山田良子は24歳。だが、その年頃の女性とはどこか違っていた。
 地味な服装に、印象の薄い顔立ち。まるで、世界の視線から自分を消そうとしているかのようだった。
 彼女には人には言えない秘密がある。──それは、平安の時代から千年以上も生き続けているということ。
 一つの場所にとどまらず、誰にも気づかれぬまま、地球上のさまざまな土地を渡り歩いてきた。
 しかも彼女は人間ではない。遥か彼方の惑星からやってきた、正真正銘の異星人なのだ。
 宇宙船の墜落によって帰還の術を失った彼女は、平安の世からこの現代まで、姿を隠しながら人類に紛れて生きてきた。
 故郷の惑星から救助が来ることはない。それは、あの星の住人たちが、良子と同じく“他者に無関心”な存在だからだ。
 帰るあてのない良子は、今、現代日本の片隅にある市場の八百屋で、仮の名前でひっそりと働いている。
 本当の名前は、ハイドロ・マーメリック。色とりどりの野菜に囲まれながらも、彼女の心には何も映っていなかった。
 できるだけ人と関わらずに生きてきた良子にとって、「人の感情」は、遠い星には存在しなかった“温度”のようなものだった。

 そんなある夜、古びたアパートの自室でふと目を覚ますと、外が異様なまでに騒がしかった。
 サイレンがひっきりなしに鳴り響き、誰かの悲鳴が、かすかに夜気を裂いていた。窓の外では、生気を失った死者たちが這い回り、生者を襲ってはその数を増やしていた。
 だが、良子の胸には、何の感情も湧いてこなかった。驚くこともなく、ただ静かにカーテンを閉じると、良子は再び布団の闇に身を沈めた。
 明日が来ることさえ、どこか面倒に感じているだけで、襲われることへの恐怖も、未来への不安も、彼女の中には存在しなかった。

 明け方近くに目を覚ました彼女は、いつものようにシャワーを浴び、淡々と身支度を整える。
 ただし今日は、いつもの作業着ではなく、ラフな服にリュックという装いだった。まるで、どこか遠くへ向かうかのように。
 この街での暮らしも、もうすぐ一年になる。そろそろ次の拠点へ移るべき頃合いだった。混乱の広がるこの状況は、良子にとってちょうどいい“きっかけ”にすぎなかった。

 台所から包丁を二本抜き取ると、彼女は静かにアパートの外へ出た。
 路地を徘徊していた死者たちが、彼女の姿を見つけるなり、呻き声を上げて一斉に襲いかかってきた。
 紫色に変色した顔、垂れ流す涎──。良子はそれらを一瞥しただけで、面倒そうに手首をひねり、あっさりと首を飛ばした。その動きは、まさに二刀流の剣術の達人──いや、宮本武蔵さながらだった。
 彼女の力、それは“一度見ただけで、あらゆる技を自分のものにする”万能の学習能力。二刀流の剣術も、かつて江戸時代初期に出会った武蔵から学び取ったものだった。

 次々と襲いかかるゾンビたちを、良子は眉一つ動かさず、流れるような所作で次々と斬り伏せていく。
 敵の群れを寄せつけぬその身のこなしは、まるで静謐な舞のように優雅で、そして残酷だった。無造作に束ねた黒髪のポニーテール、Tシャツにジーンズという動きやすい格好も、すべてはこの瞬間のためだったのだ。

 そのとき、少し離れた場所から、かすかに悲鳴が聞こえた。

「助けて! 助けてください!」

 声の主は、幼い少女を抱えた母親だった。母親の肩にはすでにゾンビの牙が食い込み、血が流れていたが、それでも必死に少女を庇い、抱きしめている。
 良子は足を止めた。助けようという気持ちはなかった。ただ、それがたまたま通り道だったというだけ。
 だから彼女は、母親に喰らいついていたゾンビの首を、無言で跳ね飛ばした。

