花束を胸に抱えた母の背中を追いかけて、階段を登る。
俺の両手には掃除道具の入ったバケツと、水道水を入れた2リットルのペットボトル。その後を線香と新聞紙、マッチを持った姉が続く。辿り着いたのは、香村家と書かれた墓石の前だ。
「春くん、今年も来たよ」
母が花束を添えながら墓石に向かって話しかける。その横で、ペットボトルとバケツを置いてから、中身を取り出した。一年ぶりだがざっと見たところ、定期的に見回ってくれる人がいるおかげか、あまり汚れていない。
母が言う『春くん』は正式には春希で、俺の父の名前である。
俺の父は、既にこの世を去っている。俺が小学生の時だから、正直あまり記憶にない。だけど、大きな手で頭を撫でてくれたのは何故かよく覚えている。声はもう覚えてない。沙希は父によくに懐いていた、と母が言っていたから、もしかしたら覚えてるかもしれない。聞いたことはないけれど。
お盆に毎回帰ってくるのは、こうしてみんなで墓参りに行くのが理由の一つにある。毎年恒例になっているから、社会人になってもできる限りこの時期だけは、実家に帰って来たい。何よりも、家族が揃うと母が嬉しそうだから。
テキパキとバケツに少しの水を入れて、雑巾を固く絞る。雨で跳ねた泥が付いた場所を、軽く箒で払ってから雑巾で拭く。その間に姉と母が手分けして、持ってきた花束を花挿しに生けてくれた。
全部きれいにし終わった頃、線香の香りが漂ってくる。黒ずんだ雑巾を袋に入れて、近くの側溝にバケツの水を流しきったのと、姉が声を掛けてきたのはほぼ同時。
「洸、これ。洸の分」
「ん、さんきゅ」
バケツを置いてから、線香を受け取る。
青い空へと立ち上っていく線香の細い煙を見送って、墓石の前に立つ。手を合わせている母の横から線香皿へと線香を入れて、俺も目を閉じて手を合わせる。
父ちゃん、今年も来たよ。元気? こっちは相変わらずみんな元気だよ。俺も変わらず元気でやってる。それと。
ぱちりと目を開ける。頭に浮かんだのは、璃空の事だ。まだ母にも言ってない。けれど父には報告しておくべきか迷って、もう一度目を閉じた。
恋人が出来ました。男って言ったら父ちゃん驚くかもだけど、高校の時から仲良くしてくれてて、すごく良いやつだよ。心配しないで、出来れば見守っててくれたら嬉しい。
自由奔放で柔軟な母と結婚した父のことだ。恋人が男である事には驚くと思うけれど、猛烈な反対とかはしないと思う。よく考えてお前が決めたならいい、って言ってくれる。気がする。分からないけれど。
不意に風が吹いて、背中を撫でられる。吹き抜けていった風は、俺たち家族の髪を揺らして走り抜けていった。
「あ、今の風、お父さんかなぁ」
「そうね、春くんだったら嬉しいわね」
父のことになると夢見がちになる母は、姉の言葉にそう言って笑った。
父が亡くなった当初、母は泣く暇もなく俺たちを女で一つで育てなければならなかった、と祖母から聞いている。想像の域を出ないが、本当に死ぬほど大変だったと思う。俺が大学に通えるのも、早々に手に職をつけた姉と懸命に頑張ってくれた母のおかげだ。出来る限り、その恩返しが出来たらいい。
「そろそろ帰ろう。急な雷雨来る予報だし」
「うん、そうね。春くん、また来るから」
「お父さんまたね~!」
行きと同じように荷物を持って、腕を組んで歩く姉と母を追いかける。墓を彩る花が、俺たちを見送るように風に揺れていた。
掃除道具の入ったバケツと水を積んで、トランクを閉めた時だった。ポケットに入れたスマートフォンが振動しているのに気付いて、取り出す。画面を見れば璃空からの着信だった。
「洸~、私とお母さんちょっと飲み物買ってくるから、車乗ってて~!」
「りょーかい」
数十メートル先の自販機に歩いていく二人背中を見送りながら、通話ボタンを押す。
「もしもし」
「あ、洸? 今大丈夫か?」
「うん。どうした? なんかあった?」
璃空が電話してくるのは珍しい。大抵のことはメッセージで事足りてしまうから、よほどの緊急事態か、急ぎで確認したいことがあるのかと身構えた。のだが。
「いや、ごめん。大した用事はないんだけどさ」
息を零すような笑いと共に、そんな言葉が耳に届く。なんだそれ、と思わず笑ってしまった。エンジンのかかった車に乗り込みながら、言ってやる。
「お前からの電話珍しすぎて、一大事かと思ったわ。心配して損した」
「ごめんって」
「いや別にいいよ。何もないなら良かった」
