あの女──山田良子が現れてから、教団の空気は一変した。
 最初はただの気弱な女だと思っていた。だが、難しいオペをやすやすとこなし、あの疑い深い伊藤静香の心まで掴んでしまった。
 手術を目にした信者たちは「神の御業だ」口々にと囁き合う。こんな片田舎に、そんな医者がいるはずがない。──それにあの女は、まだ何か隠していることがあるはずだ。

 だからこそ『決して近づくな』と厳戒令を出した。だが、当の本人はどこ吹く風だ。
 誰とも目を合わせず、涼やかな顔で院内を歩き回る。その背中を目にするたび、背筋を氷の刃で撫でられるような恐怖が走る。
 ──何者なんだ、あの女は。

 その影響か最近では、隆元の様子までおかしい。会議の場で落ち着きなく視線をさまよわせ、まるで良子の視線に怯えているかのようだ。
 ……いや、違う。怯えているのではない。弱みを握られている──そう考えるほかに説明がつかなかった。

 そして極めつけは、秘密裏に行われた伊藤静香の娘のオペだ。
 手術は見事に成功し、こちらの切り札は完全に失われた。あれほど大事に隠していた最後の交渉材料を、奴はたった一晩で奪っていったのだ。
 他の幹部に問いただしても、誰もが狐につままれたように「知らぬ、存ぜぬ」を繰り返すばかり。
 その中でも隆元の態度は、あまりにも不自然だった。
 この件に触れた途端、奴は必ず口を濁し、黙り込む。──何かを隠している。あの女と通じているのは、もはや疑いようがなかった。

 このままでは危うい。手塩にかけてここまで大きくした教団が、あの女の出現でじわじわと狂い始めているのだ。
 放っておけば、信者たちの心まで侵され、取り返しがつかなくなる。
 ……ならば、決断するしかない。
 まずは瞑想部屋へ閉じ込め、粛清の対象にする。あの女にこれ以上好き勝手はさせない──。

 花岡は決断すると、隆元と静香を除いた幹部たちを会議室へ集めた。
 あの二人は山田良子と深く関わっている。確証こそ得られていないが、もはや裏切り者と見なすしかなかった。
 集められた幹部たちの表情は硬く、空気は張りつめている。良子の名を出すだけで、誰もが口を閉ざし、視線を交わそうとしない。

 花岡はそんな沈黙を切り裂くように口を開いた。

「……このままでは、教団そのものが腐る。手を打つのは今しかない」

 意を決して放った言葉だったが、幹部たちの反応は意外なものだった。うつむき加減で、分が悪そうに視線を逸らすばかりで、誰一人として口を開こうとしない。
 まるでそこに“もう一人の権威”が同席しているかのような沈黙だった。

 花岡は悟る──彼らの心に巣食っているのは恐れだ。あの女、山田良子の影が、確かにこの場を支配していた。

 このわずかな時間で、幹部たちまで取り込んだというのか。
 政治の裏側を渡り歩き、あらゆる黒い手管を知り尽くした自分でさえ、その手口が想像できない。
 得体の知れない存在感に、花岡の背を冷たいものが這い上がった。──このまま会議を続けても、どうせあの女に筒抜けになるだろう。
 また策を講じられれば、取り返しがつかない。もはや、秘密裏に自分ひとりで動くしかない。

 花岡は幹部たちの顔色を伺いながら、当たり障りのない話題へと話を逸らした。
 だが、その振る舞い自体が、すでに良子の思惑の一部であることに、彼はまだ気づいていなかった──。

 一方、静香は娘の命が救われたことに感極まっていた。
 病室でスヤスヤと眠る我が子を見つめながら、胸の奥で込み上げるものを必死に抑える。
 ──この恩には、必ず報いねばならない。

 良子の正体はいまだ掴めない。だが、あの女ならワクチンを作ることさえ可能だろう。
 自らの娘のオペに立ち会ったとき、その神がかり的な手腕を間近で見た。あれはただの天才ではない。
 人智を越えた存在──そう呼ぶほかになかった。

「術後の経過も良さそうだな」

 そう言って病室に入ってきた良子の姿を見た途端、静香は椅子を蹴るように立ち上がり、深く頭を下げた。
 良子はフッと微笑むと、眠る美奈の枕元に歩み寄る。
 そして小さな手を取って脈を確かめ、上下する胸の動きをじっと見つめる。

「もう、大丈夫だ。安心しろ」

 良子の言葉に、静香の瞳はたちまち涙で滲んだ。声にならない言葉で「ありがとう」と口の形だけを作り、また深く頭を下げる。
 ──この恩に報いずしてどうする。
 娘を救ってくれたこの人に、自分は何を差し出せるのだろうか。

「……貴女は、これからどうするの?」

 静香の声には恐る恐るながらも、強い決意が滲んでいた。だが、その問いに良子の表情がわずかに曇り、次の瞬間には鋭い視線が突き刺さる。

「……そろそろ花岡が動く。迎え撃つつもりだが、奴は必ずお前たちにも手を伸ばす。──気を抜くな」

 その言葉に静香は息を呑んだ。
 隆元を味方に引き入れ、オペを強行したことが奴の耳に届かぬはずがない。
 いずれ露見するのは覚悟していたが、相手が花岡となれば話は別だ。冷酷で狡猾なあの男を敵に回すのは、あまりに危うい。