「この子を……お願いします……」

 母親は、血を吐きながらも最後の力を振り絞ってそう言った。間もなく彼女も死に、ゾンビと化すのは明らかだった。

「お母さん! お母さん!」

 幼い少女が必死に縋りついて泣き叫ぶ。だが、良子の顔色は一つも変わらない。

「……なんで私が」

 ぽつりと呟いたその声に感情はなく、冷たい風にすら紛れてしまいそうだった。その直後、母親は静かに息を引き取った。
 あと数分も経たずに、母親はゾンビと化し、この子に襲いかかるだろう。良子は小さく舌打ちし、無言のまま少女を抱き上げた。
 それでも少女は「お母さん!」と泣き叫びながら、手足を必死にバタつかせている。──そんな人間の感情が、良子にはわからなかった。
 万能の学習能力があっても、彼女はそれを学ぼうとすらしない。たとえ身体の構造は人間とよく似ていても、良子の故郷では「母親」とはただの“生んだ存在”にすぎなかったのだから。

 未だにその幻想にすがるこの小さな生き物が、良子にはただ煩わしく思えた。
 ゾンビの姿が消えた通りに差しかかると、彼女は少女を地面に下ろし、そっけなく言い放った。

「それじゃあ、私はこれで──」

 こなままだと、この子はすぐに死ぬだろう。だが、それは良子にとって取るに足らないことだった。
 ……だがその瞬間、少女が泣き叫びながら、ゾンビの群れのいる方向へと走り出した。

「待ちなさい……なんで、わざわざ死にに行こうとするんだ?」

 少女は立ち止まり、振り返る。その目には涙が浮かび、震える声で答えた。

「だって……お母さんが……」

 良子は無表情のまま、低く言い放つ。

「お前の母親はもう“死んでいる”。今近づけば、あいつらと同じように、お前を襲ってくるだろう」

 良子は無機質な声で言い放ち、感情の宿らない瞳で少女を見つめた。少女はその場に崩れ落ち、しゃくり上げながら号泣した。
 それでも、小さな体は震えながら立ち上がり、母親の姿を求めて視線をさまよわせていた。
 まるで、そこに“まだ何かがある”と信じて疑わないかのように。

 良子は、その様子を黙って見つめていた。

 ──どうして、そこまで誰かを求めるのか。

 良子の中には存在しないはずのその“衝動”に、彼女は一瞬だけ思考を止めた。理解できない。けれど、どこか胸の奥でざらつくような違和感が残った。

 そのまま背を向けようとした瞬間、少女が小さく、しかしはっきりと呟いた。

「必ず助けに来るからね……待ってて!」

 その声は、か細いのにどこまでも真っ直ぐで、良子の背中に鋭く突き刺さった。瞳には確かな炎が灯っていて、迷いも、疑いもなかった。
 この無力で小さな存在が、“死んだ人間を助ける”と、本気で信じている──。

 この小さな生き物の、勇敢とも無謀とも取れる姿は、良子にとって衝撃だった。

「名前は?」

 問いかけても、返事はすぐには返ってこない。しばらくして、少女は小さな声で「満里奈」と名乗った。

「ついてくるかい? ──こんな状況でも、私といれば“生きる術”は教えられる。……それに、もしかしたらお前の母親を助ける手立てが見つかるかもしれない」

 それは、良子にとってほんの気まぐれな言葉だった。この少女が、現実を知ってどう変わっていくのか──ただ、それを見てみたいというだけの。
 だが満里奈は、その中のたった一言──**「母親を助ける手があるかもしれない」**という希望に、瞳を輝かせた。
 十中八九、それは叶わない。
 それでも、良子はその“ありえない願い”にすがろうとする満里奈に、なぜか興味を覚えていた。

 ──遥か昔。
 別の惑星でも、似たような光景を見たことがある。死にゆく世界の中で、小さな命が大きなものを求めてあがいていた。
 だがその惑星は、一年も経たずにすべての生命を失い、やがて死の星と化した。地球も、遅かれ早かれ同じ運命を辿るだろう。

 良子は、かつて海の底に沈めた飛行船を引き上げ、どうにか修理して、この星を脱出するつもりだった。

 その時、彼女の差し出した手を、満里奈の小さな手がギュッと握る。不気味な呻き声が響く道を、二人は手をつないだまま歩き始めた。






                 ~to be continued~