ」という乾いた破砕音が響き、分厚い鉄が簡単にひしゃげた。
 ──この女は人間じゃない。誰もがそう思った。なのに、恐怖は微塵もなかった。ただ胸の奥に、言いようのない高揚がこみ上げてくる。

「……待たせたな」

 ぶっきらぼうな声が、静まり返った留置場に響く。返り血に塗れた顔、冷たい瞳、そしてうっすらと浮かぶ冷笑──その姿は悪魔にしか見えない。
 それなのに、檻の中の彼女たちには、空から舞い降りた女神にしか思えなかった。
 女はひしゃげた鉄扉を押し開け、ゆっくりと中に入ってきた。

「二日前、ここに連れて来られた連中の中に、女の子がいたはずだ。小さなリュックを背負っていた……どこにいったかわかるか?」

 その声は優しさも哀れみもなく、ただ事実だけを突きつけるようだった。
 檻の中の女性たちは、自由を得たばかりの震える指先で互いを見やり、やがて誰かがか細い声で答え始める──。

「……最上階の独房です。子供たちはそこに集められています」

 加奈子がそう告げると、女は短く頷くだけだった。

「……そうか、わかった」

 その声には感情らしいものはなく、ただ確認の響きだけがあった。女は血の匂いを残したまま、無言で踵を返し、鉄の扉を押し開けて歩き出す。

 そして去り際にひとこと言って振り返る。

「ここで待ってろ。すぐ戻る」

 その背中が見えなくなるまで、檻の中の女たちは息を殺して女を見送った──。

 ***

 同じ頃、警察署二階のモニタールームでは、その光景が鮮明に映し出されていた。
 監視カメラ越しに、包丁一本で暴徒を次々に屠っていく“謎の女”。初めてその女の映像を目にした時、立花は「これで奴隷が増える」と暢気に構えていた。
 しかし今、モニターの中の女は銃を持った連中を一蹴し、その動きはもはや人間の領域を遥かに超えていた。まるで軍神のように、冷徹かつ正確に殺していく。

 ここの連中を統括する立花は、本来ならこんな事態には自ら駆けつけるべきだった。だが、震える膝は一歩も動かない。
 ゾンビが蔓延る以前から、裏社会で数々の修羅場をくぐり抜けてきた。刃物も銃も恐れたことはない──それなのに、あの女だけは相手にしてはいけないと、本能が警鐘を鳴らしている。
 あれは人間ではない。いや、暴力という概念そのものを擬人化した化け物だ。
 かつて百人を超えた仲間たちも、今や最上階に籠もったごく少数を除き、誰ひとりとして生き残っていない。

 殺されることを覚悟して始めたことだ。だが、相手が「人間」でないのなら話は違う。
 立花は震える両手を胸の前で合わせ、今まで笑い飛ばしてきた神に、初めて本気で祈り始めていた──。
 その時、モニタールームの強固な扉が轟音とともに内側へ吹き飛んだ。
 爆薬でも仕掛けられたのかと思ったが、そこに立っていたのは包丁一本を持つだけの、細身の女。
 華奢な脚が鉄の扉を蹴り飛ばした──信じられるはずがない。

 ここは警察署の最後の要、爆薬でも簡単には壊れない造りのはずだった。それを、まるで玩具を壊すように蹴り一つで抉じ開けたのだ。

「……お前が、ここのリーダーか?」

 女の目が、無機質な光を放ちながら立花を射抜いた。
 悪でも正義でもない。そこにあるのは「仕事」や「作業」と同じ無感情さで命を刈り取る化け物の顔だった。
 どんな言い訳も、どんな命乞いもこの化け物には通じないだろう。敵に回してしまった時点で、この女に殺される運命だったのだ──立花にはそう確信していた。

 立花は手に持っていた拳銃の銃口をこめかみに押し当てる。
 そして「ああ……俺がリーダーだ」と答えると、薄く笑みを浮かべたまま、ためらいもなく引き金を引いた。
 鈍い銃声がモニタールームに響き、血と脳漿が壁を汚す。女はほんの一瞬、残念そうに目を細めたが、それ以上の興味は見せなかった。
 無言のまま踵を返し、モニタールームを後にする。立花が座っていた椅子だけが、ゆっくりと揺れ、キーキーと虚しく音を立てていた。

 ──その頃、最上階。

 飛び交う銃声と男たちの悲鳴が、厚いコンクリートを震わせて最上階まで届いていた。
 何かが起きているのは明らかだ。それでも満里奈の父・和樹は、ソファから動こうとしなかった。

「どうせ下の連中が処理してくれる……ここまで来るはずがない」

 そう呟き、震える手でタバコに火を点ける。
 最近この場所に身を寄せただけで、自分は誰かに恨まれるようなことはしていない──偶然見かけた娘をここへ連れてきただけだ。
 そう自分に言い聞かせながらも、尋常ではない気配が小心者の彼をじわじわと蝕んでいた。