 自分ひとりなら──ここから排除されても構わない。
 だが、術後間もない娘もいる。さらに自分が診ている患者たちを見捨てることなどできない。
 胸の奥に、不安が黒い影となって広がっていく。

「……花岡が?」

 静香はそう言って不安げに良子を見つめた。

「ああ……だが、お前たちに手を出させるつもりは無い。これは、奴らを自滅させる最後の一手に過ぎない」

 その声音には一片の迷いもなく、まるで花岡の出方すら計算に入れているかのようだった。
 静香はぞくりとした。どんなに狡猾な男でも、この女の前ではすでに掌の上で踊らされているのかもしれない──。

「私はその後、物資と機材を持ってここから出て行く。……お前たちも一緒に来るか?」

 良子の声音は淡々としていた。だが、それがかえって静香の胸を締めつける。
 今のこの場所は宗教という楔でかろうじて秩序を保っている。けれど、幹部たちを失えば、信仰するものを失った信者たちがどうなるか──誰にも予想できない。
 荒れ果てた病院で、娘を抱えて生き延びる未来を想像できず、静香は無意識に唇を噛んだ。

 ……逃げれば安全は得られるかもしれない。けれど、その瞬間、自分はここに残された患者を見捨てることになる。
 それだけはできない──医者である自分の誇りが、決断を許さなかった。

「私は……ここに残るわ」

 静香の声は震えていたが、その瞳には確かな覚悟が宿っていた。
 良子はしばし黙し、彼女の目を真っすぐに見つめる。逃げるのではなく、残って背負うことを選んだ──その意思を確かめるかのように。

 やがて、フッと口元に笑みを浮かべた。期待通りと言わんばかりの、満足げな笑顔だった。そこには、静香を認めたかのような信頼の色があった。

「そうか……なら、お前がここを守ればいい」

 冗談めかしているようで、良子の目は真剣そのものだった。
 静香の胸にざわりと重いものが落ちる。自分はただの医者に過ぎない。派閥も力もない。そんな自分に、ここにいる人間たちをまとめることなどできるのだろうか。

「……私が?」

 震える声で問い返した静香に、良子は迷いなく頷いた。

「ああ。お前は、自分が思っているよりずっと頭がいい。それに、この腐った世界で最も欠けているもの──人を想う心を、ちゃんと持っている」

 その言葉は、重くもあり、同時に胸の奥を温かく照らす光でもあった。静香は不思議な気分だった。
 自分よりも若く見えるこの女が、まるで何十年、何百年と積み重ねてきた人生を背負っているかのような重みを放っている。
 彼女の言葉には、不可能に思えることですら実現できるのではないか──そんな希望が、胸の奥から芽生えてくる。
 静香は決意を固め、良子を鋭く見据えた。

 その瞬間、背後から冷ややかな声が響いた。

「……もう、お前の自由にはさせない」

 振り向いた瞬間、花岡が数人の信者を従えてドアを勢いよく開いた。連れている男たちは、いずれも屈強で、腕っぷしに自信があるのが一目でわかる。
 静香は反射的に娘のベッドの前に立ちふさがり、震える膝を必死に堪えながら睨みつけた。
 だが、その隣で良子は薄く微笑み、花岡に向かってゆっくりと一歩を踏み出した。

「随分な余裕だな?」

 強がって放った言葉とは裏腹に、花岡の顔にはこわばりが走っていた。威圧するつもりでここに踏み込んだのに、良子は少しも動じる気配がない。

 それどころか白衣のポケットに手を入れたまま、目前に立ち、牽制するように口を開く。

「──他の幹部たちは来なかったんだな?」

 皮肉めいたその一言に、花岡の眉間がピクリと揺れる。
 良子の態度は、あからさまに彼を見下すものだった。
 返す言葉を失った花岡が視線をさまよわせる様子を、良子は冷たい瞳でじっくりと観察していた。

「お前こそ、こんな所に来ている余裕があるのか? ──他の幹部たちは、もう次の段階に進んでいるぞ」

 思わせぶりな声音に、不気味な笑みが重なる。その一言が花岡の胸をざわつかせた。
 幹部たちの不自然な態度は、弱みを握られているだけではなく、何かもっと大きな理由があるのかもしれない──。

 喉の奥が渇く。良子の落ち着きと、揺るぎない太々しさが、花岡の理解をじわじわと侵食していった。

「お前はいったい何者なんだ!? 何を企んでいる!?」

 叫び声は裏返り、動揺が隠しきれない。その震えは周囲の信者たちにも伝わり、ざわめきが広がった。

 ──滑稽だ。

 幾ら元政治家の秘書として裏側の世界を覗き見てきたところで、今では落ちぶれた、地方の宗教団体の幹部にすぎない。
 彼が必死に守ろうとしているものは、あまりにも小さく、脆弱だ。
 自分がかつて目の当たりにしたヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリンやアドルフ・ヒトラ──―人類史を狂わせた怪物たちと比べれば、花岡などただの泡沫。
 その威勢も、歴史の闇に沈む砂粒ほどの価値もない。

