はぁ、と大きな溜息が勢いよく水が流れる流し台へ落ちていく。
バイト中なんだから溜息なんて吐くな、と言われても仕方がないが、幸いにも俺の周りには提供する料理を作る音で満ちているから、溜息なんて誰も気に留めていない。それを良いことに、もう一度重たい息を落とした。
バイト上がりの前のラスト一時間は大体、食洗器に入れる前の食器の下洗いとトイレ掃除、というのが決まっている。だから俺にとっては、この時間が最も憂鬱だった。
溜まりに溜まった食器とカップを軽く洗う作業の時は、いつも余計なことを考えてしまうのだ。接客やホール業務だったら、別のことを考える暇なんてほとんどないのに。無心で洗おうとしても、ポンポンと余計なことが頭を巡ってくる。
璃空が知らない人と親しげに歩いているのを見てから、もう半月が経とうとしている。結局俺は、これだけ経ってもあの人のことを聞けていない。メッセージだったら聞けるかも、と思うのに、指はその文字を打つことを躊躇って動かないまま、別の言葉にすり替わってしまう。
メッセージや電話のやりとりはしているけれど、その話題は全く出せていないし、予定が合わず実際に面と向かって話してもいない。
でもかえって、予定が合わなくてよかった、とも思う。
もし璃空と実際に会ってしまえば、きっと態度に出てしまう。あの璃空相手に、隠し通すのは至難の業だ。だからもう少し自分の中で落とし込めるまで、時間が欲しい。
そもそも、だ。
俺は何をこんなにグジグジと悩んでいるのだろう。『ユキちゃん』と呼ばれていた彼のことを、璃空に聞いてしまえば万事解決する。いや、どうだろう。そこからまた何か悩み始めるかもしれない。というか、璃空の口から『ユキちゃん』とやらの話を聞くのが、なんとなく嫌だ。思ったより元気そうで安心した、という言葉から察するに、結構気にかけている相手であるということは確かだ。もしかしたら頻繁に会う相手ではないのかもしれない。少なくとも、俺は彼に会ったことがないし、璃空から彼の話を聞いたことがない。あーもう。またぐるぐる考えてるし、モヤモヤし始めてる。
ふーっと、息を落とす。
璃空に直接聞くのは無理でも、俺よりも璃空と付き合いが長い縁なら、もしかしたら何か知っているかもしれない。幸いにも縁は地元には帰っていないはずだ。あんまり家好きじゃないんだよね、と縁は言っていたし、彼氏の家に行くこともよくある、と聞いているから。
よし、連絡してみよう。
そう決めたら、早かった。驚くほど軽くなった思考と体に合わせて、俺は上がりの時間まで作業に集中した。
「お疲れさまでした~」
制服から私服に着替えてスタッフルームから外へ飛び出す。
まだまだ熱気があふれている道に顔を顰めながら、スマートフォンを取り出す。日陰にいる内に縁に連絡を、と思ったところでお目当ての縁から「彼氏と喧嘩した!! 洸んち行っても良い!?」と連絡が入っていた。意外だ。一度だけ彼氏に会ったことがある――というか、縁が彼氏を連れてバイト先に来てくれた――のだが、類友と言えばいいのか、縁の彼氏もすごく穏やかそうな人に見えたのに。一体何を喧嘩したのだろう。
ぱっと時刻に目を向ける。16時。じゃあ19時には確実に家にいる。了解の旨と着く時間を教えてくれ、とメッセージを送ってから、駅に向かって駆け出した。
電車に四駅分乗って、大学の最寄り駅にたどり着いた頃、縁から19時くらいに着く、と連絡が入った。とりあえず宅飲み用の諸々を、スーパーに買いに行くか。そう決めて、駅を出た時だ。
「洸くん?」
かかった声に振り返る。その先には、何の偶然か、山川さんがキャリケースを片手に立っていた。
「え、想実さん? 珍しいね、駅で会うの」
「ホントに。洸くんはバイト帰り?」
「うん。想実さんは……、旅行、かな?」
「惜しい。旅行から帰ってきたとこ」
そっか、と言ったところで、頭にハテナマークが浮かぶ。山川さんは実家暮らしのはずで、帰ってきた、とするならこの駅にいるのは可笑しい。首を傾げた俺に気付いたのか、嗚呼、と笑われた。
「私、8月の後半から大学の近くで独り暮らし始めたの」
「へぇ~! じゃあ冷蔵庫空っぽか。いろいろ買わなきゃだね」
「うん。だからスーパー寄って帰ろうと思って」
「そうなんだ。俺今からスーパー行くけど一緒に行く?」
言った後にハッとする。なに普通に誘ってんだ俺は。普通に考えて、別れた男と行くの嫌に決まってるだろ。そう思ったのに、意外にも山川さんは、笑って頷いた。
ゴロゴロというキャリーケースのタイヤの音が追いかけてくるのを聞きながら、二人で並んで歩く。
「洸くんはこの辺詳しいの?」
「まあ、想実さんよりはね。ちょっと駅から歩くけど、今から行くところ結構安いからおすすめなんだ」
「助かるなぁ。私全然この辺詳しくないから」