心なしか声が弾んで聞こえるのは、多分気のせいではないだろう。何かいいことでもあったのだろうか。璃空が嬉しそうだと、自分まで気分が高揚するから不思議だ。
「洸、今何してた?」
「俺? 俺は家族と父ちゃんの墓参り来てた。今終わって帰るとこ」
「……、えっ、洸ってお父さん亡くなってるんだっけ!?」
驚いたような声に笑って答える。
「随分前にな。てか、あれ? 言ったことなかったか?」
「今初めて知った」
確かに思い返してみると、家族の話をすることはあまりなかったかもしれない。高校の時も、お互いの家に遊びに行くことなんてほとんどなかったし、考えてみれば璃空の家族構成もほとんど知らない。もっぱら話していたのは、話題のゲームか課題か、マンガの話だったな、と思い出す。
「そういえば、俺も璃空の家族のこと、兄ちゃんがいるってことくらいしか知らねーかも」
「俺は、洸に姉ちゃんがいることは知ってる」
「あれ? 言ったことあったっけか?」
「ううん、俺が一方的に知ってるだけ。洸のこと家まで送った時に窓から手振られたことある」
マジで姉ちゃん璃空のこと見てたんだな、と思ったのと同時に、一昨日言われたことを思い出す。
――アンタが家に入るの見届けてから帰ってたよ
急激に顔に熱が集まって何も言えなくなる。こんな時に思い出すなんて。沈黙を不思議に思ったのか電話口から、洸? と呼び掛けられた。
「お、お前さ」
「うん?」
「……やっぱ良い! 今度会ったら直接話す!」
急に話題を終了させた俺に、何それ気になる、と電話の向こう側で笑われた。
クソッ! なんかめちゃくちゃ恥ずかしいな、これ!
ただの友だちとしか認識していなかった時とは全然違う。璃空の行動一つ一つが、俺の為なのかもしれない、と思わされてなんだかむず痒くて仕方ない。ただの自惚れだったらそれはそれで恥ずかしいのだが。
とりあえずこれだけは言っておかないと、と口を動かす。
「てか、今度はお前の家族構成とか聞かせろよな」
「もちろん。洸が知りたいならいくらでも」
なんでコイツこんなに余裕あるんだろう。
そう思わなくもないが、経験値の差ということにしておくことにする。悲しいかな、璃空と俺には、月とすっぽんと言っていいくらい埋められない差があるのだから。でも過去に戻れたら恋愛の経験値が欲しいかと言われても、たぶん俺は同じ生活を送る。恋愛よりも璃空や縁といた時間の方が、きっと大事な気がするから。
「あ、そういえばさ、洸は今日自分ち帰るんだっけ?」
「おぅ。明日からバイトあるし」
「そっか。じゃあダメか」
「え? ダメって何の話?」
話が見えてこなくて聞き返せば、うーんと、と少し言いにくそうに璃空は言った。
「今日近くの神社で地元の祭りがあってさ、もし洸が明日までいるなら一緒にどうかなってて、さ」
「あぁ! 高校の時お前と縁と行ったやつか。懐かしいな」
たった一度だけ行ったことがある。高三の夏休み。夏期講習を受けたついでに冷房の効いた教室で勉強した俺たちは、その帰りにたまたま張り紙を見つけて、制服のまま三人でその神社に繰り出したのだ。たこ焼きやらベビーカステラやら、焼きそばやら。各々が好きなものを買って、射撃なんかもやったりして、大はしゃぎしていたのを思い出す。
「そうか、ちょうどこの時期だったな」
「うん。だからどうかと思ったんだけど」
「正直すんごい行きてーんだけど、実は明日のバイト朝から頼まれちまってさぁ」
本当は昼出勤の予定だったのだが、一人欠員が出てしまったらしい。実家に帰って来る前に、朝から出勤してくれないか、と頼まれたのだ。もしも先に祭りがあると気づいていれば、絶対にバイトを断ったのだが。めちゃくちゃ惜しいことをしてしまった。
「まじでごめん。昼からバイトだったら確実に行ってた」
「いや俺こそごめん。もっと早く誘えばよかったな」
その声がすごく残念そうなのが分かるから、悪いことしたなぁ、と少し凹む。なんでバイトいれちまったんだ俺。てかもっと近くのとこのバイトにすれば良かった。洒落たカフェがいい、なんていう理由で選ぶべきじゃなかった。いや、時給が良いからっていう理由もあるけど。
「あ~、璃空と行きたかったなぁ。夏祭り」
璃空と行ったら絶対に楽しいに決まっている。そういえば今年の夏は、それらしいイベントに何一つ行ってない。いや、アクアリウムは行ったけど、あれはノーカンだ。凄いいい思い出かと言われるとそうでもないし。花火か祭りは行っておきたかったけれど、このままイベントなく終わってしまいそうだ。