「花岡……お前は何もわかっていない」

 良子は静かに告げた。

「こんな事態になれば、人間の本性が剥き出しになる。最も恐れるべきは、王でも支配者でもない。──大衆だ」

 言葉の意味を掴めず、花岡の喉がヒュッと鳴る。必死に意図を探ろうとするが、答えはどこにもない。
 冷たい汗が頬を伝い落ち、呆然とした目で良子を見つめるしかなかった。

「……何が言いたい?」

 途方に暮れた声で問い返す花岡。その姿を見て、良子はニヤリと口角を吊り上げた。まるで──そんなことも分からないのか、と嘲笑うかのように。

「花岡……お前は、私が幹部たちに何かをしたと思っているようだが、大きな間違いだ」

 言葉を区切りながら、良子は一歩、また一歩と花岡へ歩み寄る。

「私が仕掛けたのは──幹部じゃない」

 一瞬の沈黙。花岡の喉が再び鳴る。

「……な、何だと……?」

 良子の笑みはさらに深まった。

「私は『教団そのもの』に種を撒いたのだ」

 その不気味な響きに、場の空気が一気に凍りつく。誰もが言葉を失い、ただ良子の存在感に押し潰されそうになっていた。
 花岡は息を呑み、目を大きく見開いたまま、口をパクパクさせる魚のように声を失っている。

「……な、何をした!」

 掠れるような声を振り絞る花岡。良子は一歩前に出て、静かに告げた。

「希望を失った世界で、人は神にすがる。だが──もし、その神よりも確実に『救い』をもたらすものがあるとしたら……人はどうすると思う?」

 花岡の顔色がみるみる青ざめる。唇が震え、やっとの思いで声を絞り出した。

「……ワ、ワクチン……か?」

「そうだ。私はお前以外の幹部たちに、ワクチンの独占の話を持ち掛けた。そして同時に、彼らがワクチンを独り占めしようとしていると──信者たちに噂を流した」

「そ、それは……でまかせだろう!」

 花岡の声は上ずり、背後の信者たちにまで響いた。だが、彼らの表情には動揺の色が浮かんでいる。
 良子はそれを見ながら静かに肩をすくめる。

「でまかせであろうと構わないのだよ。何故なら──それを作ることができる人間が、私以外にいないのだから」

 その言葉に、信者たちの間からざわめきが漏れた。花岡の否定よりも、良子の確信めいた声音が重く響き、その場を支配していった。
 この女なら本当にワクチンを作ることができるかもしれない──。そう思わせる何かが、この女にはある。

「お、お前……本当にワクチンが作れるのか?」

 花岡の問いは、もはや懇願に近かった。良子は薄く笑みを浮かべ、首を横に振る。

「そんなことはもうどうでもいい。……火蓋はすでに切って落とされたのだから」

 その直後、廊下の奥から複数の足音が響き、怒号が飛び込んできた。

「幹部たちを捕えろ! ワクチンの独占を許すな!」

 怒りに駆られた信者たちの叫び声が病棟に轟く。花岡は血相を変え、必死に口を開こうとした。

「ま、待て! 誤解だ! 私は──」

 だが、その言葉を遮るように、良子の低い声が重なった。

「花岡……お前は気づかなかったのか? 信者たちの心は、もうお前らから離れている。……もはや手遅れなのだよ」

 数名の取り巻きを従えていたところで、所詮は大衆の奔流には抗えない。
 花岡たちは、なだれ込む信者たちに押し倒され、怒号と罵声の中、縄のような布で縛り上げられてどこかへ連れ去られていった。
 やがて、暴徒の先頭に立っていた信者のひとりが振り返り、良子の前で深く頭を垂れる。
 その仕草には、もはや花岡ではなく「良子こそが指導者」だと認めているかのような敬意が込められていた。

「ご苦労……」

 良子は小さく呟き、まるで予定通りの結末を確認するかのように目を細める。
 一部始終を目撃していた静香は、声も出せずに立ち尽くしていた。──この女はいったい、どこまで計算していたのだろうか。
 地味で目立たぬただの女にしか見えないのに、狡猾な知略までも隠し持ち、あの花岡をも陥れたのだ。歴史に名を残した偉人ですら、この才の片鱗すら持たなかっただろう。

「今から、お前がここのリーダーだ」

 振り返った良子はそう言いながら、にこやかに笑った。あの時に言った「そうか……なら、お前がここを守ればいい」という言葉は、すでにこの状況を見越していたのだ。
 底知れぬその脅威に身を震わせながらも、静香の胸には不可解な感情が芽生えていた。
 恐怖と畏怖と、そしてかすかな希望が、ひとつに混じり合って押し寄せてくる──この女と共にいる限り、自分たちにも未来があるかもしれない、と。

 気づけば、静香は小さく頷いていた。握りしめた両手が、わずかに震えていることにも気づかないままに。





                 ~to be continued~