来たばかりの頃は俺もそうだったなぁ、と思う。幸いにも俺は歩くのは苦ではないから、いろんなところを歩き回った結果、いろんな場所を見つけることが出来た。おいしい定食屋とか、パン屋とか、八百屋とか。でも結局多用するのはスーパーだ。色んなものが安い、色んなものが一気に揃う学生の味方なのである。
15分ほど歩いてたどり着いたスーパーは、それなりに込み合っている。夕食前の時間だし、当然と言えば当然だ。そういえば璃空にはよく買い物手伝ってんだよなぁ、とふと思い出した。璃空、今頃何してんだろ。と思ったのと同時に、またあの『ユキちゃん』が頭を過る。
「洸くん? どうかした?」
ハッと意識を戻すと、買い物かごを持った山川さんが不思議そうな顔をしている。青果コーナーに突っ立っていたらしい。何でもない、と言おうとして言葉を止める。山川さんに相談してみてもいいだろうか。事情を知らない人の方が、案外いいアドバイスをくれることもある。
「想実さん、ちょっと変なこと聞いてもいい?」
「? どんなこと?」
「親友がさ、自分の知らない人と話してるの見て、なんかモヤモヤするのって、なんだと思う?」
ぱちぱちと山川さんの長いまつげが上下する。そして、彼女は当たり前のように言った。
「単純に、嫉妬と独占欲じゃない?」
嫉妬と独占欲。
え、という声が漏れたのは、俺にとってはまさかの答えだったから。それを親友に抱く、というのが俺の思考の範疇になかった。
「嫉妬と独占欲」
山川さんの言葉を繰り返せば、うん、と素早く肯定された。何も入っていない買い物かごをお互いに持ちながら、見つめ合う。
俺が璃空に、というよりも、『ユキちゃん』という人に嫉妬している。確かにそう考えれば、辻褄は合う。いや、合いすぎる。逆に何故気付かなかったのか、と思うのが自然だ。でも、と思う。
「でも嫉妬と独占欲って、親友に対して抱くもの?」
「必ずしもってわけじゃないけど、あり得るとは思うよ」
「そいつが別の親友と一緒にいるときは、別に何とも思わないのに?」
縁と一緒にいて談笑してる璃空を見ても、何とも思わない。仲良しだな、と思うくらいで、その会話に自分が入っていなくても良い。街中で二人だけで会ってるのを見たとしても同じく、仲良いな、と思うだけだ。
「関係値の問題もあると思うけど。あと、その別の親友には恋人がいる?」
「いるけど、それ関係あるか?」
「あるよ。つまり洸くんは、親友とその別の親友が一緒にいても、二人が恋人になる、っていう可能性は無意識にゼロにしてるでしょ?」
ハッとした。山川さんの言う通りだ。
璃空と縁が恋人同士だった過去はあっても、もう一度彼らが恋人になることはない、と頭のどこかで確信している。璃空に縁への気持ちがないのと同様、縁も今は別に恋人がいる。心変わりなんて簡単にすると解っているのに、でもあの二人がどれだけ気が合っても恋人になることはないと、俺は何故か思っているから。
確かに、と頷いた俺を、山川さんがじっと見てくる。それが探るような目線で、居たたまれなくなった俺は、な、なに? と問いかけた。
「洸くんがその親友と知らない人を見た時、どこに嫉妬と独占欲をもったのか気になって。どこに持ったかによっては、親友として、じゃない可能性もあるから」
私と同じで、と彼女は困ったように笑った。
妙に説得力がある言葉だった。俺は、山川さんが彼女の親友に恋をしているのを知っているから余計に。
つまり、山川さんはこう言いたいのだ。
俺が、璃空に恋をしているのでは、と。
いやいやそんなまさか。頭の中で否定する。そんなことがあり得るのだろうか。だって俺は璃空に告白をされてやっと、ついこの間まで親友だった璃空を恋人として見るようになったのに。まっさかぁ、なんておどけた俺に、山川さんが追随する。
「じゃあ洸くんはどこに嫉妬したの?」
「え、えーっと。上手く言えるかわかんないけど。親友が、なんかすごく嬉しそうでさ。俺に向ける顔とか声とかとは、なんていうか、甘さ? うーん、やわらかさが違う気がして」
あの時の璃空の顔は明らかに緩んでいた。俺に対してよりもずっと自然に顔をほころばせていたように思う。
「なんで俺には向けてくれないんだ、って思った?」
ドキリとしたのは、図星だったから。それが山川さんにも伝わったのだろう。彼女は屈託なく笑った。
「やっぱり、私と同じかも」
俺が、璃空に恋をしている。
改めて自分の中にその言葉を響かせたら、すとん、と腹の底まで納得できた気がした。もともと俺は璃空が好きだったけれど、恋愛的な意味でももう好きだったのか。何度もその事実を噛み砕いた途端、顔と体が勢いよく熱くなった。
真っ赤になったのが自分でもわかる。咄嗟に両手で顔を隠した。諸々の恥ずかしさで死んでしまいそうだった。少し考えれば分かることを気付かないふりしていた自分への恥ずかしさと、真っ赤になってしまった顔を一瞬でも山川さんに見られたであろう恥ずかしさと。