そう思ってぼやいた俺に、璃空が小さく笑った声が鼓膜を擽った。
「じゃあさ、来年は絶対行こ」
その璃空の声を聴いた途端、心臓が鷲掴みされたように苦しくなった。甘く溶けた声が鼓膜から心臓まで届いて、痺れた心臓から伝染するように頭のてっぺんからつま先まで、しびれるような感覚。そのあとを追いかける熱に、浮かされてしまいそうになる。
「お、おう。絶対な。約束だぞ」
「はは、うん。約束な」
どもった上に早口で返してしまった。相変わらず璃空は余裕があって、やわらかな笑い声を寄越してくる。どうしたらそんな平然としてそんな声が出せるんだ。まるで自分が自分じゃないみたいな感覚を、どうやって往なしたらいいんだ。璃空ならわかるんだろうか。でもうまく説明できる気がしないから、直接聞いたりは出来ないけれど。
「あ、ごめん、洸。下で母さんが呼んでるから一回切るわ」
「お、おう。じゃあ……、またな!」
「うん。また電話する。帰り気をつけてな」
ばいばい、という声と共に通話が切れる。
じわじわと熱くなっていく頬を早く冷ましたくて、冷気の吹き出し口に顔を寄せた。当然車に戻ってきた母には「熱中症? 大丈夫?」と心配されたし、姉にはニヤニヤされた。
姉が買ってきてくれた麦茶をごくごくと飲んで、俺はひたすら黙秘に徹したのである。
結局、雷雨にはならなかった。
雲が多いおかげか、夕方の今、暑さは幾分かマシになっている。一応年末はまた帰って来るつもりだと言えば、母も姉も頷いて笑ってくれた。何かあったらいつでも帰ってきなさい、という言葉に見送られて、俺は実家を後にして駅へと向っている最中である。
駅までの道すがら、ちらほら浴衣姿で歩いている人たちが何組か歩いていた。きっと璃空が言っていた夏祭りに行くのだろう。
そういえば、璃空は家族と行ったりするのだろうか。璃空から家族のことを聞くことはほとんどなかったから、仲が良いのかもよく知らない。でも電話の最中でも呼ばれたらちゃんと行くあたり、それなりに仲は良いんだろう。そもそも実家から通っているのだから、仲が悪いわけがないか。
そう自己完結して、たどり着いた駅の階段を上る。
とりあえず飲み物を売店で買っていくか、と改札の方へ目を向けた時だった。
「あれ? 璃空? ……と、誰だ?」
昼前に電話で話していた璃空は、改札の近くで誰かと話しているようだった。咄嗟に見たもう一人は男で、璃空より背が低く、璃空の髪よりも暗い焦げ茶色の髪の人だった。兄弟だろうかと思ったのは一瞬。兄弟にしては顔が全く似ていないのだ。
璃空がカッコいい系イケメンに分類されるとしたら、知らない男の人はかわいい系イケメンに分類できる。一瞬、友だちの縁に見えたが、よくよく見てみれば似ているだけで、縁ではない。
二人は笑顔を絶やさず立ち話をした後、並んで歩き始めた。
こっちに来る。
そう思って咄嗟に近くの売店に駆け込んだ。
ドクドクと昼間とは違う嫌な音が心臓をずっと揺らす。璃空は俺には気付かずに売店の前を、知らない誰かと通り過ぎて行った。その時に辛うじて聞こえたのだ。璃空の声が。
「ユキちゃん、思ったより元気そうで安心した」
それは、俺に向ける声と似たやわらかさを持っていた。いや、もしかすると俺に向けるものよりも、もっとやわらかだったかもしれない。
俺は売店の冷蔵庫の前で、立ち尽くして動けなかった。結局電車を一本逃して、予定よりも20分も遅くの電車に乗るしかなかった。
来年の保証なんてどこにもなかったんだ、と帰りの電車の中で俺はふと思った。
来年行こうと言い出したのは璃空だけれど、それが叶わない可能性だってある。そもそも、来年まで恋人でいられる保証なんてない。っていうかユキちゃんって誰なんだ。分からない。少なくとも同級生ではないのは確かだった。
差し掛かったトンネルで、窓に映った自分。何とも情けない顔をしていた。
唐突に姉の言葉を思い出す。
恋の寿命は三年。
俺が振り向いたから、もういいやとなったのだろうか。璃空に直接聞くことだって出来たのに、俺にはできなかった。メッセージを打とうという気持ちも湧いてこない。
遠くの方で雷が鳴っているのをぼんやりと聞きながら、俺はただ電車に揺られていた。そのうち降り出した雨が、電車を乗り換えるまでずっと窓を強く叩いていた。