 和樹は悪党と呼べるほどの男ではない。弱い者には強く出るが、敵わない相手にはすぐ屈服する──ただの小悪党だ。
 その狡さは家族に向けられ、DVという形で噴き出した。家という小さな城の中でだけ、自分は「王」でいられた。
 外であった嫌なことも、家族を力で屈服させれば忘れられた。

 あのショッピングモールで満里奈を見つけた時、再び「王」に戻れると思った。自分を見ただけで怯え、諂う娘の姿が、本来の自分を取り戻させてくれるはずだった。
 だが現実は違った。娘は「嫌だ!」とはっきり背を向け、しっかりとした意志を宿していた。あの弱々しかった娘は、もうどこにもいない。
 その変化が腹立たしくて、和樹は再び暴力に頼った。だがどれだけ殴っても、かつての恐怖は娘の瞳に戻らなかった。
 むしろそこには決意のような光が宿り、和樹は理由もなくぞっとした。

「……あの目はなんだ……俺のことを見下しやがって……」

 タバコの灰が膝に落ち、熱さに顔をしかめる。いったい何が娘を変えたのか。

「私にこんな事したら、ただでは済まないよ。お姉ちゃんはきっと助けに来てくれる。お前は天罰を受けるんだ!」

 ──満里奈がそう言っていた「お姉ちゃん」とは誰だ? そいつが原因なんだろうか。
 だが、女に何ができるというのか。ここに来たところで返り討ちにしてやればいい。

 押し寄せる不安を打ち消すかのように、和樹は満里奈の髪をつかみ、その腕にタバコの火を押し当てた。それだけで、胸の奥の不安が少し軽くなる。
 しかし満里奈は一瞬、険しい顔をしただけで、泣きも叫びもしなかった。
 さらに殴ろうと手を振り上げた瞬間──背後で空気が破裂するような音がした。次の瞬間、和樹の視界がぐるりと天地を逆さに回転する。
 強烈な衝撃が背中を打ち、身体が宙に浮く。何が起きたのかわからない。ただ床が遠ざかり、視界がゆがむ。

「満里奈、迎えに来たぞ。早く帰ろう」

「……お姉ちゃん!」

 鈍い痛みと耳鳴りの中、ようやく顔を上げる。独房の扉には確かに鍵をかけていたはずだ。
 そこに立つのは、見知らぬ華奢な女。血まみれの腕に包丁を握り、満里奈の肩をそっと抱いている。
 和樹の背筋を、氷のような恐怖が一気に駆け抜けた──。
 血にまみれた女の顔は、すでに自分に向けられた殺意に満ちている。どんな言い訳をしても、助かる道などないと直感した。
 女は満里奈をそっと座らせると、包丁を逆手に持ち替え、ゆっくりと和樹に向かって歩み出す。

「ま、待て! 俺は……俺は満里奈の父親だぞ!」

 震える声で叫んでも、女の足取りは止まらなかった。
 その目には父親だとか家族だとか、そんな人間のラベルは一切映っていない。ただ“敵”として見ているだけだった。
 和樹が逃げようと腰を浮かせた瞬間、女の膝が閃光のように走る。胸を打たれ、和樹の身体は床に転がり、息が詰まる。
 女は一歩で距離を詰めると、そのまま無言で和樹に馬乗りになった。包丁を逆手に構え、冷たい刃先が天井の光を弾く。

 その時、和樹は悟った。この女と自分には大人と子供以上の力の差があると。どんなに藻掻き、足掻こうとも身体はびくともしない。
 自分が力で屈服させられて、今まで娘の満里奈にしてきたことが、どんなに理不尽なことをしていたか初めて気付く。
 その瞬間、全身が震え出し、胸の奥にかつてない恐怖が広がった。

(……俺は、いったい何をしてきた?)

 良子の頭の片隅にも、別の像がよぎる。いくら屑でも、父親は父親だ。奪えば、満里奈はもっと傷つくのではないか──。
 刃が一瞬だけ宙で止まり、部屋の空気が凍り付く。和樹は安堵の吐息を漏らしたが、その瞬間、背筋に別の寒気が走る。

「お姉ちゃん、やっちゃっていいよ……そんな奴、父親じゃない」

 満里奈の声は低く、震えてさえいなかった。腫れた頬と血の滲む唇、その瞳だけが異様に澄んでいる。
 良子はその瞳を見て、すべてを悟った──これは私の意志ではなく、満里奈自身の決断だ。
 彼女は静かに包丁を床に置き、代わりに右手を振り上げる。そして一瞬のためらいもなく、和樹の喉元に鋭い手刀を叩き込んだ。
「ぐわっ!」という短い悲鳴ののち、和樹は苦しむ間もなく崩れ落ちる。ここに来るまでの惨殺と比べれば、あまりに穏やかな終わりだった。

 それは満里奈に、父親の無残な最期を見せたくないという──良子なりの、せめてもの恩情だったのだ。





                ~To be continued~