くすっと笑った声に、余計に恥ずかしくなって、俺は力の入ってない声で、笑わないで、というしかなかった。
「ふふふ、ごめんね。洸くんが真っ赤になったのがかわいくて」
「全然うれしくない。むしろ恥ずかしすぎて、今なら立ったまま死ねそう」
むり、と蚊の鳴くような声しか出ない俺を、堪えきれないと言わんばかりの笑い声が包み込んでいた。
その時だった。
急に腕を引かれて、体が反転する。何があったのか一瞬理解できずに視線を向けた先。
「……は? 璃空?」
たった今話題に出ていた璃空が立っていた。すべての感情をそぎ落としたような無表情が、俺ではなく山川さんを見ている。
「え、……はっ? なんでお前此処に?」
普通に考えれば、璃空は此処にはいない。バイト先が大学の近くだからと言っても、このスーパーは大学とは違う方向にあるし、璃空は実家暮らしで俺と約束をしていない限り、此処には来ない筈だ。なのに、どうして。
璃空は質問に答えなかった。ただ、山川さんを見下ろして黙ったまま。咄嗟に見た山川さんは、やはりというべきか驚きで目をぱちくりさせている。
「洸のこと振ったくせに、洸にちょっかい掛けんな」
突如、氷水のような声が璃空から発せられた。のも束の間、腕を思い切り引かれて俺の体は勝手に動き出す。
「は? おい! 璃空!」
腕を掴む力があまりにも強くて、この態勢では振りほどけそうにない。
ってか、すごい失礼なこと言っただろコイツ。大体振ったのは俺で、彼女じゃない。そう言ってもきっと聞きやしないだろう。とにかく、と首だけで振り返った俺は、声を少し張って言った。
「想実さん、なんかごめん! 気にしなくていいから!」
引き摺られるようにして入口に向かった俺を見送った山川さんが、両想いってわけね羨ましい、と肩を竦めて笑っていたのを、知る由もなかった。
持っていた買い物かごを乱暴に入口の前で戻されてもなお、俺の体は引き摺られるようにして璃空の後を追っている。さっきまでスーパーにいたのに、あっという間に璃空に連れられて、夜道を歩かされているのだった。
なんだか段々ムカついてきた。
おい、とその肩を掴む。すると、案外すんなりと足を止めた璃空に、危うくぶつかりかけて寸でのところで踏みとどまった。あっぶね、と声を出しても、璃空は前を向いたまま俺を見ようともしない。
「おい、璃空。お前どうしたんだよ。あんなこと山川さんに言ったら失礼だろ」
璃空は相手に礼儀を欠くようなことは、余程のことがない限りしない。去る高二の夏に邪魔をした俺には当然の態度だったが、山川さんはただ俺と話してただけだ。なのにあんなに敵意剥き出しにするなんて。
璃空は、相変わらず黙ったまま背を向けている。怒っているのはなんとなくわかるが、何に対して怒っているのかが分からなかった。
「黙ったままじゃわかんねーだろ。なんか言えよ」
とにかく顔を見たくて肩をもう一度掴むけれど、璃空は動かなかった。その代わりと言わんばかりに、掴まれた腕が痛いくらいに握り締められて思わず顔を顰める。
「…………ょ」
「あん? なんつった?」
何か小声で言ったのは分かった。でも、聞き取れずに聞き返す。ぎり、と奥歯を噛んだ音がしたと同時に、璃空が勢いよく振り返る。その顔に浮かんでいたのは、怒りではなかった。どこか苦しげな痛そうだと思う表情で顔が歪んでいた。
「なんで、山川さんと二人であそこにいたんだよ」
「なんでって、買い物くらいするだろ」
何を当然のことを、と言い返したら、ハッと璃空が笑った。
「キャリーケース持って? 洸んちに泊まりでもするために?」
「はぁ? んなわけねーだろ。あれは旅行の帰りで、」
「だれと」
「俺が知るかよ。友だちとじゃねーの?」
「へー、友だち。友だちね」
妙に棘のある言い方だった。そこで、はたと気付く。璃空は疑っているのだ、と。俺と山川さんは本当にただ駅で会って買い物をしようとしてただけなのに、二人で旅行に行ってきたんじゃないかと。そう疑っているわけだ。
ふつ、と湧いてきた怒り。どうにか腹に押しとどめようとしながら、口を動かす。
「俺と彼女のために言っとくけど、山川さんとはバイト帰りに駅でたまたま会ってスーパー行っただけだ。それ以外の何物でもない」
それでも璃空は納得できないのか、視線を合わせずに自嘲気味に笑った。
「それにしては『想実さん』と『洸くん』って、随分親しげだったけどな」
お前が、それを言うのかよ。俺の知らないところで、俺の知らない人を『ユキちゃん』なんて親しげに呼んでたお前が。それを、言うのか。
堰き止めていたはずの怒りが、一気に全身を駆け巡った。もう自分で制御なんて出来るはずのない怒りが、濁流みたいに全身を飲み込んでいくのを、他人事のように認識した。
